翌日。朝から、文化祭前日の校舎は落ち着かなかった。廊下には段ボール。教室の前には脚立。どこからか絵の具の匂いがして、遠くでは電動ドライバーの音がしている。二年二組も例外ではなかった。授業は午前中で終わり、午後からはすべて文化祭準備に使えることになっている。
「真帆、これ貼るのこの辺でいい?」
莉子が色画用紙を持ちながら、私を呼んだ。
『答えは、一つじゃなくていい。』
展示の入口に置く予定の言葉だった。
「もう少し左、あと三センチ」
「真帆の三センチ信用できない」
莉子は、昨日のことなんて何もなかったように笑っていた。その明るい声につられて、私も口元を緩める。晴は教室の前方で、クラス紹介の練習をしている。本番で着る濃紺のジャケットだけを、制服の上から羽織っていた。
「答えの出ない問い、集めました。あなたなら、どう答えますか。二年二組『十七歳の問い』へ――」
晴が言葉を読み上げると、誰かが叫んだ。
「硬い!」
「やっぱ硬い?」
「晴なんだから、もっと普通でいいよ。最後『来てね!』でよくない?」
「よくないでしょ。急に雑」
教室に笑い声が広がる。晴も笑った。私はその横顔を見る。昨日、『明日、少し話せる?』と送った。晴は、『文化祭の作業終わったあとなら』と返してくれた。だから、今日は話す。そのことを考えるだけで、胸が重くなる。でも、逃げない。少なくとも、話すことだけは決めていた。
午後二時になると、展示はほとんど完成していた。教室の机を壁際へ寄せ、中央に通路を作る。五つのテーマごとにパネルを並べる。入口で付箋を受け取り、気になった質問へ自由に回答してもらう。出口には、新しい質問箱。
『あなたの「まだ分からない」も、ここに置いていってください。』
最初は、もっと簡単な企画だと思っていた。質問を貼り、答えを書いてもらう――単純なものだと思っていた。でも、何か月もかけて作ってきた教室を見ると、不思議な気持ちになった。
「結構ちゃんとしてるね」
気がつくと、晴が隣に並んでいた。
「……自分たちで作ったのに?」
「だから余計に。真帆、文化祭始まっても直してそう」
「直すところがあったら」
「怖い」
以前と同じように話せた。でも、あの日のことは残っている。どちらも分かっている。
「晴、あとでこの前の話……ちゃんと話すから」
小さく言うと、晴は一度だけ頷いた。
「うん」
それ以上はない。でも、今日話を聞いてくれる。そのことは分かった。
「質問カード、最終チェックするよー」
莉子の声で、何人かが教室の後ろへ集まった。パネルへ仮留めした質問を、一覧表と照らし合わせる。落ちているものがないか、同じカードを二枚貼っていないか、カテゴリは合っているか。
「進路、三十二枚……家族、二十八。友達、三十五」
「合ってる」
順番に確認していく。恋愛。私も数える。二十九枚。だけど一覧には、三十とある。
「莉子、一枚足りない」
そう言った。晴が床を見るけれど、何もない。
「マジ? どれだろ」
莉子が一覧表と紙を一枚ずつ照らし合わせる。告白。片思い。恋人。元恋人。友達と恋人。私が書いた問い。ある。
『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』
その近く。
『好きな人に好きと言わないことは、優しさですか。』
これもある。
「……これだ」
一覧表の一行に目が留まった。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
パネルにない。もう一度探すけれど、やっぱりない。
「この質問が、ない」
声に出すと、何人かの視線が集まる。莉子が私の手元を覗き込んだ。晴も気づく。
「昨日は確かあったよね。どっか落ちた?」
床。机の下。余った質問カードを入れている箱。探したけれど、どこにもない。
「それなら保留の方じゃない?」
後ろから声がした。一人のクラスメイトが、机の上に置かれたクリアファイルを指している。
「保留?」
「さっき外したやつ」
胸がざわついた。晴がファイルを開くと、一番上に置いてあった。少し右に傾いた、黒い文字。
