まだ名前のない、きみの隣

 三好晴と同じクラスになって、一週間が過ぎた。そのあいだに、晴は私を毎日「真帆」と呼んだ。朝、教室へ入れば、「真帆、おはよう」。休み時間にプリントを後ろへ回せば、「ありがと、真帆」。放課後には、「真帆、また明日ね」。

 名前を呼ぶことに、晴は何のためらいもない。私も「晴」と呼んでいい。でも、声に出そうとすると喉で止まる。名前を呼ばなくても、目を合わせれば会話できてしまうから、なおさらだった。

「真帆、次の授業って移動だっけ?」

 木曜日の二時間目が終わると、晴が机へ身を乗り出してきた。

「うん。化学室」

「教科書いるかな?」

「たぶん」

「たぶん?」

「実験じゃないと思うから」

「じゃあ持っていくか」

 晴は机の中から教科書とノートを取り出す。私も同じものを胸に抱えた。

「真帆、一緒に行こうよ」

「うん」

 廊下へ出ると、晴は別のクラスの女子や、課題を見せてほしいという男子に次々呼び止められた。晴はそれぞれに笑って返し、話が終わると小走りで戻ってくる。

 晴は、誰に話しかけられても嫌そうな顔をしない。急いでいるときでも相手の顔を見て返事をするし、長くなりそうなら「あとで」と言える。頼まれごとも、嫌ならきちんと断る。たぶん私なら、断り方を考えているうちに話が終わらなくなる。あるいは、断るのが面倒になって全部引き受ける。

 晴は人に好かれている。でも、何でも受け入れているから好かれているわけではないらしい。断っても空気を悪くしない。相手が嫌な気持ちにならない場所へ、言葉をきちんと置ける。

 私には、そういうことが難しい。

◇

「晴って、ほんといつも誰かに話しかけられてるよね」

 昼休みに莉子がおかずを摘みながら、晴にそう言った。この間から昼休みは私と莉子と晴、日によっては小林さんと植田さんと一緒に過ごすのが、いつのまにか普通になっていた。

「そうかな?」

「そうじゃん。廊下歩くだけで、いつも何人に話しかけられてるの? 晴ってコミュ力高すぎて、女子に彼氏にしたいとか言われてそう」

「たまに言われる」

「だって晴が男だったら、絶対モテるもん」

「莉子、今の私は選考外なの?」

「そういう意味じゃないって」

 困ったような莉子の言葉に、晴が笑った。私もつられて笑う。その話はそこで終わった。

「真帆は、人に自分から話しかける?」

 急に晴から話を振られ、箸が止まった。

「……必要があれば」

「でも真帆って、必要があっても話しかける前に五分くらい悩むでしょ。一年のときからそうだったじゃん」

 莉子が横槍を入れてくる。その声に、私はつい反論した。

「五分は悩まない」

「じゃ、三分?」

「それも……」

 そこまで言って、口ごもる。否定できずに俯くと、晴が私を見て苦笑した。

「真帆は話しかけないっていうより、話しかける準備が長いんじゃない? 今、何て言おうって考えてる顔してる」

 見抜かれていた。私は気まずくなって目線を外し、箸でご飯を崩す。

「だって考えないで話すと、変なこと言うかもしれないから」

「変でもよくない?」

「よくない。相手が困るから」

 答えると、晴は不思議そうに首を傾げた。

「でも真帆が黙ってると、何考えてるか分かんなくて困るときもあるかもよ?」

 正論だった。だから余計に、私はすぐ返事ができなかった。黙ることは、何もしていないのと同じだと思っていた。余計なことを言わない。相手の気分を害さない。間違ったことを伝えない。

 でも、何も言わないことで相手を困らせる可能性は、考えたことがなかった。

「晴、真帆をいじめないで。真帆がまた考え込んじゃったじゃん」

 莉子が晴に視線を向け、からかうように言う。

「ごめん、いじめてないよ。ただ、真帆が何考えてるのか、もっと知りたいだけ」

 晴は何でもないことのように言い、卵焼きを口へ入れた。晴にもっと知りたいと言われて、嫌ではなかった。

「……できるだけ、言うようにする」

「うん。できるだけでいいよ」

 晴は頷く。その笑顔を見ると、胸の真ん中が軽くなった。だけど、これを嬉しいと言うのかは、まだよく分からなかった。

◇

 放課後になって、担任が大量のファイルを教室へ運んできた。

「誰か、職員室から残りを持ってきてくれないか」

 ほとんどの生徒が帰り支度をする中で、私は手を挙げるべきか迷っていた。だけど、晴が先に立ち上がった。

「先生、私行きます」

「三好、助かる。量が多いから、もう一人――」

「……私も行きます」

 気づいたときには、声が出ていた。担任と晴が、同時に私を見る。

「じゃあ瀬尾も頼む」

 担任に言われ、立ち上がる。教室を出ると、晴が隣で笑っていた。

「真帆、自分から言えたじゃん。手伝いますって」

「それくらいは言えるよ」

「話しかけるの、三分考えるって言ってたから」

「言ってない。莉子が言っただけ」

 そんな会話をしながら、職員室から二人で段ボール箱を運ぶ。晴は軽々と荷物を持っていたけれど、私に歩幅を合わせてくれた。教室へ箱を届けると、担任に礼を言われた。晴は「いえいえ」と答え、すぐに鞄を肩へかける。莉子は用事があるらしく、すでに帰っていた。

