文化祭当日の朝。二年二組の教室は、いつもより狭く見えた。机を壁際へ寄せ、中央には人が通るための道がある。壁沿いには、五つの展示パネル。入口には、昨日貼ったばかりの大きな文字。
『十七歳の問い』
その下に、『今、あなたが答えを出せないことは何ですか』。さらに小さく――『気になった問いに、あなたの答えを置いていってください』。何度も見た。自分たちで作った。それなのに今日は、別の場所みたいだった。
「真帆、曲がってる」
私の隣で、晴が入口の案内板を指した。
「どこ? 昨日直したよ」
「今ちょっと右下がってる」
「本当?」
「嘘」
「晴」
横を見ると、晴は楽しそうに笑っていた。濃紺のセットアップ。白いシャツ。いつもより整えられた短い髪。唇には、あの日選んだ淡いピンクが薄く色づいている。
「真帆、緊張してる?」
晴が聞いた。
「少し」
「だから案内板睨んでたの?」
「睨んでない、確認してたの」
「昨日何回確認した? 十回くらいしてたよ」
「数えてたの?」
「嘘」
「晴!」
そして晴は、また笑う。
「大丈夫だって」
晴はそう言った。いつもなら、何を根拠に大丈夫と言っているのだろうと考えたかもしれない。でも今日は、「うん」と答えた。
全部が大丈夫かどうかは、分からない。何か失敗するかもしれない。思っていたのと違う一日になるかもしれない。それでももう、始まる。
◇
開会式のあと、体育館で各クラスの紹介が行われた。私は客席側にいる。前へ出るのは晴。二年二組の順番になった。濃紺のセットアップ姿で壇上へ上がり、晴がマイクを受け取る。
「二年二組です。みなさん、今、答えが出ないことってありますか?」
よく通る声だった。晴は体育館を見回して、間を置く。
「進路とか、友達とか、家族とか、恋愛とか……人にはちょっと聞きにくいことでも。二年二組では、そういう問いを集めました。答えは一個じゃなくて大丈夫です。よかったら、あなたの答えも置いていってください。三階、二年二組『十七歳の問い』で待ってます」
三十秒。拍手が起こる。晴は軽く頭を下げて、こちらへ戻ってきた。
「真帆、どうだった?」
「……よかった」
「それだけ?」
「ちゃんと聞こえたし」
「内容は?」
「分かりやすかった」
「真帆の評価、文化祭実行委員なんだよなあ」
「じゃあ何て言えばいいの」
「格好よかった、とか」
心臓が跳ねた。晴は、冗談みたいに笑っている。少し前なら、そこから先を考えた。なぜ言われて胸が動いたのか。言っていいのか。どういう意味に取られるのか。だけど、今日は。
「……格好よかったよ」
そのまま言う。前よりこういうことを口にするのが、怖くなくなった気がした。今度は晴が少し黙る。
「ありがとう」
晴はそれだけ言って、目線を戻した。その耳が赤くなっているように見えたのは、きっと気のせいじゃない。
◇
午前十時になると、文化祭が始まった。最初の十分は誰も来なかった。晴が「来ない」とぼやきながら、廊下を見る。
「やっぱ宣伝失敗したかな」
「晴、まだ始まって十分だよ。待とう」
そう言うと、晴が振り返る。
「真帆が待とうって言った。珍しい、成長」
「うるさい」
その直後、女子生徒が三人教室を覗いた。
「ここ、さっきの質問のやつ?」
「そうです! どうぞ!」
晴の声が急に明るくなる。最初の来場者だった。三人は入口で付箋を受け取り、展示を見始める。
「これ分かる」
「進路やばいよね」
「『好きなことを仕事にするべきですか』って、私も聞きたい」
小声で話している。私は受付に座りながら、それを聞いていた。自分たちが何度も読んだ質問を、知らない人が読む。それが不思議だった。一人が付箋へ何かを書く。
『好きなことを仕事にするべきですか。』
その下へ貼った。三人が教室を出てから、晴と見に行く。
『仕事にしなくても、好きなまま持っていていいと思う。』
最初の回答だった。
「……来たね」
晴が言う。
「うん」
「ちゃんと書いてくれた」
たった一枚なのに、何か月もかけて作ってきたものが、初めて私たちの手を離れて動き始めた気がした。
十一時を過ぎる頃には、教室の中には常に何人かいるようになった。高校生。保護者。中学生。卒業生らしい人。先生。一つの問いに、まったく違う回答がつく。
『将来の夢は、今決めないといけませんか。』
『決めなくてもいい。大学三年だけど私もまだない。』
『仮で決めて、違ったら変えればいいと思う。』