「何で外したの?」
晴が聞く。クラスメイトは目線を外し、言いづらそうに口を開いた。
「いや……明日、いろんな人来るじゃん。これだけ、ちょっと面倒なことにならないかなって……心配になっただけ」
悪意はなかった。たぶん。本当に。困ったから、いったん外したのだと思う。
「でも、先生は大丈夫って言ってなかった?」
莉子が言うと、クラスメイトは目を瞬かす。
「そうなの? ごめん、聞いてなかった」
晴が紙を持ち上げて、ひらひらと振った。
「これ、先生には確認済み」
「ならいいけど……」
相手はすぐに引いた。これで終わるはずだった。でも。
「たださ……わざわざ出さなくてもよくない?」
別の人が言った。その言葉に、空気が少し変わる。
「質問はいっぱいあるし。回答で変なこと書かれたら、管理面倒そう」
「それはある」
誰かが同意する。私は黙って聞いていた。言っていることは、分かる。二百枚近い質問がある。一枚外したところで、展示そのものは成立する。文化祭は明日。今さら問題が起こる可能性を増やしたくない。面倒なことは避けたい。その気持ちも分かる。なのに胸の奥が、ひどくざらついた。
「でもさ。それなら、最初に残した意味なくない?」
晴が言った。
「でも別に、これだけじゃないじゃん。似た質問ある?」
「似たのはないかな」
莉子が一覧を見る。他にはなかった。女の子が女の子を好きになることについて聞いている質問は――一枚だけ。
「だったらなくても、誰も気づかなくない?」
誰かが言う。その一言で、私の中の何かが動いた。気づかない。確かに。百枚以上並んでいる中から、一枚だけなくなっても。ほとんどの人は、きっと気づかない。でも、書いた人は。
「……残した方がいいと思う」
声が出て、自分でも驚いた。途端に教室が静かになる。何人かが私を見た。怖い。こんなに人がいるところで。自分から。今までなら一度頭の中で文章を作って、これで合っているか考えて、その間に話が終わった。今日はもう、言ってしまった。
「なんで?」
聞かれるけれど、答えは準備していない。正解も知らない。それでも。
「これを書いた人は……誰にも聞けなくて、ここなら書けると思ったのかもしれないから」
静かだった。初めてこの質問を見た日のことを思い出す。あのとき、晴が言った。
『ここで外したら、その人、やっぱり聞いちゃだめだったって思わないかな』
その言葉を聞いたときに、私はまだ想像することしかできなかった。でも今は、少し違う。検索履歴を全部消した夜。相談窓口だけをブックマークしたこと。莉子に『晴を、好きかもしれない』と言うまで、何度も言葉を飲み込んだこと。自分の中にある問いを、誰にも見せたくないと思ったこと。
誰にも聞けないことは、ある。
「でも、書いた本人がそうとは限らなくない?」
誰かが言った。
「うん。限らない」
すぐに頷いた。本人のことではないかもしれない。友達のことかもしれない。ただ思いついて書いただけかもしれない。
「分からない」
言った。以前なら、そこで終わった。だけど今日は、その先がある。
「でも、分からないから外すのは違うと思う。私たち、答えが出ないことを集めたんだよね。だから……」
胸が鳴っている。晴がこちらを見ている。私はもう一度、紙を見る。喉が詰まる。それでも続けた。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
「ここで、これだけ外したら、書いた人が見に来たとき……やっぱり、聞いちゃだめだったんだって思うかもしれない」
晴から聞いた言葉。でも今はもう、晴の言葉を借りているだけではなかった。
「なくても、誰も気づかないかもしれない。だけど書いた人だけは、気づくかもしれない」
言い終わった。怖かった。言いすぎたかもしれない。面倒な人だと思われたかもしれない。それでも、今さら撤回したいとは思わなかった。
「私は残す方に一票かな。だって、先生もいいって言ってるんでしょ」
いつもの調子で莉子が言った。
「うん。回答はこっちで確認する」
晴が答えると、修也も言った。
