まだ名前のない、きみの隣

 文化祭当日の朝。二年二組の教室は、いつもより狭く見えた。机を壁際へ寄せ、中央には人が通るための道がある。壁沿いには、五つの展示パネル。入口には、昨日貼ったばかりの大きな文字。

『十七歳の問い』

 その下に、『今、あなたが答えを出せないことは何ですか』。さらに小さく――『気になった問いに、あなたの答えを置いていってください』。何度も見た。自分たちで作った。それなのに今日は、別の場所みたいだった。

「真帆、曲がってる」

 私の隣で、晴が入口の案内板を指した。

「どこ? 昨日直したよ」

「今ちょっと右下がってる」

「本当?」

「嘘」

「晴」

 横を見ると、晴は楽しそうに笑っていた。濃紺のセットアップ。白いシャツ。いつもより整えられた短い髪。唇には、あの日選んだ淡いピンクが薄く色づいている。

「真帆、緊張してる?」

 晴が聞いた。

「少し」

「だから案内板睨んでたの?」

「睨んでない、確認してたの」

「昨日何回確認した? 十回くらいしてたよ」

「数えてたの?」

「嘘」

「晴!」

 そして晴は、また笑う。

「大丈夫だって」

 晴はそう言った。いつもなら、何を根拠に大丈夫と言っているのだろうと考えたかもしれない。でも今日は、「うん」と答えた。

 全部が大丈夫かどうかは、分からない。何か失敗するかもしれない。思っていたのと違う一日になるかもしれない。それでももう、始まる。

◇

 開会式のあと、体育館で各クラスの紹介が行われた。私は客席側にいる。前へ出るのは晴。二年二組の順番になった。濃紺のセットアップ姿で壇上へ上がり、晴がマイクを受け取る。

「二年二組です。みなさん、今、答えが出ないことってありますか?」

 よく通る声だった。晴は体育館を見回して、間を置く。

「進路とか、友達とか、家族とか、恋愛とか……人にはちょっと聞きにくいことでも。二年二組では、そういう問いを集めました。答えは一個じゃなくて大丈夫です。よかったら、あなたの答えも置いていってください。三階、二年二組『十七歳の問い』で待ってます」

 三十秒。拍手が起こる。晴は軽く頭を下げて、こちらへ戻ってきた。

「真帆、どうだった?」

「……よかった」

「それだけ?」

「ちゃんと聞こえたし」

「内容は?」

「分かりやすかった」

「真帆の評価、文化祭実行委員なんだよなあ」

「じゃあ何て言えばいいの」

「格好よかった、とか」

 心臓が跳ねた。晴は、冗談みたいに笑っている。少し前なら、そこから先を考えた。なぜ言われて胸が動いたのか。言っていいのか。どういう意味に取られるのか。だけど、今日は。

