まだ名前のない、きみの隣

 翌朝、教室へ入る前に足が止まった。扉の向こうには、いつもの二年二組がある。晴もいる。昨日までなら、それで済んだ。今日は違う。扉を開けたら、晴と顔を合わせる。何と言えばいいんだろう。おはよう。昨日はごめん。話したい。一つずつ、頭の中で候補を並べる。

 順番まで考える。最初に謝るべきか。昨日の続きを話したいと言うべきか。でも晴は昨日、今は聞けないと言った。話したいと言っても、今なら聞けるとは限らない。

「……真帆?」

 後ろから声がした。振り向くと、莉子が立っていた。

「何してるの?」

「……考え事」

「教室の前で? 邪魔になるよ?」

 莉子が苦笑し、先に扉を開けた。仕方なく、その後ろへ続く。教室を見ると、晴はもう来ていた。自分の席で、ただスマートフォンを見ている。笑ってはいなかった。怒っているようにも見えない。

 晴がこちらに気づいて顔を上げると、目が合った。

「……おはよう」

 先に言ったのは、晴だった。

「おはよう」

 それだけ言って、晴は目線を戻した。いつもなら何か一つくらい、その先がある。今日はなかった。私も続けられなかった。

 席へ座って、鞄から教科書を取り出す。晴は何も言わない。当然だ。昨日、晴は一人で帰りたいと言った。一晩寝たからといって、全部元通りになるわけではない。それなのに、晴から「おはよう」と言われただけで、少し安心してしまった。まだ話してくれる。そんなふうに思ってしまった。

◇

 午前中、晴とは必要なこと以外、ほとんど話さなかった。

「はい、プリント」

「ありがとう」

 返事はそこで終わった。昼休みも晴はバスケ部の一年生に呼ばれて、体育館へ行った。だから、莉子と二人で弁当を食べる。

「喧嘩したの?」

 おかずを口へ運びながら、莉子が聞いた。

「……した」

「やっぱり。真帆、何か言ったの?」

 すぐには答えられなかった。でも、今回は「別に」と言いたくなかった。

「……うん」

「何て言ったの?」

「……今は言いづらい」

「そう」

 莉子はそれ以上聞かなかった。そして、いつもと同じ顔で唐揚げを食べる。その普通さに、救われた。

「でも、真帆が悪かったと思ってるなら、謝った方がいいんじゃない?」

「謝った。だけど、駄目で……晴とちゃんと話したい」

 そう答えてから、驚いた。話さなければならないではなく、話したい。そう思っている。

「何を?」

「……それが」

 言葉が止まった。分からない。違う、全部が分からないわけではない。むしろ、前よりは分かってきている。ただ、それを言葉にすると、何かが決まってしまうようで怖かった。

 莉子が私を見る。

「どうしたの?」

「何でもない」

「今、何か言おうとしたでしょ」

「……うん」

「じゃあ、言いたくなったら言ってよ」

「莉子、たまにちゃんとしてるね」

「たまにって何」

 莉子の言葉に、私は笑った。でも、晴がいない席を見ると、また胸が重くなった。

◇

 放課後は、文化祭の作業があった。あと二日。教室には、ほとんどの係の生徒が残っている。晴も、私も、当然残った。

「真帆。恋愛のパネル、こっちでいい? 高さこのくらい?」

 晴が聞いた。

「うん、大丈夫」

「了解」

 文化祭のことは、普通に話す。だけどそれ以外は、話さない。晴は、他の生徒にはいつも通りだった。笑う。頼まれれば手伝う。誰かが冗談を言えば返す。昨日のことなど、何もなかったように。でも少なくとも、私に対しては少し遠い。

 誰にでも同じ晴。以前ならそう思ったかもしれない。今は違う。晴は誰にでも話す。だけど、誰にでも泣いているところを見せるわけではない。誰にでも一緒に帰りたいと言うわけではない。誰にでも、『私の、どこ見てるのかなって』なんて聞くわけではない。

 私は、そういう晴を知ってしまった。だから今の距離が前よりも、ずっとはっきり分かった。

 六時前になって、「今日はここまでにしようか」と晴が言った。クラスメイトが片づけを始める。私は鞄へ資料を入れながら、何度も晴を見た。話したい。でも、みんながいる。教室では無理。駅まで一緒に帰れるだろうか。だけど昨日、晴は一人で帰りたいと言った。今日もそうかもしれない。聞いていいのか。まだ聞かない方がいいのか。