「なら、別にいいんじゃない? ほかの質問も同じルールだし。変な回答来る可能性、これだけじゃないしね」
その声に、同意の声が広がっていく。最初に外したクラスメイトは、気まずそうに紙を見た。
「じゃあ、戻す?」
「うん。戻そうよ」
晴が言った。それで終わった。拍手もない。誰かが感動するわけでもない。劇的なことは何も起きなかった。ただ一枚の紙が、元の場所へ戻ることになった。晴が両面テープを取る。私は手を伸ばした。
「私がやる」
「真帆?」
「うん」
紙を受け取る。恋愛のパネルの空いている場所。そこへ貼ると、少し曲がった。気になるので一度剥がす。
「真帆、そこまで真っすぐじゃなくても読めるよ」
「気になる」
「知ってる」
もう一度。今度は真っすぐ貼った。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
紙はただ、元の場所へ戻っていった。
それから何事もなかったみたいに、作業が再開した。テープ。付箋。案内板。掃除。私も動くけれど、心臓だけはまだ速かった。段ボールを廊下へ出しに行ったところで、同じく段ボールを抱えた莉子が追いかけてきた。
「真帆。さっき、すごかったね。普通に喋ってた。クラス全員いるとこで、自分から」
「……必要だったから」
莉子は口元を緩めた。昨日の話とは結びつけない。何も聞かない。それがありがたかった。
「莉子、ありがとう。一票って言ってくれたこと」
「別に。私も残した方がいいと思っただけ」
莉子はそう言ってから、「これ重い」と段ボールを私へ半分押しつけた。
「真帆も手伝ってよ」
「今ありがとうって言ったのに」
「だから手伝って」
そんなやりとりをしながら、私たちは廊下を並んで歩いた。
◇
夕方になって、最後の作業が終わった。
「お疲れさま!」
誰かが声を上げると、教室に拍手が起きた。明日は文化祭。何か月も作ってきたものが、とうとう知らない人たちの目に触れる。少し怖い。でも、楽しみでもあった。クラスメイトが帰り始める。莉子も鞄を持って、私を見た。
「じゃ、先帰るね。また明日」
「また明日」
修也も帰る。
「お疲れ」
「お疲れ様」
ほかの生徒も一人ずつ、教室からいなくなる。最後に、私と晴だけが残った。約束していたから、話す。窓の外は、夕暮れだった。完成した『十七歳の問い』が、静かになった教室の壁に並んでいる。晴は自分の机へ、軽く腰を預けた。
「真帆、さっきさ。格好よかった」
それは、思っていなかった言葉だった。
「……何が?」
「質問、戻したとこ」
「別に」
「別にじゃないでしょ。真帆、ああいうとき黙る人だと思ってた」
「私も」
「自分で言うんだ」
「でもあれは、言わないと嫌だった。誰が書いたか分からないけど……消されたままにしたくなかった」
私は恋愛のパネルを見る。晴は少しのあいだ、何も言わなかった。
「そっか」
「うん」
沈黙が訪れる。今度は私の番だった。
「晴、この前のこと……」
口にすると、晴の表情が変わった。
「もう一回、謝りたい。でも、前と同じことは言わない」
声が震える。晴は何も言わずに待っている。私は一度、息を吸った。
「この前、晴が女の子だから、私が困ってるみたいに言った。でも……違った。困ってたのは、自分のことだった」
晴がまっすぐこちらを見る。
「晴を好きかもしれない自分を……どう考えればいいのか、分からなくて」
言った。好きかもしれない――初めて、その言葉を本人へ向けた。心臓が大きく鳴る。
「それを、晴のせいみたいに言った。ごめんなさい」
晴はしばらく黙っていた。
「あのときは……本当に嫌だった」
「……うん」
「またかって思った。真帆まで、って」
晴が一度、目を伏せる。
「結構、傷ついたよ」
胸が縮む。それでも、私は目を逸らさなかった。
「うん」
「でも今日の真帆見て、あのとき言ってたこと、ちゃんと考えてたんだなって思った」
目の奥が熱くなった。許してくれる? そう聞きかけて、止めた。今それを聞けば、晴に「許す」か「許さない」かを答えさせることになる。私が安心するために。それは違う。