『決めた方が動きやすい。でも変えてもいい。』
『親に言えないことがあるのは、悪いことですか。』
『内容による。危ないことなら誰かには言った方がいい。』
『親に全部話す必要はないと思う。』
『私は親だけど、子どもに秘密があっても仕方ないと思ってます。ちょっと寂しいけど。』
「これいいね。親側の回答」
莉子が、最後の付箋を見て笑った。
「確かに、いろんな年代来ると面白いね」
私も頷く。答えは一つではない。企画を考えたときから分かっていたはずだった。でも実際に壁へ並んでいるものを見るのは、少し違った。一つの問いに、二つ。三つ。五つ。中には、反対のことを書いてある付箋まである。
それでもどれか一枚を選んで、これは正解、これは不正解。そう決める必要はない。少なくとも、この教室では。
昼前に恋愛のパネルの前で、二人組の女子生徒が立ち止まっていた。
「これ難しくない? 友達好きになったやつ」
身体が反応した。自分の質問だった。
『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』
一人が質問の内容を読み上げる。
「別に友達でいられるんじゃない?」
「でも告ったら気まずくなるかも」
「それ、恋愛じゃなくても一緒じゃん。喧嘩して気まずくなることもあるし」
「確かに」
二人は少し話して、一人が付箋を書く。もう一人も書いた。二人が去ったあと、パネルの前へ行く。
一枚目。
『好きになったことより、そのあと二人でどうするかだと思う。』
二枚目。
『友達だった時間は消えない。恋人になっても、ならなくても。』
しばらく、そこから目を離せなかった。
「真帆。それ気になる?」
晴の声に、私は振り向く。
「……少し」
横に並んで、晴も質問に目をやった。
「私も」
「晴も?」
「うん」
晴は何も続けなかった。私も聞かなかった。昨日、続きは明日と、そう決めた。今は二人とも、それを守った。
午後は、人が最も多くなった。回答用の付箋は、予想より早く減っていく。
「青色、もう一束出すね」
「お願い」
「質問箱いっぱいになりそう!」
「分かった、あとで回収する!」
私も晴も、教室の中を動き回る。忙しい。でも楽しかった。誰かが自分たちの展示を見る。立ち止まる。考える。書く。それが思っていたより、ずっと嬉しい。作業がひと段落したところで、莉子が私の肩を叩いた。
「……真帆! 見て」
指された先では、昨日消されそうになった問いの前に、一人の女の子がいた。中学生くらいの制服姿。少し離れた場所には、母親らしい女性が立っている。女の子は一人で、パネルを見ていた。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
その子はしばらく、本当に長いあいだ動かなかった。ただ読んでいるだけかもしれない。何かを考えているのかもしれない。何も分からない。
私は目を逸らした。じっと見るのは違う気がして、受付へ戻る。ペンを並べる。減った付箋を足す。数分して、女の子が一枚の付箋に何かを書いた。そして、パネルへ貼る。それから何事もなかったみたいに、母親らしい人のところへ戻っていった。そのまま二人で教室を出る。
少ししてから、私はパネルへ近づく。回答はすでに、いくつもあった。
『変じゃないと思う。』
『好きになる相手は自分で決められないから、悪いことではないと思います。』
『私は分からない。でも、変だとは思わない。』
『友達がそうだったら、普通に友達のままだと思う。』
そして、一番新しい付箋。小さな字だった。
『私も、まだ分かりません。』
息が止まった。質問への答えではなかった。少なくとも「変か、変ではないか」への答えにはなっていない。でもなぜか、剥がしてはいけないと思った。
「真帆?」
隣に晴が来る。そして何も言わず、その付箋を見た。
「これ」
「うん」
晴も少し黙る。
「残していいよね」
「もちろん」
「……答えじゃないけど」
そう言うと、晴が少し首を傾けた。
「でも、書いたんでしょ。じゃあ、いいんじゃない?」
晴はそれ以上言わず、受付へ戻っていく。私はもう一度、『私も、まだ分かりません。』を見る。ふと、以前のことを思い出した。まだ、この企画の形すら決まっていなかった頃に、晴が言った。
『答えが出ないことを集めるんでしょ』
そのとき、私は聞いた。
『答えが出てなくても?』
晴は何でもないことみたいに答えた。
『うん。出てなくても』
