まだ名前のない、きみの隣

 翌日。朝から、文化祭前日の校舎は落ち着かなかった。廊下には段ボール。教室の前には脚立。どこからか絵の具の匂いがして、遠くでは電動ドライバーの音がしている。二年二組も例外ではなかった。授業は午前中で終わり、午後からはすべて文化祭準備に使えることになっている。

「真帆、これ貼るのこの辺でいい?」

 莉子が色画用紙を持ちながら、私を呼んだ。

『答えは、一つじゃなくていい。』

 展示の入口に置く予定の言葉だった。

「もう少し左、あと三センチ」

「真帆の三センチ信用できない」

 莉子は、昨日のことなんて何もなかったように笑っていた。その明るい声につられて、私も口元を緩める。晴は教室の前方で、クラス紹介の練習をしている。本番で着る濃紺のジャケットだけを、制服の上から羽織っていた。

「答えの出ない問い、集めました。あなたなら、どう答えますか。二年二組『十七歳の問い』へ――」

 晴が言葉を読み上げると、誰かが叫んだ。

「硬い!」

「やっぱ硬い?」

「晴なんだから、もっと普通でいいよ。最後『来てね!』でよくない?」

「よくないでしょ。急に雑」

 教室に笑い声が広がる。晴も笑った。私はその横顔を見る。昨日、『明日、少し話せる?』と送った。晴は、『文化祭の作業終わったあとなら』と返してくれた。だから、今日は話す。そのことを考えるだけで、胸が重くなる。でも、逃げない。少なくとも、話すことだけは決めていた。

 午後二時になると、展示はほとんど完成していた。教室の机を壁際へ寄せ、中央に通路を作る。五つのテーマごとにパネルを並べる。入口で付箋を受け取り、気になった質問へ自由に回答してもらう。出口には、新しい質問箱。

『あなたの「まだ分からない」も、ここに置いていってください。』

 最初は、もっと簡単な企画だと思っていた。質問を貼り、答えを書いてもらう――単純なものだと思っていた。でも、何か月もかけて作ってきた教室を見ると、不思議な気持ちになった。

「結構ちゃんとしてるね」

 気がつくと、晴が隣に並んでいた。

「……自分たちで作ったのに?」

「だから余計に。真帆、文化祭始まっても直してそう」

「直すところがあったら」

「怖い」

 以前と同じように話せた。でも、あの日のことは残っている。どちらも分かっている。

「晴、あとでこの前の話……ちゃんと話すから」

 小さく言うと、晴は一度だけ頷いた。

「うん」

 それ以上はない。でも、今日話を聞いてくれる。そのことは分かった。

「質問カード、最終チェックするよー」

 莉子の声で、何人かが教室の後ろへ集まった。パネルへ仮留めした質問を、一覧表と照らし合わせる。落ちているものがないか、同じカードを二枚貼っていないか、カテゴリは合っているか。

「進路、三十二枚……家族、二十八。友達、三十五」

「合ってる」

 順番に確認していく。恋愛。私も数える。二十九枚。だけど一覧には、三十とある。

「莉子、一枚足りない」

 そう言った。晴が床を見るけれど、何もない。

「マジ? どれだろ」

 莉子が一覧表と紙を一枚ずつ照らし合わせる。告白。片思い。恋人。元恋人。友達と恋人。私が書いた問い。ある。

『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』

 その近く。

『好きな人に好きと言わないことは、優しさですか。』

 これもある。

「……これだ」

 一覧表の一行に目が留まった。

『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』

 パネルにない。もう一度探すけれど、やっぱりない。

「この質問が、ない」

 声に出すと、何人かの視線が集まる。莉子が私の手元を覗き込んだ。晴も気づく。

「昨日は確かあったよね。どっか落ちた?」

 床。机の下。余った質問カードを入れている箱。探したけれど、どこにもない。

「それなら保留の方じゃない?」

 後ろから声がした。一人のクラスメイトが、机の上に置かれたクリアファイルを指している。

「保留?」

「さっき外したやつ」

 胸がざわついた。晴がファイルを開くと、一番上に置いてあった。少し右に傾いた、黒い文字。

「何で外したの?」

 晴が聞く。クラスメイトは目線を外し、言いづらそうに口を開いた。

「いや……明日、いろんな人来るじゃん。これだけ、ちょっと面倒なことにならないかなって……心配になっただけ」

 悪意はなかった。たぶん。本当に。困ったから、いったん外したのだと思う。

「でも、先生は大丈夫って言ってなかった?」

 莉子が言うと、クラスメイトは目を瞬かす。

「そうなの? ごめん、聞いてなかった」

 晴が紙を持ち上げて、ひらひらと振った。

「これ、先生には確認済み」

「ならいいけど……」

 相手はすぐに引いた。これで終わるはずだった。でも。

「たださ……わざわざ出さなくてもよくない?」

 別の人が言った。その言葉に、空気が少し変わる。

「質問はいっぱいあるし。回答で変なこと書かれたら、管理面倒そう」

「それはある」

 誰かが同意する。私は黙って聞いていた。言っていることは、分かる。二百枚近い質問がある。一枚外したところで、展示そのものは成立する。文化祭は明日。今さら問題が起こる可能性を増やしたくない。面倒なことは避けたい。その気持ちも分かる。なのに胸の奥が、ひどくざらついた。