「……まだ、怒ってる?」
晴は少し考えた。
「少し」
「そっか」
胸は痛んだ。でも、その答えを変えてほしいとは思わなかった。晴がまだ怒っているなら、今はそれでいい。
「でも、話してくれてよかった」
「……うん」
許してもらえたわけではない。元通りになったわけでもない。それでも、今はそこまででよかった。
少し沈黙が続いた。晴が、ためらうように口を開く。
「あのさ、真帆。さっきの……」
その一言だけで、晴が何を言おうとしているのか分かった。好きかもしれない。自分で言った言葉が、胸の中へ戻ってくる。
「あのね」
晴が続きを言う前に、声を出した。
「私、ちゃんと話したい。晴に、今考えてること」
晴が目を上げる。言葉にすると、また心臓が鳴った。
「まだ全部は分かってないし、ちゃんと説明できるかも分からないけど……分からないままでも、言えるところまでは話したい」
晴は黙って聞いている。
「でも……今日は、まだ無理かも。ごめん」
「それは謝らなくていい。私も今日は、もう頭いっぱいだし」
晴の声が柔らかくなった。それに思わず、少し笑った。
「じゃあ……明日、終わってからでもいい?」
「いいよ。そのとき、話そ」
晴も笑う。
「……うん」
終わりではない。まだ、話せる先がある。今度は晴に決めてもらったのではなく、私が自分で、その続きを残した。
教室を出る前に、もう一度、恋愛のパネルの前で足を止めた。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
明日、誰かがこの問いを見る。何かを書くかもしれない。何も書かずに通り過ぎるかもしれない。変だと思う人も。変ではないと思う人も。分からない人も。同じことで悩んでいる人もいるかもしれない。
答えは一つではない。それでも問いは、ここにある。消されずに残っている。
私も、たぶん同じだった。晴を好きなのか。自分は何なのか。これからどうなるのか。まだ全部の答えは出ていない。でも、分からないからといって、なかったことにしなくていい。問いごと、消してしまわなくていい。
パネルに貼られた紙を、もう一度見る。今日、私は初めてそれを、自分の言葉で守れた気がした。
「真帆、これ貼るのこの辺でいい?」
莉子が色画用紙を持ちながら、私を呼んだ。
『答えは、一つじゃなくていい。』
展示の入口に置く予定の言葉だった。
「もう少し左、あと三センチ」
「真帆の三センチ信用できない」
莉子は、昨日のことなんて何もなかったように笑っていた。その明るい声につられて、私も口元を緩める。晴は教室の前方で、クラス紹介の練習をしている。本番で着る濃紺のジャケットだけを、制服の上から羽織っていた。
「答えの出ない問い、集めました。あなたなら、どう答えますか。二年二組『十七歳の問い』へ――」
晴が言葉を読み上げると、誰かが叫んだ。
「硬い!」
「やっぱ硬い?」
「晴なんだから、もっと普通でいいよ。最後『来てね!』でよくない?」
「よくないでしょ。急に雑」
教室に笑い声が広がる。晴も笑った。私はその横顔を見る。昨日、『明日、少し話せる?』と送った。晴は、『文化祭の作業終わったあとなら』と返してくれた。だから、今日は話す。そのことを考えるだけで、胸が重くなる。でも、逃げない。少なくとも、話すことだけは決めていた。
午後二時になると、展示はほとんど完成していた。教室の机を壁際へ寄せ、中央に通路を作る。五つのテーマごとにパネルを並べる。入口で付箋を受け取り、気になった質問へ自由に回答してもらう。出口には、新しい質問箱。
『あなたの「まだ分からない」も、ここに置いていってください。』
最初は、もっと簡単な企画だと思っていた。質問を貼り、答えを書いてもらう――単純なものだと思っていた。でも、何か月もかけて作ってきた教室を見ると、不思議な気持ちになった。
「結構ちゃんとしてるね」
気がつくと、晴が隣に並んでいた。
「……自分たちで作ったのに?」
「だから余計に。真帆、文化祭始まっても直してそう」
「直すところがあったら」
「怖い」