あのときの私には、それが少し不思議だった。答えがないのに人へ出して、何になるのだろうと思った。困っているなら解決してから話せばいい。分からないなら分かってから言えばいい。たぶん、そんなふうに考えていた。今なら少し分かる。
答えを書いてもらう場所だと思っていた。でも、答えられない。まだ分からない。そう言って、そこへ置いていくことだってできる。それだけで一人で持っていたものが、外へ出ることもある。
「……そうだね」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
そのあとに一枚だけ、判断に迷う回答が出た。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
その下だった。
『普通かは分からない。でも、普通じゃなくても間違いではないと思う。』
莉子が付箋を持ってきて、「これどうする?」とみんなを集めた。回答は一度こちらで確認する、最初から決めたルールだった。誹謗中傷。誰かへの個人攻撃。人そのものを傷つけるために書かれたもの。そういう回答は展示しない。
「これならいいんじゃない? 分からないって言ってるだけで、誰かを悪く言ってるわけじゃないし」
修也が言う。それに晴も頷いた。私はその文章を、もう一度読む。
『普通かは分からない。でも、普通じゃなくても間違いではないと思う。』
「……残していいと思う」
「そうだね。私も」
莉子がそう言って、付箋を戻す。普通。あの雨の中で、自分が言った言葉を思い出した。
『私の方が、普通でいたかったの』
普通でいたいと思った。そこから外れることが怖かった。でも普通ではないことと、間違っていることは同じではない。そんな簡単なことを今まで、私は同じ箱へ入れていた。
「真帆、泣きそう? 目赤いけど」
私の隣で、晴がからかうように小さく笑う。
「泣かない。暑いだけ」
「教室、冷房入ってるよ」
「晴うるさい」
晴は私を笑うように、身体を小突いた。私がやり返すと、安心したように目を細めていた。
◇
終了時間が近づく。最後の来場者が教室を出た。校内放送で、文化祭一日目の終了が告げられる。
「終わったー!」
誰かが叫んだと同時に、拍手が起こる。机へ座り込む人。写真を撮る人。晴も大きく伸びをする。
「疲れた……」
「でも晴、明日もあるよ」
「真帆、それ今言う? 現実に戻さないで」
晴が顔を軽くしかめる。片づける前に、回答のついたパネルを少し離れた場所から見た。朝はほとんど白かった壁。今は、色とりどりの付箋で埋まっている。答え。答えではないもの。迷い。反論。経験。知らない。分からない。全部が同じ壁にある。私が書いた問いにも、回答が増えていた。
『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』
その下。
『友達のままでいるかどうかも、二人で決めればいいんじゃない?』
その付箋をしばらく見た。二人で決める。頭の中でもう一度、その言葉を繰り返す。私はずっと、一人で答えを出そうとしていた。友情なのか。恋愛なのか。晴と、どうなりたいのか。この関係に、何と名前をつけるのか。
だけど、関係は、私一人のものではない。晴がいる。二人で決める。私だけで全部決めなくていい。
「真帆」
声がして振り向くと、晴が隣に立っていた。
「今日、帰り……一緒に帰れる?」
「……うん」
胸が跳ねる。怖い。それはまだ変わらない。でも昨日までとは、違っていた。
片づけの最後にパネルを見ると、あの中学生が書いた付箋が端から浮いていた。
『私も、まだ分かりません。』
風で剥がれかけたのかもしれない。私は指でそっと押さえ、端まできちんと貼り直す。晴が少し離れた場所から見て、小さく笑っていた。
「真帆、それ気に入ったの?」
「気に入ったっていうか……」
そこまで言って、もう一度付箋を見る。
「残っててほしい」
晴は口元を緩めた。誰が書いたのかは知らない。何が分からないのかも。あの質問への答えなのか、自分自身のことなのか、それすら分からない。だから勝手に決めなくていい。
ただ、『まだ分かりません。』そう書いた人がいた。今の私にはその言葉が、とても正直なものに見えた。まだ分からない。まだ決めていない。その「まだ」があるだけで、いつか変わるかもしれないことも、今は答えられないことも、ここへ置いておける。