「真帆って帰り電車だっけ。駅まで一緒に行かない? 私も今日、部活休みなんだ」

 断る理由はなかったので、晴と一緒に教室を出る。二年生になってから、昼休みは毎日晴たちと過ごしていた。だけど、晴と二人だけで長く話すのは初めてだった。昇降口へ向かう途中でも晴は何度か呼び止められて、用事を終えると私の隣へ戻ってくる。そして、なんてことなさそうに会話を始めた。

「真帆って、ずっと莉子と仲がよかったの?」

「まあ。一年生の時、席が隣だったから」

「やっぱ席って大事だね。私たちも前後でよかった」

 あまりにもあっさり言われ、返事が遅れた。だけど、晴は私が一瞬黙ったことを気にしていないようだった。

「……うん」

 少し遅れて答えるけれど、それが聞こえたかどうかは分からなかった。

 駅のホームで、晴は私の趣味や普段読む本のことを聞いてきた。おすすめを尋ねられて「考えておく」と答えると、晴は「今度教えて」と笑っていた。電車に乗ると、晴は空いた席を後から乗ってきた高齢の女性へすぐに譲っていた。残った席を示され、私は思わず聞き返した。

「晴は?」

 口にしてから気がついた。本人に向かってその名前を呼んだのは、たぶん初めてだった。晴は、特に気にした様子もなく答える。

「私は立ってる」

「じゃあ、私も立つ。一人だけ座るのも変だから」

「真帆って律儀だね」

 そう言って、晴は笑う。さっき口にした名前だけが、遅れて胸の中へ戻ってきた。晴。頭の中では何度も呼んでいた。声に出しても、思っていたほど特別な音にはならなかった。だから、私はもう一度呼んでみる。

「……晴は、いつもそうなの?」

「何が?」

「席を譲るの」

「別に普通じゃない? 部活でずっと走ってるから、立つのも平気だし」

 晴は本当に気にしていないようだった。少なくとも、自分が何か特別なことをしたとは思っていないらしい。

「……晴って、誰にでも優しいね」

 そう言ってから、大げさだったかもしれないと思った。顔を見ると、晴は僅かに眉を寄せている。

「なんで?」

「今日も、いろんな人と話してたから」

「そうかな。ていうか真帆、私のこと見てたんだ」

 言い方を間違えた。これでは、私がずっと晴を観察していたように聞こえてしまう。

「見てたっていうか……目に入っただけ」

「分かってるよ。でも、誰にでも優しいっていうのは違うかも。だって、嫌いな人には優しくできないし」

 晴は苦笑するように言う。だけど、少し意外だった。晴は誰とでもうまく話せる。だから、人を嫌うこともあまりないのだと思っていた。

「真帆は私のこと、いい人だと思いすぎじゃない?」

「……そうかもしれない」

「そこは否定してよ」

「だって晴のこと、まだよく知らないから」

 正直に答えると、晴は一瞬黙った。言い方が冷たかったかもしれない。晴のことをまだよく知らない、事実ではある。でも、せっかく一緒に帰っている相手に言う言葉としては、距離を置きすぎた。

「ごめん。悪い意味じゃなくて」

「ううん」

 晴は窓の外へ目を向け、それからふいに目を細めた。

「じゃあ、真帆にはこれから知ってもらえばいいか。私も、真帆のことまだ全然知らないし。だから、お互い様」

 電車が次の駅へ近づく。ブレーキの音に紛れて、晴の声が少し遠く聞こえた。夕暮れの光に照らされながら、晴が私を見た。なんてことない会話だった。それなのに、胸の中にごく小さな重みが残っていた。

◇

 家に帰って夕食を終えてから、机で翌日の予習をした。英単語をノートへ書き写していると、机の上のスマートフォンが震える。画面には、晴の名前が表示されていた。通知を開く。

『今日は一緒に帰れてよかった』

 そのまま文字を見つめていると、もう一つ通知が表示された。

『また帰ろ』

 短い文章だった。晴にとって、特別な意味はないのだと思う。今日一緒に帰ったから、また帰ろうと言った。晴ならきっと、他の友達にも同じようなメッセージを送るだろう。そう思いながら、返信欄を開く。

『うん。また帰ろう』

 そう打って、消した。晴は「帰ろ」と書いている。こちらも同じくらい軽い方がいいのかもしれない。

『楽しかった。また帰ろうね』

 打ってから、これも消す。楽しかった、と言うほど会話が盛り上がったわけではない。晴に合わせて、無理に感情を大きくしているように見えるかもしれない。

 結局、最初に打った文章へ戻して送信する。一分も経たずに、晴から笑顔のスタンプが届いた。返事はそこで終わった。もっと早く送ればよかった。十数分かけて考えた文章も、最初に思いついた文章も、結果は同じだったのだと思う。

 スマートフォンを伏せ、ノートへ視線を戻す。でも、英単語は頭に入らなかった。

 晴は誰にでも優しい。今日私にしてくれたことのほとんどは、きっと他の誰かにもすることだった。だから、今日のことを特別に考える理由はない。そのはずなのに、スマートフォンがもう一度震えないか、私はしばらく気にしていた。