以前と同じように話せた。でも、あの日のことは残っている。どちらも分かっている。
「晴、あとでこの前の話……ちゃんと話すから」
小さく言うと、晴は一度だけ頷いた。
「うん」
それ以上はない。でも、今日話を聞いてくれる。そのことは分かった。
「質問カード、最終チェックするよー」
莉子の声で、何人かが教室の後ろへ集まった。パネルへ仮留めした質問を、一覧表と照らし合わせる。落ちているものがないか、同じカードを二枚貼っていないか、カテゴリは合っているか。
「進路、三十二枚……家族、二十八。友達、三十五」
「合ってる」
順番に確認していく。恋愛。私も数える。二十九枚。だけど一覧には、三十とある。
「莉子、一枚足りない」
そう言った。晴が床を見るけれど、何もない。
「マジ? どれだろ」
莉子が一覧表と紙を一枚ずつ照らし合わせる。告白。片思い。恋人。元恋人。友達と恋人。私が書いた問い。ある。
『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』
その近く。
『好きな人に好きと言わないことは、優しさですか。』
これもある。
「……これだ」
一覧表の一行に目が留まった。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
パネルにない。もう一度探すけれど、やっぱりない。
「この質問が、ない」
声に出すと、何人かの視線が集まる。莉子が私の手元を覗き込んだ。晴も気づく。
「昨日は確かあったよね。どっか落ちた?」
床。机の下。余った質問カードを入れている箱。探したけれど、どこにもない。
「それなら保留の方じゃない?」
後ろから声がした。一人のクラスメイトが、机の上に置かれたクリアファイルを指している。
「保留?」
「さっき外したやつ」
胸がざわついた。晴がファイルを開くと、一番上に置いてあった。少し右に傾いた、黒い文字。
「何で外したの?」
晴が聞く。クラスメイトは目線を外し、言いづらそうに口を開いた。
「いや……明日、いろんな人来るじゃん。これだけ、ちょっと面倒なことにならないかなって……心配になっただけ」
悪意はなかった。たぶん。本当に。困ったから、いったん外したのだと思う。
「でも、先生は大丈夫って言ってなかった?」
莉子が言うと、クラスメイトは目を瞬かす。
「そうなの? ごめん、聞いてなかった」
晴が紙を持ち上げて、ひらひらと振った。
「これ、先生には確認済み」
「ならいいけど……」
相手はすぐに引いた。これで終わるはずだった。でも。
「たださ……わざわざ出さなくてもよくない?」
別の人が言った。その言葉に、空気が少し変わる。
「質問はいっぱいあるし。回答で変なこと書かれたら、管理面倒そう」
「それはある」
誰かが同意する。私は黙って聞いていた。言っていることは、分かる。二百枚近い質問がある。一枚外したところで、展示そのものは成立する。文化祭は明日。今さら問題が起こる可能性を増やしたくない。面倒なことは避けたい。その気持ちも分かる。なのに胸の奥が、ひどくざらついた。
「でもさ。それなら、最初に残した意味なくない?」
晴が言った。
「でも別に、これだけじゃないじゃん。似た質問ある?」
「似たのはないかな」
莉子が一覧を見る。他にはなかった。女の子が女の子を好きになることについて聞いている質問は――一枚だけ。
「だったらなくても、誰も気づかなくない?」
誰かが言う。その一言で、私の中の何かが動いた。気づかない。確かに。百枚以上並んでいる中から、一枚だけなくなっても。ほとんどの人は、きっと気づかない。でも、書いた人は。
「……残した方がいいと思う」
声が出て、自分でも驚いた。途端に教室が静かになる。何人かが私を見た。怖い。こんなに人がいるところで。自分から。今までなら一度頭の中で文章を作って、これで合っているか考えて、その間に話が終わった。今日はもう、言ってしまった。
「なんで?」
聞かれるけれど、答えは準備していない。正解も知らない。それでも。
「これを書いた人は……誰にも聞けなくて、ここなら書けると思ったのかもしれないから」