私はもう一度、付箋の端を押さえた。正解のない教室に、その「まだ」だけはなくしたくなかった。
『十七歳の問い』
その下に、『今、あなたが答えを出せないことは何ですか』。さらに小さく――『気になった問いに、あなたの答えを置いていってください』。何度も見た。自分たちで作った。それなのに今日は、別の場所みたいだった。
「真帆、曲がってる」
私の隣で、晴が入口の案内板を指した。
「どこ? 昨日直したよ」
「今ちょっと右下がってる」
「本当?」
「嘘」
「晴」
横を見ると、晴は楽しそうに笑っていた。濃紺のセットアップ。白いシャツ。いつもより整えられた短い髪。唇には、あの日選んだ淡いピンクが薄く色づいている。
「真帆、緊張してる?」
晴が聞いた。
「少し」
「だから案内板睨んでたの?」
「睨んでない、確認してたの」
「昨日何回確認した? 十回くらいしてたよ」
「数えてたの?」
「嘘」
「晴!」
そして晴は、また笑う。
「大丈夫だって」
晴はそう言った。いつもなら、何を根拠に大丈夫と言っているのだろうと考えたかもしれない。でも今日は、「うん」と答えた。
全部が大丈夫かどうかは、分からない。何か失敗するかもしれない。思っていたのと違う一日になるかもしれない。それでももう、始まる。
◇
開会式のあと、体育館で各クラスの紹介が行われた。私は客席側にいる。前へ出るのは晴。二年二組の順番になった。濃紺のセットアップ姿で壇上へ上がり、晴がマイクを受け取る。
「二年二組です。みなさん、今、答えが出ないことってありますか?」
よく通る声だった。晴は体育館を見回して、間を置く。
「進路とか、友達とか、家族とか、恋愛とか……人にはちょっと聞きにくいことでも。二年二組では、そういう問いを集めました。答えは一個じゃなくて大丈夫です。よかったら、あなたの答えも置いていってください。三階、二年二組『十七歳の問い』で待ってます」
三十秒。拍手が起こる。晴は軽く頭を下げて、こちらへ戻ってきた。
「真帆、どうだった?」
「……よかった」
「それだけ?」
「ちゃんと聞こえたし」
「内容は?」
「分かりやすかった」
「真帆の評価、文化祭実行委員なんだよなあ」
「じゃあ何て言えばいいの」
「格好よかった、とか」
心臓が跳ねた。晴は、冗談みたいに笑っている。少し前なら、そこから先を考えた。なぜ言われて胸が動いたのか。言っていいのか。どういう意味に取られるのか。だけど、今日は。
「……格好よかったよ」
そのまま言う。前よりこういうことを口にするのが、怖くなくなった気がした。今度は晴が少し黙る。
「ありがとう」
晴はそれだけ言って、目線を戻した。その耳が赤くなっているように見えたのは、きっと気のせいじゃない。
◇
午前十時になると、文化祭が始まった。最初の十分は誰も来なかった。晴が「来ない」とぼやきながら、廊下を見る。
「やっぱ宣伝失敗したかな」
「晴、まだ始まって十分だよ。待とう」
そう言うと、晴が振り返る。
「真帆が待とうって言った。珍しい、成長」
「うるさい」
その直後、女子生徒が三人教室を覗いた。
「ここ、さっきの質問のやつ?」
「そうです! どうぞ!」
晴の声が急に明るくなる。最初の来場者だった。三人は入口で付箋を受け取り、展示を見始める。
「これ分かる」
「進路やばいよね」
「『好きなことを仕事にするべきですか』って、私も聞きたい」
小声で話している。私は受付に座りながら、それを聞いていた。自分たちが何度も読んだ質問を、知らない人が読む。それが不思議だった。一人が付箋へ何かを書く。
『好きなことを仕事にするべきですか。』
その下へ貼った。三人が教室を出てから、晴と見に行く。
『仕事にしなくても、好きなまま持っていていいと思う。』
最初の回答だった。
「……来たね」
晴が言う。
「うん」
「ちゃんと書いてくれた」
たった一枚なのに、何か月もかけて作ってきたものが、初めて私たちの手を離れて動き始めた気がした。
十一時を過ぎる頃には、教室の中には常に何人かいるようになった。高校生。保護者。中学生。卒業生らしい人。先生。一つの問いに、まったく違う回答がつく。
『将来の夢は、今決めないといけませんか。』
『決めなくてもいい。大学三年だけど私もまだない。』
『仮で決めて、違ったら変えればいいと思う。』
『決めた方が動きやすい。でも変えてもいい。』
『親に言えないことがあるのは、悪いことですか。』