「でもさ。それなら、最初に残した意味なくない?」

 晴が言った。

「でも別に、これだけじゃないじゃん。似た質問ある?」

「似たのはないかな」

 莉子が一覧を見る。他にはなかった。女の子が女の子を好きになることについて聞いている質問は――一枚だけ。

「だったらなくても、誰も気づかなくない?」

 誰かが言う。その一言で、私の中の何かが動いた。気づかない。確かに。百枚以上並んでいる中から、一枚だけなくなっても。ほとんどの人は、きっと気づかない。でも、書いた人は。

「……残した方がいいと思う」

 声が出て、自分でも驚いた。途端に教室が静かになる。何人かが私を見た。怖い。こんなに人がいるところで。自分から。今までなら一度頭の中で文章を作って、これで合っているか考えて、その間に話が終わった。今日はもう、言ってしまった。

「なんで?」

 聞かれるけれど、答えは準備していない。正解も知らない。それでも。

「これを書いた人は……誰にも聞けなくて、ここなら書けると思ったのかもしれないから」

 静かだった。初めてこの質問を見た日のことを思い出す。あのとき、晴が言った。

『ここで外したら、その人、やっぱり聞いちゃだめだったって思わないかな』

 その言葉を聞いたときに、私はまだ想像することしかできなかった。でも今は、少し違う。検索履歴を全部消した夜。相談窓口だけをブックマークしたこと。莉子に『晴を、好きかもしれない』と言うまで、何度も言葉を飲み込んだこと。自分の中にある問いを、誰にも見せたくないと思ったこと。

 誰にも聞けないことは、ある。

「でも、書いた本人がそうとは限らなくない?」

 誰かが言った。

「うん。限らない」

 すぐに頷いた。本人のことではないかもしれない。友達のことかもしれない。ただ思いついて書いただけかもしれない。

「分からない」

 言った。以前なら、そこで終わった。だけど今日は、その先がある。

「でも、分からないから外すのは違うと思う。私たち、答えが出ないことを集めたんだよね。だから……」

 胸が鳴っている。晴がこちらを見ている。私はもう一度、紙を見る。喉が詰まる。それでも続けた。

『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』

「ここで、これだけ外したら、書いた人が見に来たとき……やっぱり、聞いちゃだめだったんだって思うかもしれない」

 晴から聞いた言葉。でも今はもう、晴の言葉を借りているだけではなかった。

「なくても、誰も気づかないかもしれない。だけど書いた人だけは、気づくかもしれない」

 言い終わった。怖かった。言いすぎたかもしれない。面倒な人だと思われたかもしれない。それでも、今さら撤回したいとは思わなかった。

「私は残す方に一票かな。だって、先生もいいって言ってるんでしょ」

 いつもの調子で莉子が言った。

「うん。回答はこっちで確認する」

 晴が答えると、修也も言った。

「なら、別にいいんじゃない? ほかの質問も同じルールだし。変な回答来る可能性、これだけじゃないしね」

 その声に、同意の声が広がっていく。最初に外したクラスメイトは、気まずそうに紙を見た。

「じゃあ、戻す?」

「うん。戻そうよ」

 晴が言った。それで終わった。拍手もない。誰かが感動するわけでもない。劇的なことは何も起きなかった。ただ一枚の紙が、元の場所へ戻ることになった。晴が両面テープを取る。私は手を伸ばした。

「私がやる」

「真帆?」

「うん」

 紙を受け取る。恋愛のパネルの空いている場所。そこへ貼ると、少し曲がった。気になるので一度剥がす。

「真帆、そこまで真っすぐじゃなくても読めるよ」

「気になる」

「知ってる」

 もう一度。今度は真っすぐ貼った。

『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』

 紙はただ、元の場所へ戻っていった。

 それから何事もなかったみたいに、作業が再開した。テープ。付箋。案内板。掃除。私も動くけれど、心臓だけはまだ速かった。段ボールを廊下へ出しに行ったところで、同じく段ボールを抱えた莉子が追いかけてきた。