「……格好よかったよ」

 そのまま言う。前よりこういうことを口にするのが、怖くなくなった気がした。今度は晴が少し黙る。

「ありがとう」

 晴はそれだけ言って、目線を戻した。その耳が赤くなっているように見えたのは、きっと気のせいじゃない。

◇

 午前十時になると、文化祭が始まった。最初の十分は誰も来なかった。晴が「来ない」とぼやきながら、廊下を見る。

「やっぱ宣伝失敗したかな」

「晴、まだ始まって十分だよ。待とう」

 そう言うと、晴が振り返る。

「真帆が待とうって言った。珍しい、成長」

「うるさい」

 その直後、女子生徒が三人教室を覗いた。

「ここ、さっきの質問のやつ?」

「そうです! どうぞ!」

 晴の声が急に明るくなる。最初の来場者だった。三人は入口で付箋を受け取り、展示を見始める。

「これ分かる」

「進路やばいよね」

「『好きなことを仕事にするべきですか』って、私も聞きたい」

 小声で話している。私は受付に座りながら、それを聞いていた。自分たちが何度も読んだ質問を、知らない人が読む。それが不思議だった。一人が付箋へ何かを書く。

『好きなことを仕事にするべきですか。』

 その下へ貼った。三人が教室を出てから、晴と見に行く。

『仕事にしなくても、好きなまま持っていていいと思う。』

 最初の回答だった。

「……来たね」

 晴が言う。

「うん」

「ちゃんと書いてくれた」

 たった一枚なのに、何か月もかけて作ってきたものが、初めて私たちの手を離れて動き始めた気がした。

 十一時を過ぎる頃には、教室の中には常に何人かいるようになった。高校生。保護者。中学生。卒業生らしい人。先生。一つの問いに、まったく違う回答がつく。

『将来の夢は、今決めないといけませんか。』

『決めなくてもいい。大学三年だけど私もまだない。』

『仮で決めて、違ったら変えればいいと思う。』

『決めた方が動きやすい。でも変えてもいい。』

『親に言えないことがあるのは、悪いことですか。』

『内容による。危ないことなら誰かには言った方がいい。』

『親に全部話す必要はないと思う。』

『私は親だけど、子どもに秘密があっても仕方ないと思ってます。ちょっと寂しいけど。』

「これいいね。親側の回答」

 莉子が、最後の付箋を見て笑った。

「確かに、いろんな年代来ると面白いね」

 私も頷く。答えは一つではない。企画を考えたときから分かっていたはずだった。でも実際に壁へ並んでいるものを見るのは、少し違った。一つの問いに、二つ。三つ。五つ。中には、反対のことを書いてある付箋まである。

 それでもどれか一枚を選んで、これは正解、これは不正解。そう決める必要はない。少なくとも、この教室では。

 昼前に恋愛のパネルの前で、二人組の女子生徒が立ち止まっていた。

「これ難しくない? 友達好きになったやつ」

 身体が反応した。自分の質問だった。

『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』

 一人が質問の内容を読み上げる。

「別に友達でいられるんじゃない?」

「でも告ったら気まずくなるかも」

「それ、恋愛じゃなくても一緒じゃん。喧嘩して気まずくなることもあるし」

「確かに」

 二人は少し話して、一人が付箋を書く。もう一人も書いた。二人が去ったあと、パネルの前へ行く。

 一枚目。

『好きになったことより、そのあと二人でどうするかだと思う。』

 二枚目。

『友達だった時間は消えない。恋人になっても、ならなくても。』

 しばらく、そこから目を離せなかった。

「真帆。それ気になる?」

 晴の声に、私は振り向く。

「……少し」

 横に並んで、晴も質問に目をやった。

「私も」

「晴も?」

「うん」

 晴は何も続けなかった。私も聞かなかった。昨日、続きは明日と、そう決めた。今は二人とも、それを守った。

 午後は、人が最も多くなった。回答用の付箋は、予想より早く減っていく。

「青色、もう一束出すね」

「お願い」

「質問箱いっぱいになりそう!」

「分かった、あとで回収する!」

 私も晴も、教室の中を動き回る。忙しい。でも楽しかった。誰かが自分たちの展示を見る。立ち止まる。考える。書く。それが思っていたより、ずっと嬉しい。作業がひと段落したところで、莉子が私の肩を叩いた。

「……真帆! 見て」

 指された先では、昨日消されそうになった問いの前に、一人の女の子がいた。中学生くらいの制服姿。少し離れた場所には、母親らしい女性が立っている。女の子は一人で、パネルを見ていた。

『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』

 その子はしばらく、本当に長いあいだ動かなかった。ただ読んでいるだけかもしれない。何かを考えているのかもしれない。何も分からない。

 私は目を逸らした。じっと見るのは違う気がして、受付へ戻る。ペンを並べる。減った付箋を足す。数分して、女の子が一枚の付箋に何かを書いた。そして、パネルへ貼る。それから何事もなかったみたいに、母親らしい人のところへ戻っていった。そのまま二人で教室を出る。

 少ししてから、私はパネルへ近づく。回答はすでに、いくつもあった。

『変じゃないと思う。』

『好きになる相手は自分で決められないから、悪いことではないと思います。』

『私は分からない。でも、変だとは思わない。』

『友達がそうだったら、普通に友達のままだと思う。』

 そして、一番新しい付箋。小さな字だった。

『私も、まだ分かりません。』

 息が止まった。質問への答えではなかった。少なくとも「変か、変ではないか」への答えにはなっていない。でもなぜか、剥がしてはいけないと思った。

「真帆?」

 隣に晴が来る。そして何も言わず、その付箋を見た。

「これ」

「うん」

 晴も少し黙る。

「残していいよね」

「もちろん」

「……答えじゃないけど」

 そう言うと、晴が少し首を傾けた。

「でも、書いたんでしょ。じゃあ、いいんじゃない?」

 晴はそれ以上言わず、受付へ戻っていく。私はもう一度、『私も、まだ分かりません。』を見る。ふと、以前のことを思い出した。まだ、この企画の形すら決まっていなかった頃に、晴が言った。

