まだ名前のない、きみの隣

 文化祭一日目の片づけが終わった頃には、外はもう夕方になっていた。付箋で埋まったパネルは、そのまま残す。ペンだけ回収して、机を整えて、窓を閉める。最後に、教室の電気を消した。

「真帆、夜中に展示直しに来たりしないでね」

 廊下に出ると、莉子が笑いながら言った。

「流石にしないよ」

「本当かなあ。じゃあ、私は先に帰るね。また明日」

「うん。また明日」

 修也たちも帰っていった。廊下に残ったのは、私と晴だけだった。文化祭のあとの校舎は、静かだった。

「真帆。私たちも帰ろっか」

「うん」

 頷いて、二人で階段を下りる。校門を出ると、夕方の空にはまだ明るさが残っていた。雨は降っていない。だけど、あの日のことを思い出す。同じ道。同じ二人。あの時は、晴が一人で先に歩いていった。でも、今日は隣にいる。

「真帆。話、どこでする?」

「……歩きながらでもいい?」

 その方が、晴の顔を見なくて済む。卑怯かもしれない。でも、そのくらいならちゃんと話せそうだった。

 晴は「いいよ」と言い、しばらく二人で歩く。今日言うことは、何度も考えた。最初に何を言うか。どこまで言うか。どう言えば晴を傷つけないか。でも、それだけでは足りないことも分かった。相手がどう感じるかは、相手に聞かなければ分からない。

「晴、昨日の続きなんだけど……」

 ようやく言った。晴は急かさなかった。心臓がうるさくて、私は一度息を吸う。

「私……晴のことが、好きかもしれない」

 言った。晴に向けて、ちゃんと言った。世界は何も変わらない。道を車が通る。少し遠くで、自転車のベルが鳴る。夕方の風が、制服の袖を揺らす。そして隣には、晴がいる。

「……かもしれないんだ」

 晴が言った。

「うん」

「そこは、まだ?」

「うん……」

「そっか」

「ごめん……」

「謝らなくていいよ。むしろ、真帆が今いきなり『好きです』って断言したら、そっちの方がびっくりするかも」

「何それ、どういう意味?」

「だって、昨日まであんなに悩んでたのに」

 晴の声が弾んだ。それを聞いて、肩の力が抜ける。前を向いたまま、私は続けた。

「友達としてだけじゃない……とは思う。それはたぶん……もう、分かる」

 そう言うと、晴が黙った。自分で言って、胸が苦しくなる。七海といる晴が気になった。彼氏ができると想像するだけで嫌だった。修也と出かけても、何度も晴のことを考えた。晴が泣いたとき、誰かにその場所を渡したくないと思った。

 晴が男の子だったら、もっと簡単だったのに。そう思うほど自分自身のことまで、考え始めた。

「それでも、晴と付き合いたいのかって聞かれたら……まだ分からない。晴とキスしたいのかとか……」

 言った瞬間に、顔が熱くなった。晴の顔が見れなくて、慌てて視線を外す。何で私は、そこまで口にしたんだろう。晴は黙っていたけれど、耐えきれなくなったように吹き出した。