静かだった。初めてこの質問を見た日のことを思い出す。あのとき、晴が言った。
『ここで外したら、その人、やっぱり聞いちゃだめだったって思わないかな』
その言葉を聞いたときに、私はまだ想像することしかできなかった。でも今は、少し違う。検索履歴を全部消した夜。相談窓口だけをブックマークしたこと。莉子に『晴を、好きかもしれない』と言うまで、何度も言葉を飲み込んだこと。自分の中にある問いを、誰にも見せたくないと思ったこと。
誰にも聞けないことは、ある。
「でも、書いた本人がそうとは限らなくない?」
誰かが言った。
「うん。限らない」
すぐに頷いた。本人のことではないかもしれない。友達のことかもしれない。ただ思いついて書いただけかもしれない。
「分からない」
言った。以前なら、そこで終わった。だけど今日は、その先がある。
「でも、分からないから外すのは違うと思う。私たち、答えが出ないことを集めたんだよね。だから……」
胸が鳴っている。晴がこちらを見ている。私はもう一度、紙を見る。喉が詰まる。それでも続けた。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
「ここで、これだけ外したら、書いた人が見に来たとき……やっぱり、聞いちゃだめだったんだって思うかもしれない」
晴から聞いた言葉。でも今はもう、晴の言葉を借りているだけではなかった。
「なくても、誰も気づかないかもしれない。だけど書いた人だけは、気づくかもしれない」
言い終わった。怖かった。言いすぎたかもしれない。面倒な人だと思われたかもしれない。それでも、今さら撤回したいとは思わなかった。
「私は残す方に一票かな。だって、先生もいいって言ってるんでしょ」
いつもの調子で莉子が言った。
「うん。回答はこっちで確認する」
晴が答えると、修也も言った。
「なら、別にいいんじゃない? ほかの質問も同じルールだし。変な回答来る可能性、これだけじゃないしね」
その声に、同意の声が広がっていく。最初に外したクラスメイトは、気まずそうに紙を見た。
「じゃあ、戻す?」
「うん。戻そうよ」
晴が言った。それで終わった。拍手もない。誰かが感動するわけでもない。劇的なことは何も起きなかった。ただ一枚の紙が、元の場所へ戻ることになった。晴が両面テープを取る。私は手を伸ばした。
「私がやる」
「真帆?」
「うん」
紙を受け取る。恋愛のパネルの空いている場所。そこへ貼ると、少し曲がった。気になるので一度剥がす。
「真帆、そこまで真っすぐじゃなくても読めるよ」
「気になる」
「知ってる」
もう一度。今度は真っすぐ貼った。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
紙はただ、元の場所へ戻っていった。
それから何事もなかったみたいに、作業が再開した。テープ。付箋。案内板。掃除。私も動くけれど、心臓だけはまだ速かった。段ボールを廊下へ出しに行ったところで、同じく段ボールを抱えた莉子が追いかけてきた。
「真帆。さっき、すごかったね。普通に喋ってた。クラス全員いるとこで、自分から」
「……必要だったから」
莉子は口元を緩めた。昨日の話とは結びつけない。何も聞かない。それがありがたかった。
「莉子、ありがとう。一票って言ってくれたこと」
「別に。私も残した方がいいと思っただけ」
莉子はそう言ってから、「これ重い」と段ボールを私へ半分押しつけた。
「真帆も手伝ってよ」
「今ありがとうって言ったのに」
「だから手伝って」
そんなやりとりをしながら、私たちは廊下を並んで歩いた。
◇
夕方になって、最後の作業が終わった。
「お疲れさま!」
誰かが声を上げると、教室に拍手が起きた。明日は文化祭。何か月も作ってきたものが、とうとう知らない人たちの目に触れる。少し怖い。でも、楽しみでもあった。クラスメイトが帰り始める。莉子も鞄を持って、私を見た。
「じゃ、先帰るね。また明日」
「また明日」
修也も帰る。
「お疲れ」
「お疲れ様」
