まだ名前のない、きみの隣

 文化祭まで、一週間を切った。教室の後ろは、もう普段の教室ではなくなっている。壁際には展示パネル。机の上には、色別に分けた付箋。窓際には、余った模造紙や両面テープ、印刷した質問カードの束。小さな黒板の端には、当日までに終わらせる作業が書かれている。

 回答スペースの説明。案内表示。クラス紹介リハーサル。質問カード最終確認。一つ終わるたびに線を引く。それでも、減るより増える方が早い。

「文化祭って、なんで毎年みんなやるんだろ」

 莉子が床へ座り込んだまま言った。その隣で、晴がさらりと答える。

「楽しいからじゃない?」

「晴、今楽しい?」

「ちょっと」

「私は帰りたい。もう五時半だよ」

 外を見ると、いつの間にか雨が降り始めていた。九月の終わりとは思えない蒸し暑さが続いていたけれど、今日は朝から曇っている。窓ガラスを、細い雨粒がいくつも流れていた。

「これから雨ひどくなるらしいよ」

 修也が立ち上がり、スマートフォンを見ながら言う。

「ほんと? じゃあ今日もう終わりにしない?」

「待って莉子、ここまで貼ったら。あと十枚あるから」

 私が壁を指すと、莉子はじっとりと目を細めた。

「ねえ。真帆だけ文化祭への熱量おかしくない?」

「中途半端で帰る方が気になる」

「はいはい」

 呆れたように言って、莉子が立ち上がる。その隣で晴も苦笑した。

「真帆、最初実行委員嫌がってたのにね」

「晴が巻き込んだからでしょ」

「でも今、私より真面目」

「晴が適当なの」

「失礼な」

 いつもの会話だった。この間の帰り道から、晴との間に大きな変化はない。むしろ前より楽になった気もする。

『男っぽい私の方が、好き?』

 あの問いには、一つだけ答えられた。方が、はない。格好いい晴だけが、大事なわけではない。泣いている晴も。くだらないことで笑っている晴も。私が知っているものを一つずつ比べて、どれかを選ぶ話ではなかった。

 そして私は晴を、男の子の代わりとして見ているわけでもない。そこまでは、もう戻らなくていい。ただ、その先にある言葉だけはまだ、選べなかった。

◇

 六時を過ぎた頃に、作業はようやく一区切りついた。

「やっと終わったー」

 莉子が席に座り、机へ突っ伏す。

「じゃあ今日はここまで。片付けよっか」

 そう言って、晴が手を叩いた。全員で机を戻す。修也は印刷した写真をファイルへまとめ、莉子は余った付箋を箱へ入れる。私は質問カードの枚数を確認した。一枚。二枚。三枚。恋愛の項目。その中に、自分の書いたものがある。

『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』

 そして、もう一枚。

『好きな人に好きと言わないことは、優しさですか。』

 二枚とも、文化祭当日に展示する。見るたびに、まだ胸がざわついていた。

「真帆。それ明日でいいよ。もう暗いし」

 晴が言った。

「あと枚数確認だけ」

「真帆、雨も強くなってる。傘ある?」

 窓を見ると、確かにさっきより雨脚が強くなっていた。

「一応ある」

「ならいいけど」

 晴は自分の鞄を持つ。莉子は母親が車で迎えに来るらしい。修也も部室に寄って、写真部の仲間と一緒に帰るという。結局私と晴だけが、駅まで一緒になった。

 昇降口を出ると、雨の音が一気に近くなった。私は折り畳み傘。晴は透明なビニール傘。二人で傘を開き、並んで歩く。

「結構降ってるね。靴濡れそう」

「もう濡れてる」

「真帆、早い」

 校門を出ると、道路には浅い水たまりができていた。いつもなら駅まで、適当に話しながら歩く。でも今日は、なぜか会話が長く続かなかった。雨の音が大きいせいかもしれない。文化祭の準備で疲れているせいかもしれない。