「真帆、そこまで考えたんだ?」

「だって、検索したら出てきたから……!」

「検索」

「恋愛感情の見分け方みたいな」

「本当に調べたんだ……!」

「笑わないで」

「笑ってない」

「笑ってる!」

「ちょっとだけ」

 晴が肩を揺らしながら、口元を押さえる。

「ごめんって、真帆らしいなって思っただけ」

「しょうがないじゃん、何でも調べれば分かると思ってたから」

「それで、答え出たの?」

「出なかった」

「だろうね」

「晴!」

「ごめん……!」

 晴は私を見ないまま、おかしそうに口元を隠していた。横を軽く睨んで、私は続ける。

「付き合うって、何するんだろうって思う。だって一緒に帰るのは、もうしてるし。メッセージもするし。休日も、水族館行くし」

 そこまで言って、一度言葉を探す。

「恋人になって、何が変わるのか……分からない。だから……」

 ここから先が、怖かった。ふいに声が小さくなる。

「もし晴が、ちゃんと好きって言えないなら嫌だとか、恋人になる気がないなら、そういうこと言わないでほしいって思うなら……」

 晴の足が止まった。数歩先へ行きかけた私も、慌てて足を止める。振り返ると、晴が真っすぐこちらを見ていた。

「真帆」

「……うん」

「私、そんなこと言った?」

「……言ってない」

「じゃあ、勝手に私の答え作らないでよ」

 強い声ではなかった。でも、逃げ道を作るような笑い方もしなかった。

「真帆、私の気持ち、まだ聞いてないでしょ」

 胸の奥が大きく鳴った。またやった。自分の答えだけでは足りなくて、晴の答えまで先に考えて、安全な場所を作ろうとしていた。

「ごめん」

「だから謝りすぎ」

 晴が小さく息を吐く。それから、少しだけ困ったように笑った。

「今度は私の番ね」

 その言葉で、身体が固くなった。聞きたい。ずっと、聞きたかったはずなのに。いざ晴がこちらを向いて、自分の気持ちを話そうとしていると、怖かった。

 晴はすぐには続けなかった。視線を落として、靴のつま先で小さく地面を擦る。晴にも、言葉を探す時間がある。そんな当たり前のことを、私は初めて見ている気がした。

「私も……」

 晴が言った。一度、そこで止まる。

「真帆のこと、たぶん友達としてだけじゃない」

 息をするのを忘れた。聞こえた言葉を、頭の中でもう一度なぞる。友達としてだけじゃない。心のどこかでは、期待していた。そうだったらいいと思ったこともある。でも、想像していたものと、晴自身の声で聞くものは全然違った。

「……たぶん?」

 やっと出た言葉が、それだった。晴が顔を上げる。

「だって、真帆だけずるくない? 真帆だって『好きかもしれない』じゃん」

 少し拗ねたような声に、思わず笑った。晴も笑う。それから晴は、止めていた足をゆっくり前へ出した。私もその隣へ並ぶ。

「私も、ちゃんとは分かんないんだよ。なんでこんなに真帆のこと気にするのか」

 歩きながら、晴がまた前を向く。声が、さっきより小さかった。

「牧野と写真展行くって聞いたとき、嫌だった」

「だからメッセージ減ったの?」

「……少し。今考えると、だいぶ子どもっぽいけど」

「でも私も、七海のことで晴を避けた」

 そう返すと、晴がこちらを見る。

「やっぱり、あれ七海だったの? なんとなくそうかなとは思ったけど……」

「七海には、ばれてた」

「あいつ、そういうところだけ変に勘いいんだよね」

 晴が苦笑する。少しだけ、空気が緩んだ。でも、晴はまた言葉を探すように黙った。

「あと……牧野と付き合ってないって分かったとき、安心した」

「……文化祭で気まずくならないから?」

「それもあったけど」

 晴はすぐにはこちらを見なかった。声が落ちる。

「それだけじゃない。真帆が誰かと付き合うの、嫌だった」

 晴が一度、唇を結ぶ。胸の中で何かがほどけた。でも、嬉しいと言ってしまうのが怖くて、黙った。

「それに、七海と仲いいの気にされるのも……ちょっと嬉しかったし」

「晴、それは意地悪じゃない?」

「真帆に言われたくない」

「ごめん」

「ほらまた」

 晴が笑った。今度は、私も笑った。

「それに真帆って、私のことになるとたまに変じゃん」

 晴が続ける。

「変?」

「七海のこと気にするし。牧野とデートしてたはずなのに、写真送ってくるし。私が何か言うだけで、すぐ黙るし」

「……それは」

「うん。分かってる。真帆はいつも考えてるけど、私のときはちょっと違う。それが分かると……嬉しかった」

 晴はそこで、ほんの少し照れたように目を逸らした。何も言えなかった。目の奥が熱い。言葉を探しているのに、すぐには出てこない。でも今度は、それを悪いことだと思わなかった。たぶんこういうときは、黙っていてもいい。