「真帆。さっき、すごかったね。普通に喋ってた。クラス全員いるとこで、自分から」

「……必要だったから」

 莉子は口元を緩めた。昨日の話とは結びつけない。何も聞かない。それがありがたかった。

「莉子、ありがとう。一票って言ってくれたこと」

「別に。私も残した方がいいと思っただけ」

 莉子はそう言ってから、「これ重い」と段ボールを私へ半分押しつけた。

「真帆も手伝ってよ」

「今ありがとうって言ったのに」

「だから手伝って」

 そんなやりとりをしながら、私たちは廊下を並んで歩いた。

◇

 夕方になって、最後の作業が終わった。

「お疲れさま!」

 誰かが声を上げると、教室に拍手が起きた。明日は文化祭。何か月も作ってきたものが、とうとう知らない人たちの目に触れる。少し怖い。でも、楽しみでもあった。クラスメイトが帰り始める。莉子も鞄を持って、私を見た。

「じゃ、先帰るね。また明日」

「また明日」

 修也も帰る。

「お疲れ」

「お疲れ様」

 ほかの生徒も一人ずつ、教室からいなくなる。最後に、私と晴だけが残った。約束していたから、話す。窓の外は、夕暮れだった。完成した『十七歳の問い』が、静かになった教室の壁に並んでいる。晴は自分の机へ、軽く腰を預けた。

「真帆、さっきさ。格好よかった」

 それは、思っていなかった言葉だった。

「……何が?」

「質問、戻したとこ」

「別に」

「別にじゃないでしょ。真帆、ああいうとき黙る人だと思ってた」

「私も」

「自分で言うんだ」

「でもあれは、言わないと嫌だった。誰が書いたか分からないけど……消されたままにしたくなかった」

 私は恋愛のパネルを見る。晴は少しのあいだ、何も言わなかった。

「そっか」

「うん」

 沈黙が訪れる。今度は私の番だった。

「晴、この前のこと……」

 口にすると、晴の表情が変わった。

「もう一回、謝りたい。でも、前と同じことは言わない」

 声が震える。晴は何も言わずに待っている。私は一度、息を吸った。

「この前、晴が女の子だから、私が困ってるみたいに言った。でも……違った。困ってたのは、自分のことだった」

 晴がまっすぐこちらを見る。

「晴を好きかもしれない自分を……どう考えればいいのか、分からなくて」

 言った。好きかもしれない――初めて、その言葉を本人へ向けた。心臓が大きく鳴る。

「それを、晴のせいみたいに言った。ごめんなさい」

 晴はしばらく黙っていた。

「あのときは……本当に嫌だった」

「……うん」

「またかって思った。真帆まで、って」

 晴が一度、目を伏せる。

「結構、傷ついたよ」

 胸が縮む。それでも、私は目を逸らさなかった。

「うん」

「でも今日の真帆見て、あのとき言ってたこと、ちゃんと考えてたんだなって思った」

 目の奥が熱くなった。許してくれる? そう聞きかけて、止めた。今それを聞けば、晴に「許す」か「許さない」かを答えさせることになる。私が安心するために。それは違う。

「……まだ、怒ってる?」

 晴は少し考えた。

「少し」

「そっか」

 胸は痛んだ。でも、その答えを変えてほしいとは思わなかった。晴がまだ怒っているなら、今はそれでいい。

「でも、話してくれてよかった」

「……うん」

 許してもらえたわけではない。元通りになったわけでもない。それでも、今はそこまででよかった。

 少し沈黙が続いた。晴が、ためらうように口を開く。

「あのさ、真帆。さっきの……」

 その一言だけで、晴が何を言おうとしているのか分かった。好きかもしれない。自分で言った言葉が、胸の中へ戻ってくる。

「あのね」

 晴が続きを言う前に、声を出した。

「私、ちゃんと話したい。晴に、今考えてること」

 晴が目を上げる。言葉にすると、また心臓が鳴った。

「まだ全部は分かってないし、ちゃんと説明できるかも分からないけど……分からないままでも、言えるところまでは話したい」

 晴は黙って聞いている。

「でも……今日は、まだ無理かも。ごめん」

「それは謝らなくていい。私も今日は、もう頭いっぱいだし」

 晴の声が柔らかくなった。それに思わず、少し笑った。

「じゃあ……明日、終わってからでもいい?」

「いいよ。そのとき、話そ」

 晴も笑う。

「……うん」

 終わりではない。まだ、話せる先がある。今度は晴に決めてもらったのではなく、私が自分で、その続きを残した。

 教室を出る前に、もう一度、恋愛のパネルの前で足を止めた。

『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』

 明日、誰かがこの問いを見る。何かを書くかもしれない。何も書かずに通り過ぎるかもしれない。変だと思う人も。変ではないと思う人も。分からない人も。同じことで悩んでいる人もいるかもしれない。

 答えは一つではない。それでも問いは、ここにある。消されずに残っている。

 私も、たぶん同じだった。晴を好きなのか。自分は何なのか。これからどうなるのか。まだ全部の答えは出ていない。でも、分からないからといって、なかったことにしなくていい。問いごと、消してしまわなくていい。

 パネルに貼られた紙を、もう一度見る。今日、私は初めてそれを、自分の言葉で守れた気がした。