「晴。クラス紹介、大丈夫?」

「別に大丈夫だよ。真帆だったら無理そう」

「無理」

「知ってる」

 晴は普段どおりに応じてくれる。会話はできる。何も気まずくない。それでもどこかに、私がまだ答えられていないことが残っていた。

「真帆。水族館、文化祭の次の日曜、空いてる?」

 晴から呼ばれて、心臓が跳ねた。

「……たぶん」

「たぶん?」

 私は傘を持ち替えて、スマートフォンを取り出した。カレンダーを見ると、何も予定はない。

「空いてる」

「よかった。じゃあ行こ」

「うん」

 決まった。二人で、水族館。胸が軽くなったその瞬間、別の何かが喉の奥へ引っかかった。休日に二人で出かける。誘われて嬉しい。一緒に帰る日を楽しみにする。連絡が来ないと気になる。他の人と近くにいると、嫌になる。泣いていたら、そばにいたい。誰かに取られたくない。特別でいたい。

 以前、似たようなことを一つずつ数えた。足りないものがあるのだと思っていた。まだ何か、これを恋だと決めるための条件が足りないのだと。だから、答えが出ないのだと。

 でも、もし相手が男の子だったら。同じことが全部起きていたら。私はこんなに長く迷っただろうか。休日に二人で出かけて、相手から誘われて嬉しくて、他の女の子と仲良くしていたら嫌で、ずっとそばにいたいと思って。その相手が男の子だったら、きっと周りの人も、私自身も。もっと簡単に、これは「好き」なのだと考えた。そう思った瞬間に、胸が苦しくなった。