『答えが出ないことを集めるんでしょ』

 そのとき、私は聞いた。

『答えが出てなくても?』

 晴は何でもないことみたいに答えた。

『うん。出てなくても』

 あのときの私には、それが少し不思議だった。答えがないのに人へ出して、何になるのだろうと思った。困っているなら解決してから話せばいい。分からないなら分かってから言えばいい。たぶん、そんなふうに考えていた。今なら少し分かる。

 答えを書いてもらう場所だと思っていた。でも、答えられない。まだ分からない。そう言って、そこへ置いていくことだってできる。それだけで一人で持っていたものが、外へ出ることもある。

「……そうだね」

 誰に言うでもなく、小さく呟いた。

 そのあとに一枚だけ、判断に迷う回答が出た。

『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』

 その下だった。

『普通かは分からない。でも、普通じゃなくても間違いではないと思う。』

 莉子が付箋を持ってきて、「これどうする?」とみんなを集めた。回答は一度こちらで確認する、最初から決めたルールだった。誹謗中傷。誰かへの個人攻撃。人そのものを傷つけるために書かれたもの。そういう回答は展示しない。

「これならいいんじゃない? 分からないって言ってるだけで、誰かを悪く言ってるわけじゃないし」

 修也が言う。それに晴も頷いた。私はその文章を、もう一度読む。

『普通かは分からない。でも、普通じゃなくても間違いではないと思う。』

「……残していいと思う」

「そうだね。私も」

 莉子がそう言って、付箋を戻す。普通。あの雨の中で、自分が言った言葉を思い出した。

『私の方が、普通でいたかったの』

 普通でいたいと思った。そこから外れることが怖かった。でも普通ではないことと、間違っていることは同じではない。そんな簡単なことを今まで、私は同じ箱へ入れていた。

「真帆、泣きそう? 目赤いけど」

 私の隣で、晴がからかうように小さく笑う。

「泣かない。暑いだけ」

「教室、冷房入ってるよ」

「晴うるさい」

 晴は私を笑うように、身体を小突いた。私がやり返すと、安心したように目を細めていた。

◇

 終了時間が近づく。最後の来場者が教室を出た。校内放送で、文化祭一日目の終了が告げられる。

「終わったー!」

 誰かが叫んだと同時に、拍手が起こる。机へ座り込む人。写真を撮る人。晴も大きく伸びをする。

「疲れた……」

「でも晴、明日もあるよ」

「真帆、それ今言う? 現実に戻さないで」

 晴が顔を軽くしかめる。片づける前に、回答のついたパネルを少し離れた場所から見た。朝はほとんど白かった壁。今は、色とりどりの付箋で埋まっている。答え。答えではないもの。迷い。反論。経験。知らない。分からない。全部が同じ壁にある。私が書いた問いにも、回答が増えていた。

『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』

 その下。

『友達のままでいるかどうかも、二人で決めればいいんじゃない?』

 その付箋をしばらく見た。二人で決める。頭の中でもう一度、その言葉を繰り返す。私はずっと、一人で答えを出そうとしていた。友情なのか。恋愛なのか。晴と、どうなりたいのか。この関係に、何と名前をつけるのか。

 だけど、関係は、私一人のものではない。晴がいる。二人で決める。私だけで全部決めなくていい。

「真帆」

 声がして振り向くと、晴が隣に立っていた。

「今日、帰り……一緒に帰れる?」

「……うん」

 胸が跳ねる。怖い。それはまだ変わらない。でも昨日までとは、違っていた。

 片づけの最後にパネルを見ると、あの中学生が書いた付箋が端から浮いていた。

『私も、まだ分かりません。』

 風で剥がれかけたのかもしれない。私は指でそっと押さえ、端まできちんと貼り直す。晴が少し離れた場所から見て、小さく笑っていた。

「真帆、それ気に入ったの?」

「気に入ったっていうか……」

 そこまで言って、もう一度付箋を見る。

「残っててほしい」

 晴は口元を緩めた。誰が書いたのかは知らない。何が分からないのかも。あの質問への答えなのか、自分自身のことなのか、それすら分からない。だから勝手に決めなくていい。

 ただ、『まだ分かりません。』そう書いた人がいた。今の私にはその言葉が、とても正直なものに見えた。まだ分からない。まだ決めていない。その「まだ」があるだけで、いつか変わるかもしれないことも、今は答えられないことも、ここへ置いておける。

 私はもう一度、付箋の端を押さえた。正解のない教室に、その「まだ」だけはなくしたくなかった。