「だから」

 晴が言う。

「友達としてだけじゃないとは思う。でも、それを恋って言っていいのかは……私もまだ分かんない」

 その言葉に、心の中が静かになった。思っていなかった。晴なら、自分のことはもっと簡単に分かっていると思っていた。

「晴も?」

「も、って何」

「だって晴、何でもすぐ決めるから」

「私だって分かんないことくらいあるよ」

 不満そうに言ってから、晴はまた黙った。だけど今度の沈黙は、不安ではなかった。

「私さ。誰かをちゃんと好きになったこと、たぶんないんだと思う」

 晴がぽつりと言う。

「……私も」

 そう返すと、晴が小さく笑う。

「だから今ここで、真帆と恋人になりたいって言い切れるかって聞かれたら、やっぱり分かんない。でも」

 晴が私を見る。

「真帆と一緒にいたいのは、分かる。真帆が誰かと付き合うのは嫌だし。私のこと特別に思ってくれたら嬉しいし」

 晴は言ってから、恥ずかしくなったように顔を逸らした。

「……真帆も何か言ってよ」

「今、考えてる」

「知ってる」

 晴が笑った。その笑顔を見たとき、不思議なくらい安心した。

「……よかった」

「え?」

「晴も分からなくて」

 ついこぼすと、晴の眉が寄る。

「それ喜ぶ?」

「私だけじゃなかったから」

「ああ、そっちね」

 晴は納得したように頷いた。そして、少し考えてから笑った。

「真帆も私も、答え出てないね」

「うん」

「文化祭の企画、そのままじゃん」

「そうだね」

 二人で笑った。答えが出ていない。なのに、さっきまでよりずっと、不安ではなかった。

 目の前の信号が赤になって、二人で立ち止まる。今日は雨がない。晴の透明な傘も、私の折り畳み傘もない。ただ二人で並んでいる。

「そういえば、文化祭の質問なんだけど」

 晴が少しだけ言いづらそうに、こちらを見る。

「『好きな人に好きと言わないことは、優しさですか』ってあったじゃん。あれ、私が書いた」

「……晴が?」

 思わず聞き返す。あの質問が増えたのは、私が『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか』と書いた、そのすぐあとだった。晴がゆっくり私を見る。

「真帆のは、『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか』でしょ」

「……うん」

「やっぱり」

「どうして分かったの?」

「真帆、ずっとあれ見てたから」

 それだけだった。晴は何でも分かっていたわけじゃない。ただ、私を見ていた。

「晴は、あれ書いたとき……言わない方がいいと思ってたの?」

「うん」

 晴は少し考えてから頷いて、視線を前へ戻す。

「牧野のこともあったし。真帆、女の子をそういうふうに好きになるなんて考えてなさそうだったし。言ったら困らせるかなって思ってた」

「……でも、今は?」

「今?」

「言わない方がよかったって思ってる?」

「それは思ってない」

 晴は少しだけ笑った。その笑顔に、胸が温かくなる。

「真帆は?」

『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』

 あのときは、それが怖かった。だけど文化祭で、誰かが書いてくれた言葉を思い出す。友達だった時間は消えない。恋人になっても、ならなくても。それが今なら、少し分かる。

「今は……友達じゃなくなるとは思ってない。恋人になるかは、まだ分からないけど。友達だったことまでなくなるわけじゃないから」

「じゃあ二人とも、書いたときとはちょっと変わったね。まだ正解かは分かんないけど、書いてよかったとは思ってる」

 そう言ってから、晴の口元が緩む。

「私も」

 二枚とも、答えはまだ出ていない。それでも書いたときよりは少しだけ、その先へ来ていた。

 信号が青へ変わった。電子音に促されるように、私たちはまた歩き出す。白い線を一つずつ越える。隣には晴がいる。少し前までと何も変わらない距離で、同じ速さで歩いている。

 横断歩道を渡りきったところで、晴が足を止めた。私も止まる。

「真帆。これから、どうする?」

 そう言って、晴が首を傾げる。一番難しい質問だった。付き合う。友達のまま。恋人未満。名前をつけない。頭の中へ、知っている言葉がいくつも浮かんだ。恋人とは何か。付き合うとは何か。友達以上とは、どこからなのか。以前の私なら、たぶん一度持ち帰った。検索して、比べて、誰かの体験談を読んで。それから一番間違いのなさそうな言葉を探した。