「真帆。今日、ちょっと残れる?」

 考えていると、莉子が隣へ来た。

「え?」

「話したいんだけど」

 晴を見ると、ちょうど鞄を持ったところだった。莉子がそのまま、私の視線の先を追う。

「一緒に帰るつもりだった?」

「……分からない」

「そっか。じゃあ少しだけいい?」

 そう言って、莉子は空いている机を指した。

「晴が帰ってからね」

 小声で付け足し、莉子が笑う。なぜ莉子が話したいのか、分からない。でも断る理由もなかった。鞄を肩にかけて、晴が一人で席を立つ。

「じゃあ、お先に」

 修也が「また明日」と言うと、同じ言葉を晴が返す。それから一瞬だけ、私を見た。

「真帆も、また明日」

「……うん。また明日」

 扉が閉まった。その言葉だけで泣きそうになるほど、安心した。また明日。明日がある。そのあと、クラスメイトたちはそれぞれ教室を出て行った。莉子と二人だけになった頃には、窓の外はもう薄暗くなっていた。

「で」

 莉子が言う。

「聞かないって言ったけど、やっぱ一個だけ聞いていい? 晴のことで、真帆が困ってるのって……ただ喧嘩したからだけじゃないでしょ」

 その言葉に、心臓が鳴った。

「……どうして?」

「真帆が変だから」

「私が? いつから?」

「そこまで正確には分かんない」

 つい身を乗り出しそうになると、莉子が少し考える。

「七海のこと気にしてた頃とか、牧野と写真展行ったときも……なんだか晴の反応ばっか見てたし。最近は晴も、なんか変だし」

 胸が動く。期待しそうになって、すぐに止めた。莉子が続ける。

「だから真帆は、何がそんなに怖いの?」

 莉子が、少しだけ声を落とした。すぐには答えられなかった。晴を好きなのか。晴が女の子だからなのか。自分が何なのか分からなくなることなのか。全部、別々の問題だと思っていた。でも口にしようとすると、一つのところへ戻ってくる。

「……だって、晴を」

 声が止まった。喉が閉じる。莉子は何も言わない。私の言葉を、待っている。

「晴を」

 もう一度、その名前を口にする。紙には書いたことがある。検索欄にも。頭の中では、何度も並べた。でも、誰かへ向けてこの言葉と一緒に声にするのは、初めてだった。

「私、晴を……好きかもしれない」

 言った。教室は何も変わらなかった。窓。机。黒板。文化祭の展示パネル。全部がそのまま。天井が落ちてくることも、誰かが突然教室へ入ってくることもない。莉子も、驚いて大声を出したりしなかった。