『内容による。危ないことなら誰かには言った方がいい。』
『親に全部話す必要はないと思う。』
『私は親だけど、子どもに秘密があっても仕方ないと思ってます。ちょっと寂しいけど。』
「これいいね。親側の回答」
莉子が、最後の付箋を見て笑った。
「確かに、いろんな年代来ると面白いね」
私も頷く。答えは一つではない。企画を考えたときから分かっていたはずだった。でも実際に壁へ並んでいるものを見るのは、少し違った。一つの問いに、二つ。三つ。五つ。中には、反対のことを書いてある付箋まである。
それでもどれか一枚を選んで、これは正解、これは不正解。そう決める必要はない。少なくとも、この教室では。
昼前に恋愛のパネルの前で、二人組の女子生徒が立ち止まっていた。
「これ難しくない? 友達好きになったやつ」
身体が反応した。自分の質問だった。
『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』
一人が質問の内容を読み上げる。
「別に友達でいられるんじゃない?」
「でも告ったら気まずくなるかも」
「それ、恋愛じゃなくても一緒じゃん。喧嘩して気まずくなることもあるし」
「確かに」
二人は少し話して、一人が付箋を書く。もう一人も書いた。二人が去ったあと、パネルの前へ行く。
一枚目。
『好きになったことより、そのあと二人でどうするかだと思う。』
二枚目。
『友達だった時間は消えない。恋人になっても、ならなくても。』
しばらく、そこから目を離せなかった。
「真帆。それ気になる?」
晴の声に、私は振り向く。
「……少し」
横に並んで、晴も質問に目をやった。
「私も」
「晴も?」
「うん」
晴は何も続けなかった。私も聞かなかった。昨日、続きは明日と、そう決めた。今は二人とも、それを守った。
午後は、人が最も多くなった。回答用の付箋は、予想より早く減っていく。
「青色、もう一束出すね」
「お願い」
「質問箱いっぱいになりそう!」
「分かった、あとで回収する!」
私も晴も、教室の中を動き回る。忙しい。でも楽しかった。誰かが自分たちの展示を見る。立ち止まる。考える。書く。それが思っていたより、ずっと嬉しい。作業がひと段落したところで、莉子が私の肩を叩いた。
「……真帆! 見て」
指された先では、昨日消されそうになった問いの前に、一人の女の子がいた。中学生くらいの制服姿。少し離れた場所には、母親らしい女性が立っている。女の子は一人で、パネルを見ていた。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
その子はしばらく、本当に長いあいだ動かなかった。ただ読んでいるだけかもしれない。何かを考えているのかもしれない。何も分からない。
私は目を逸らした。じっと見るのは違う気がして、受付へ戻る。ペンを並べる。減った付箋を足す。数分して、女の子が一枚の付箋に何かを書いた。そして、パネルへ貼る。それから何事もなかったみたいに、母親らしい人のところへ戻っていった。そのまま二人で教室を出る。
少ししてから、私はパネルへ近づく。回答はすでに、いくつもあった。
『変じゃないと思う。』
『好きになる相手は自分で決められないから、悪いことではないと思います。』
『私は分からない。でも、変だとは思わない。』
『友達がそうだったら、普通に友達のままだと思う。』
そして、一番新しい付箋。小さな字だった。
『私も、まだ分かりません。』
息が止まった。質問への答えではなかった。少なくとも「変か、変ではないか」への答えにはなっていない。でもなぜか、剥がしてはいけないと思った。
「真帆?」
隣に晴が来る。そして何も言わず、その付箋を見た。
「これ」
「うん」
晴も少し黙る。
「残していいよね」
「もちろん」
「……答えじゃないけど」
そう言うと、晴が少し首を傾けた。
「でも、書いたんでしょ。じゃあ、いいんじゃない?」
晴はそれ以上言わず、受付へ戻っていく。私はもう一度、『私も、まだ分かりません。』を見る。ふと、以前のことを思い出した。まだ、この企画の形すら決まっていなかった頃に、晴が言った。
『答えが出ないことを集めるんでしょ』
そのとき、私は聞いた。
『答えが出てなくても?』
晴は何でもないことみたいに答えた。
『うん。出てなくても』