「……分からない」

 晴は黙って待っている。胸の中がざわついた。それでも、今度はそこで終わらなかった。

「でも……一人で決めたくない」

 口にすると、晴の表情が止まった。

「私が晴をどう思ってるかは、私が考える。だけど、私たちが何なのかは……私だけで決めることじゃないと思う」

 言い切った。怖かった。自分の答えを持っていないまま、誰かの前へ差し出すことが。でも晴は、すぐには何も言わなかった。考えている。その時間を、今度は私が待った。やがて晴が言う。

「じゃあ……一緒に考える? 私たちが何なのか。一緒に考えることだけなら、今決められるでしょ」

 その言葉を聞いた瞬間、肩から力が抜けた。答えは出ていない。たぶん、明日になっても出ていない。それでも私は頷いた。

「……うん。一緒に考えたい」

「じゃあ、それで決まり」

 晴が笑った。私も笑う。私たちが何なのかは、まだ分からない。でも、その分からなさを一人で抱えなくていいことだけは、決まった。

 駅はもう近かった。帰宅する人たちが、私たちの横を次々に通り過ぎていく。遠くから電車の走る音が聞こえる。晴もまた歩き出した。私も隣へ並ぶ。さっきまでと同じくらいの距離。肩も触れていない。制服の袖のあいだには、ほんの十数センチの隙間がある。

 それなのに急に、その距離が気になった。もう少し近くにいたい。そう思った瞬間、自分で驚いた。何度も検索した。会いたいと思うか。触れたいと思うか。キスしたいと思うか。付き合いたいと思うか。あのときは、一つずつ答えを探そうとした。でも今、分かったことはもっと小さかった。

 晴の隣を歩いていて。その手に、触れてみたい。それだけだった。

「……晴」

「何?」

 声が喉につかえそうになる。言わなくてもいい。駅まではもうすぐだ。このまま帰っても、何も困らない。それでも。

「手……つないでみてもいい?」

 言った途端に、顔が熱くなる。あとになって、どこを見ればいいのか分からなくなった。晴も目を丸くしている。数秒。返事がない。

「でも、嫌なら――」

「嫌じゃない」

 私の声に、すぐに晴の声が重なった。顔を上げる。晴も、少しだけ頬が赤かった。

「……ほんと?」

「うん」

 晴が手を差し出す。いつも見ていた手だった。バスケットボールを持つ手。質問カードを並べる手。ピンクのリップを持っていた手。何度も隣にあったのに、こんなふうに意識して見たことはなかった。

 私も手を伸ばす。指先が触れた。その瞬間、反射的に止まりそうになった。触れただけなのに、心臓が痛いほど鳴る。晴の指が、ほんの少し動く。待つように。私はもう一度、手を伸ばした。

 今度は逃げなかった。晴の手のひらと、私の手のひらが重なる。指が重なる。晴が握った。私も握り返した。

 温かかった。ただ、それだけだった。

 手をつないだだけ。恋人ならすることなのかもしれない。友達でも、する人はいる。これだけで、私たちの関係に名前がつくわけではない。それでも、つないでみたいと思った。

「……真帆」

「何?」

「顔、赤い」

「……晴も」

「暑いから」

「もう夕方だよ」

「じゃあ、真帆と同じ理由」

「何それ」

 照れたように笑い合って、私たちはまた歩き出す。今度は、手をつないだまま。駅へ向かう人の流れの中を、二人で歩く。歩幅はさっきまでと変わらない。景色も変わらない。明日も文化祭がある。それが終われば、また普通の授業が始まる。

 私たちが何なのかは、まだ分からない。それでもつないだ手だけは、駅が見えてきても、どちらからも離さなかった。

◇

 翌日の文化祭二日目は、昨日よりさらに多くの人が教室へ来た。壁の付箋は、時間が経つほど増えていった。私と晴が書いた問いにも、違う答えがいくつも並んでいる。

 言わない方が優しいこともある。でも、言わないと分からない。友達のままでもいられると思う。分からないなら、急がなくていい。

 昨日までの私なら、その中から一番正しそうなものを探したかもしれない。今日は、そうしなかった。矛盾している答えが同じ壁に貼られていても、落ち着かなくはなかった。

 どれか一つだけを、正解にしなくてもいい。そう思えること自体が、昨日までとは少し違った。

「晴ー、来たよ。あっ、真帆もいるじゃん」

 聞き慣れた声に顔を上げる。入口に七海が立っていた。バスケ部の子を二人連れている。

「ほんとに来た」

「来るって言ったでしょ」

 七海が晴の肩を軽く叩く。晴も笑って、その手を払いのける。そのやり取りは、やっぱり自然だった。一瞬だけ、前にも同じような光景を見たことを思い出す。何かを測ろうとする癖が動きかけた。でも、そこで止まった。