ほかの生徒も一人ずつ、教室からいなくなる。最後に、私と晴だけが残った。約束していたから、話す。窓の外は、夕暮れだった。完成した『十七歳の問い』が、静かになった教室の壁に並んでいる。晴は自分の机へ、軽く腰を預けた。
「真帆、さっきさ。格好よかった」
それは、思っていなかった言葉だった。
「……何が?」
「質問、戻したとこ」
「別に」
「別にじゃないでしょ。真帆、ああいうとき黙る人だと思ってた」
「私も」
「自分で言うんだ」
「でもあれは、言わないと嫌だった。誰が書いたか分からないけど……消されたままにしたくなかった」
私は恋愛のパネルを見る。晴は少しのあいだ、何も言わなかった。
「そっか」
「うん」
沈黙が訪れる。今度は私の番だった。
「晴、この前のこと……」
口にすると、晴の表情が変わった。
「もう一回、謝りたい。でも、前と同じことは言わない」
声が震える。晴は何も言わずに待っている。私は一度、息を吸った。
「この前、晴が女の子だから、私が困ってるみたいに言った。でも……違った。困ってたのは、自分のことだった」
晴がまっすぐこちらを見る。
「晴を好きかもしれない自分を……どう考えればいいのか、分からなくて」
言った。好きかもしれない――初めて、その言葉を本人へ向けた。心臓が大きく鳴る。
「それを、晴のせいみたいに言った。ごめんなさい」
晴はしばらく黙っていた。
「あのときは……本当に嫌だった」
「……うん」
「またかって思った。真帆まで、って」
晴が一度、目を伏せる。
「結構、傷ついたよ」
胸が縮む。それでも、私は目を逸らさなかった。
「うん」
「でも今日の真帆見て、あのとき言ってたこと、ちゃんと考えてたんだなって思った」
目の奥が熱くなった。許してくれる? そう聞きかけて、止めた。今それを聞けば、晴に「許す」か「許さない」かを答えさせることになる。私が安心するために。それは違う。
「……まだ、怒ってる?」
晴は少し考えた。
「少し」
「そっか」
胸は痛んだ。でも、その答えを変えてほしいとは思わなかった。晴がまだ怒っているなら、今はそれでいい。
「でも、話してくれてよかった」
「……うん」
許してもらえたわけではない。元通りになったわけでもない。それでも、今はそこまででよかった。
少し沈黙が続いた。晴が、ためらうように口を開く。
「あのさ、真帆。さっきの……」
その一言だけで、晴が何を言おうとしているのか分かった。好きかもしれない。自分で言った言葉が、胸の中へ戻ってくる。
「あのね」
晴が続きを言う前に、声を出した。
「私、ちゃんと話したい。晴に、今考えてること」
晴が目を上げる。言葉にすると、また心臓が鳴った。
「まだ全部は分かってないし、ちゃんと説明できるかも分からないけど……分からないままでも、言えるところまでは話したい」
晴は黙って聞いている。
「でも……今日は、まだ無理かも。ごめん」
「それは謝らなくていい。私も今日は、もう頭いっぱいだし」
晴の声が柔らかくなった。それに思わず、少し笑った。
「じゃあ……明日、終わってからでもいい?」
「いいよ。そのとき、話そ」
晴も笑う。
「……うん」
終わりではない。まだ、話せる先がある。今度は晴に決めてもらったのではなく、私が自分で、その続きを残した。
教室を出る前に、もう一度、恋愛のパネルの前で足を止めた。
『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』
明日、誰かがこの問いを見る。何かを書くかもしれない。何も書かずに通り過ぎるかもしれない。変だと思う人も。変ではないと思う人も。分からない人も。同じことで悩んでいる人もいるかもしれない。
答えは一つではない。それでも問いは、ここにある。消されずに残っている。
私も、たぶん同じだった。晴を好きなのか。自分は何なのか。これからどうなるのか。まだ全部の答えは出ていない。でも、分からないからといって、なかったことにしなくていい。問いごと、消してしまわなくていい。
パネルに貼られた紙を、もう一度見る。今日、私は初めてそれを、自分の言葉で守れた気がした。