あのときの私には、それが少し不思議だった。答えがないのに人へ出して、何になるのだろうと思った。困っているなら解決してから話せばいい。分からないなら分かってから言えばいい。たぶん、そんなふうに考えていた。今なら少し分かる。
答えを書いてもらう場所だと思っていた。でも、答えられない。まだ分からない。そう言って、そこへ置いていくことだってできる。それだけで一人で持っていたものが、外へ出ることもある。
「……そうだね」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
そのあとに一枚だけ、判断に迷う回答が出た。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
その下だった。
『普通かは分からない。でも、普通じゃなくても間違いではないと思う。』
莉子が付箋を持ってきて、「これどうする?」とみんなを集めた。回答は一度こちらで確認する、最初から決めたルールだった。誹謗中傷。誰かへの個人攻撃。人そのものを傷つけるために書かれたもの。そういう回答は展示しない。
「これならいいんじゃない? 分からないって言ってるだけで、誰かを悪く言ってるわけじゃないし」
修也が言う。それに晴も頷いた。私はその文章を、もう一度読む。
『普通かは分からない。でも、普通じゃなくても間違いではないと思う。』
「……残していいと思う」
「そうだね。私も」
莉子がそう言って、付箋を戻す。普通。あの雨の中で、自分が言った言葉を思い出した。
『私の方が、普通でいたかったの』
普通でいたいと思った。そこから外れることが怖かった。でも普通ではないことと、間違っていることは同じではない。そんな簡単なことを今まで、私は同じ箱へ入れていた。
「真帆、泣きそう? 目赤いけど」
私の隣で、晴がからかうように小さく笑う。
「泣かない。暑いだけ」
「教室、冷房入ってるよ」
「晴うるさい」
晴は私を笑うように、身体を小突いた。私がやり返すと、安心したように目を細めていた。
◇
終了時間が近づく。最後の来場者が教室を出た。校内放送で、文化祭一日目の終了が告げられる。
「終わったー!」
誰かが叫んだと同時に、拍手が起こる。机へ座り込む人。写真を撮る人。晴も大きく伸びをする。
「疲れた……」
「でも晴、明日もあるよ」
「真帆、それ今言う? 現実に戻さないで」
晴が顔を軽くしかめる。片づける前に、回答のついたパネルを少し離れた場所から見た。朝はほとんど白かった壁。今は、色とりどりの付箋で埋まっている。答え。答えではないもの。迷い。反論。経験。知らない。分からない。全部が同じ壁にある。私が書いた問いにも、回答が増えていた。
『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』
その下。
『友達のままでいるかどうかも、二人で決めればいいんじゃない?』
その付箋をしばらく見た。二人で決める。頭の中でもう一度、その言葉を繰り返す。私はずっと、一人で答えを出そうとしていた。友情なのか。恋愛なのか。晴と、どうなりたいのか。この関係に、何と名前をつけるのか。
だけど、関係は、私一人のものではない。晴がいる。二人で決める。私だけで全部決めなくていい。
「真帆」
声がして振り向くと、晴が隣に立っていた。
「今日、帰り……一緒に帰れる?」
「……うん」
胸が跳ねる。怖い。それはまだ変わらない。でも昨日までとは、違っていた。
片づけの最後にパネルを見ると、あの中学生が書いた付箋が端から浮いていた。
『私も、まだ分かりません。』
風で剥がれかけたのかもしれない。私は指でそっと押さえ、端まできちんと貼り直す。晴が少し離れた場所から見て、小さく笑っていた。
「真帆、それ気に入ったの?」
「気に入ったっていうか……」
そこまで言って、もう一度付箋を見る。
「残っててほしい」
晴は口元を緩めた。誰が書いたのかは知らない。何が分からないのかも。あの質問への答えなのか、自分自身のことなのか、それすら分からない。だから勝手に決めなくていい。
ただ、『まだ分かりません。』そう書いた人がいた。今の私にはその言葉が、とても正直なものに見えた。まだ分からない。まだ決めていない。その「まだ」があるだけで、いつか変わるかもしれないことも、今は答えられないことも、ここへ置いておける。
私はもう一度、付箋の端を押さえた。正解のない教室に、その「まだ」だけはなくしたくなかった。