「これ、晴たちが作ったんだよね?」

 七海がパネルを見上げる。

「うん。真帆と」

 晴が何気なく答えた。たったそれだけの言葉なのに、胸が少しだけ温かくなる。

「じゃあちゃんと見よ。晴がどれだけ働いたのか確認しないと」

「なんで上からなの」

 二人が笑う。私はその横で、一緒に笑った。七海たちはゆっくりパネルを見て回った。ときどき付箋を指さして話し合っている。晴も途中までついていって、三人と何か話していた。

 私は受付に戻って、新しい付箋を補充する。少ししてから「真帆」と呼ばれて顔を上げた。晴が戻ってきていた。

「こっち、緑もう少ない。補充する?」

「うん」

 晴が箱を持ち上げる。私もその横へ並んだ。昨日までと同じ作業だった。付箋を並べて、足りないものを足して、剥がれかけた紙を押さえる。ただ、それだけ。

 でも昨日、晴と手をつないだことを思い出した。今は触れていない。触れていなくても、昨日のことがなくなったわけではない。

 やがて七海たちが教室を一周して、受付に戻ってきた。

「思ったよりちゃんとしてて、面白かったよ。じゃ、晴。また部活でね」

 七海が手を振る。それから、私の方にも手を上げた。

「真帆も、またね」

「うん。またね」

 三人が廊下へ消えていく。私はその背中を見送った。以前なら、晴と七海がどれくらい仲がいいのか。自分より長く晴を知っているのか。晴はどちらといる方が楽しいのか。そんなことを、一つずつ比べたかもしれない。今は、しなかった。

「真帆」

 隣で晴が、私の制服を指先で突いた。

「何?」

「そろそろ受付交代して休憩行かない? クレープ食べたい」

「晴、クレープ好きなんだ」

「知らなかった? 結構好き」

 晴が笑う。私も笑った。七海と晴には、私の知らない時間がある。それは、これからもきっと増えていく。それでいい。晴と七海の時間があることと、私と晴の時間があることはもう、同じ秤に載せなくてよかった。

◇

 文化祭が終わった。最後の来場者を見送り、壁いっぱいの付箋を一枚ずつ外していく。パネルが運び出され、机が元の位置へ戻される。何か月もかけて作った教室が、少しずついつもの二年二組へ戻っていった。

「終わっちゃったね」

 隣で莉子が言った。

「真帆、寂しい?」

「……少し」

「ほんとに? 真帆、実行委員あんなに嫌がってたのに。でも、いい企画だったね」

「うん」

 今度はすぐに答えられた。少し離れたところで、シャッターの音がした。見ると、修也がカメラを構えていた。付箋のほとんど剥がされた壁。片づけ途中の机。まだ端に残っている装飾。

「……それ、撮るんだ」

「うん」

 話しかけると、修也はファインダーから目を離した。

「全部片づけたら、ただの教室になるから。その前に一枚」

 またシャッターが鳴る。始まる前でも、完成したときでもない。終わりかけの教室。修也らしいと思った。

「修也。写真展、誘ってくれてありがとう」

 そう言うと、修也が驚いたように動きを止める。

「……今?」

「うん。今言いたくなったから」

「そっか」

「あの日……私、修也と行けば何か分かるかもしれないって思ってた。それは、よくなかった。でも……」

 修也は何も挟まなかった。あの日のことを思い出す。写真を見て、話をして、カフェへ行った。晴のことを考えるためだけの一日ではなかった。

「楽しかったのも、本当だったから。それはちゃんと、そういう思い出にしておきたい」

 修也はしばらく黙っていた。それから、小さく笑った。

「じゃあ、そうしとけばいいよ。俺も楽しかったし」

 修也が笑った。私も笑う。少しして、修也はもう一度カメラを構えた。シャッターの音だけが、片づけ途中の教室に響く。その距離が、今はちょうどよかった。

 最後に、あの質問をパネルから外す。

『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』

 さっきまで何十枚もの回答が、その周りを埋めていた。変じゃない。分からない。好きになったなら、それでいい。そんな簡単に決められない。いろんな言葉の中に、昨日貼られた小さな文字も残っている。