「そっか」

「……それだけ?」

「じゃあ、何て言えばいいの?」

「分からないけど」

「なら、『そっか』でよくない?」

「でも……変じゃない?」

 聞いたあとで、自分でも驚いた。女の子が女の子を好きになるのは、変ですか――文化祭の質問箱に入っていた、あの一枚と同じだった。

「私は別に、変だとは思わないけど」

 莉子はあっさり答えた。

「でも真帆、たぶんそれだけで困ってるわけじゃないんでしょ?」

「……うん」

 それには、すぐ答えられた。

「晴だからっていうのもあるし、女の子だからっていうのもあって。晴を好きなら、私は――」

「待って」

 莉子が会話を遮るように手を上げた。

「真帆、また全部いっぺんに考えようとしてる」

「でも、つながってるから」

「真帆の中ではね」

 莉子は呆れたように目を細めて、少し考えてから言った。

「好きかもしれないなら、好きかもしれないでいいんじゃない?」

「……よくない」

「なんで?」

「まだ決まってないから」

「だから『かもしれない』って付いてるんでしょ」

 言葉が止まる。

「真帆、明日までに全部決めなきゃいけないの? 晴を好きなのか。これが恋なのか。真帆が何なのか」

 莉子の言葉に、私は何も言えなくなる。今まで別々に抱えていた問いを、一度に指された気がした。

「でも、晴に話すなら……」

「晴に、真帆の人生の最終回答を提出するの?」

「……しない」

「じゃあ、今日分かってることまででいいんじゃない?」

「今日の分?」

「うん。明日考えたら、明日の分が増えるかもしれないし」

 そんな考え方をしたことがなかった。答えは、一度決めたら正しくなければいけないと思っていた。莉子は、そんな私を見て笑う。

「だって今それ聞いても、真帆が急に別人になった感じしないし」

「そうなの?」

「普通に真帆。考えすぎるし、返事遅いし、面倒くさい」

「最後いらなくない?」

「大事」

 思わず笑った。少しだけ息が楽になる。でも、晴に言った言葉のことは残っていた。

「莉子。私、昨日……」

 私は話した。以前、晴自身から、『男だったら』という前提をつけられるのは変な感じがすると聞いていたこと。それなのに、自分も晴へ「男の子だったらもっと簡単だった」と言ったこと。ふいに莉子の表情が変わる。

「……それ知ってて言ったの? それは……晴、きつかったと思う」

「そうだよね……でも、晴が男になればいいって思ったわけじゃない」

「じゃあ、何だったの?」

「私が……」

 昨日、ようやく分かったことを口にする。

「男子を好きになる人のままでいたかった」

 莉子は黙って聞いている。

「晴が男の子だったら、自分のことをこんなに考えなくて済んだから。晴が男っぽいからじゃない。私が、そう考えた方が楽だっただけ。ひどいよね」

「確かに言ったことは、晴を傷つけたと思う。でも、それをどうするかは、晴と話すしかなくない?」

「許してもらえるかな」

「知らない。許すかどうかも晴が決めることでしょ」

 そこまで言って、莉子は肩をすくめる。その通りだった。

「晴と友達じゃなくなるのが……怖い」

「じゃあ、それも今日の分じゃない?」

「……何が?」

「晴を好きかもしれない。傷つけたことは謝りたい。友達じゃなくなるのは怖い。今、そこまでは分かってるでしょ」

 莉子が指を折って、私を見る。全部の答えではない。でも、何も分からないわけでもなかった。ここまで分かっていることが、今日の分の答えだった。

 莉子と教室を出た頃には、七時近くになっていた。二人で昇降口へ向かい、靴を履き替える。

「莉子。今日のこと……」

「言わないよ。本人に言うことは、自分で言いなよ」

「……うん」

 校門で手を振り、莉子と別れた。私は一人で駅へ歩く。昨日の雨は上がっていた。道路の端には、まだ小さな水たまりが残っている。スマートフォンを取り出して、晴とのメッセージ画面を開く。最後の会話は一昨日。昨日は何もない。今日もだった。入力欄へ文字を打つ。

『昨日はごめん』

 そこで止まる。もう謝った。消す。

『話したいことがあります』

 硬い。消す。

『明日、少し話せる?』

 そこまで打って、指を止める。晴を好きなのか。まだ「好き」とは言い切れない。でも、さっき莉子には言えた。好きかもしれない。声にしても世界は壊れないし、私は私のままだった。そのまま送信するけれど、既読はすぐにはつかなかった。

 駅へ着いて、改札を通る。ホームへ上がると、スマートフォンが震えた。画面を見ると、晴だった。

『うん』

 その二文字。続けて『文化祭の作業終わったあとなら』と返ってきた。胸が苦しくなる。でも、逃げたくなかった。

 電車へ乗ると、夜の窓に自分の顔が映っていた。明日、晴に何を言う。昨日の言葉を謝る。晴を男の子にしたかったわけではないと伝える。自分が今まで思っていた形の中に残りたくて、晴をそこへ当てはめようとしたことを伝える。

 そして、好きかもしれない。そこまで言うのか、まだ分からない。怖い。だけど、分からないからこそ言える言葉もあるのかもしれない。

――私は、晴のことが好きかもしれない。

 「好き」だけではまだ言えない。でも「分からない」だけでも、もうなかった。その間に、今の私が立っている場所がある。

 明日、全部は言えなくてもいい。完成した答えでなくてもいい。間違えないことばかり考えるのではなく、今分かっていることを、今の言葉で話す。そのくらいなら、私にもできるかもしれなかった。