『私も、まだ分かりません。』

 私は外した付箋を、一度だけ指で押さえた。分からない、と書かれた答え。前なら、答えになっていないと思ったかもしれない。今は違う。この問いを消さなくてよかった。分からないまま、ここに置いておいてよかった。

「真帆」

 片付けを終えて振り返ると、晴が鞄を肩に掛けて立っていた。

「来週、水族館ね」

「覚えてるよ」

「ほんとに?」

「晴じゃないんだから」

「私も覚えてるって」

 晴が笑う。あの約束をしたのは、私たちが一番うまく話せなくなる少し前だった。それでも、なくならなかった。

「じゃ、帰ろうか」

「うん」

 二人で並んで、教室を出る。廊下には、まだ片づけをしている生徒たちの声が残っていた。二日間だけ貼られていた装飾が外され、見慣れた校舎へ戻っていく。階段を下りていると、スマートフォンが震えた。母からだった。

『今日は何時ごろ帰る?』

 返信欄を開く。

『友達と帰ってる』

 そこまで打って、指が止まった。間違ってはいない。晴は友達だ。昨日までだって、ずっとそうだった。でも、一度消す。

『晴と一緒に帰ってる。七時前には着く』

 そう送信した。すぐに返事が来る。

『了解。気をつけてね』

 それだけだった。画面を見つめていると、晴が不思議そうに手元を覗き込んできた。

「真帆、どうしたの?」

「お母さん。晴と帰るって伝えといた」

「そっか」

 それ以上、晴は何も聞かなかった。私も言わなかった。好きな人だとも。特別な人だとも。何か大きなことを打ち明けたわけではない。ただ、『友達』と書いていた文字を消して、『晴』と書いた。でも、その名前を消したくはならなかった。

 靴を履き替えて、校門を出る。少し歩いたところで、晴がふいに手をこちらへ出した。何も言わない。ただ、手のひらを上にして待っている。私はその手を見た。

「……何?」

「分かるでしょ」

「晴、ちゃんと言って」

「昨日は真帆が言ったじゃん」

「今日は晴の番」

「そういうところだけ急に厳しくない?」

 晴が困ったように笑った。それから、ほんの少しだけ照れた顔で言う。

「……手、つなぐ?」

 その声に、胸がくすぐったくなった。

「うん」

 今度は迷わず手を重ねた。晴の指が動く。昨日よりずっと自然に、私の指のあいだへ収まった。握る。握り返される。それだけのことなのに、やっぱり嬉しい。

「真帆、昨日より慣れたね」

 目線を合わせないまま、晴が言う。

「……二回目なら、一回目より慣れてるでしょ」

「そういうもの?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

 二人で笑って、そのまま歩き出す。手をつないでいても、何かが急に変わるわけではなかった。駅までの道は昨日と同じで、信号も、コンビニも、自転車で追い越していく人も同じだった。それなのに、なぜかいつもとは違って見えた。

「ねえ、真帆。水族館、何見る?」

「行ってから決めればいいんじゃない?」

「真帆がそれ言うんだ。事前に館内マップ調べてそうなのに」

「……調べるかもしれない」

「やっぱり」

 晴が笑う。

「でも……全部決めなくてもいいかな」

 言ってから、自分でも驚いた。晴も一瞬だけこちらを見る。けれど何も言わず、つないだ手をほんの少しだけ握り直した。

 来週、晴と水族館へ行く。その次の週のことは、まだ知らない。その先で、私たちが何と呼び合うのかも分からない。

 それでも今は、それでよかった。隣には晴がいる。手をつないで、一緒に歩いている。明日になれば、また違うことを考えるかもしれない。迷うかもしれない。それでも、今日ここで感じていることまで、疑わなくていい。

 晴の手は温かかった。私はその手を、もう一度だけ握った。すると晴も、同じ強さで握り返してくれた。

 私たちの関係には、まだ名前がない。それでも、この気持ちを間違いにしなくていいことだけは、もう知っていた。
(完)