「……真帆? また黙った」

「……考えてた」

「何を?」

 晴は軽く聞いた。いつものように、本当に何気なく。だから私は、油断した。

「……晴が男の子だったら」

 ふいに口から出ると、晴の足が止まる。私も止まった。雨が、晴の透明な傘を細かく叩いている。もう言わない方がいい。そう思ったのに。

「もっと簡単だったのに……」

 言ってしまった。途端に晴の顔から、笑いが消えた。

「……何が?」

「待って。ごめん、違う」

「何が簡単なの?」

「今の言い方、違う」

「じゃあ、何?」

 雨の音が急に大きく聞こえた。横を通り過ぎた車が、道路の水を跳ね上げる。

「私が……」

 言葉が出ないまま固まっていると、晴が眉を寄せる。

「真帆?」

「晴のことを考えるのが……」

「私の何を?」

「違う、そうじゃなくて」

「分かんないよ」

 晴の声が少し硬くなる。答えられない。自分でも、まだ一つの言葉にはできていなかった。

「真帆。さっきから何の話してるの?」

 その言葉で、余計に焦った。説明しなければ。晴に、違うと分かってもらわなければ。

「……普通だから」

 言った瞬間、また間違えたと思った。晴の眉が動く。

「何が普通なの?」

「だから……男子を好きになる方が……」

 喉が詰まる。晴が黙った。その顔を見て、もっと違うと思った。

「違う。晴が普通じゃないって言ってるんじゃなくて、私が」

「真帆が?」

「私が……普通に……」

 言葉にならない。晴が困ったように、でも傷ついたように私を見る。

「真帆、落ち着いてよ。どうしたの」

「私も分かんない……!」

 声が大きくなった。晴が目を見開く。

「分かんないから、ずっと考えてて……晴が男の子だったら、こんなに考えなくてよかったのにって……!」

「だから、何を?」

「全部!」

 ほとんど叫ぶように言った。

「私が、女の子を好きなのかとか……!」

 口にした瞬間、息が止まった。晴も黙った。雨だけが鳴っている。でも、一度出た言葉は戻らなかった。

「私は何なのかとか。男の子も好きになるのかとか、晴だけなのかとか、これが本当にそういう好きなのかとか……!」

 自分でも、何を言っているのか分からなくなっていた。止めたい。でも止まらない。

「もしこれがそういう好きだったら、この先どうなるんだろうとか。お母さんに何て言うんだろうとか。別に今言う必要なんてないのに、そんなことまで考えて……!」

「真帆」

「でも晴が男の子だったら、そんなの考えなくてよかった……!」

 言ってから、また違うと思った。晴は何も言わない。

「違う……晴に、男の子になってほしいんじゃない……」

 声が震えた。

「じゃあ……何なの」

 晴の声も、もう強くなかった。本当に分からないのだと思った。私が何を言っているのか。たぶん、私自身よりも。

「私の方が、普通でいたかったの……!」

 傘の柄を握る指に力が入る。ようやく出た。息を吸っても、うまく入らない。晴は何も言わないまま、私を見ていた。

「晴じゃなくて、私が……男の子を好きになる人で、そのうち男の子と付き合って、そういう自分のままだったら、何も考えなくて済んだから……」

 言葉が途切れて、声が小さくなる。

「晴が男の子だったらよかったんじゃない。私が、楽だっただけ……」

 そこまで言って、もう何も出なくなった。雨が傘を叩き続けている。晴はしばらく、何も言わなかった。たぶん晴にも、まだ全部は分かっていない。私だって、分かっていない。

 ただ一つだけ。私は晴を変えたかったんじゃない。変わらずにいたかったのは、私の方だった。男子を好きになる人。いつか男の子と付き合う人。今まで何となく、自分もそうなのだと思っていた人。

 そこから外れないでいたかった。でもそれを説明できたからといって、最初に晴へ向けた言葉が、消えるわけではなかった。

「それ……私に言う?」

 晴の声に、胸を掴まれたみたいに痛んだ。

「……ごめん」

「私、自分が女なの嫌じゃないよ」

「分かってる」

「だったら私が女なのを、真帆が困る理由にしないでよ」

 晴の声が掠れる。何も返せなかった。その通りだった。私が困っている。私が怖い。私が、自分のことを決められない。それなのに、晴が女だから――そんな形で口にした。

「ごめん……」

「うん。でも今は……これ以上は、ちょっと聞けない」

 晴が息を吐く。初めてだった。晴が、私の続きを待たなかった。だけど、それは当然だった。

「ごめん真帆。今日は一人で帰りたい」

「……分かった」

 私は呼び止めなかった。晴は歩き出す。透明な傘が、雨の向こうへ遠ざかっていく。その背中を見ながら、さっき自分が言った言葉だけが、何度も頭の中へ戻ってきた。

 女の子を好きなのか。それは、ずっと一人で考えていた問いだった。初めて声にした相手が、晴だった。しかも、晴本人に。その事実が、雨より冷たく胸に残った。

 しばらくして、私は一人で駅へ向かった。雨は変わらず降っている。さっきまで、晴が隣にいた。いつもなら水たまりを避けて、くだらない話をして、駅に着いたらまた明日と言う。今日は、一人だった。

 スマートフォンを取り出して、晴とのメッセージ画面を開いた。

『ごめん』

 そう打つ。でも、送れない。今また送れば、晴に何か返させることになるかもしれない。画面を閉じ、駅のホームで電車を待つ。その間に自分が言った言葉を、何度も思い出していた。

 晴が男の子だったら、もっと簡単だったのに――最低だった。晴がずっと言われてきたこと。男だったら。彼氏にしたい。男子より格好いい。晴自身を見るより先に、「男だったら」という仮定を置かれること。

 晴は、それがたまに変な感じがすると言っていた。私は知っていた。知ったばかりだった。それなのに、同じ言葉を使った。理由が違うから。悪意がなかったから。そんなことは、今は関係なかった。

 晴は傷ついた。それだけは考えなくても分かった。

 家へ帰っても、何も手につかなかった。夕食。風呂。宿題。全部を、ただ順番に終わらせた。机の上には、文化祭用に持ち帰った資料があった。一番上に置いた質問カードの一覧を、何となく開く。

 恋愛。その中にある『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』の紙。最初に見たとき、怖かった。自分にも関係する問いなのかもしれないと思ったから。そして今も、やっぱり怖い。

 でも今日は初めて、その紙を書いた人のことを考えた。もしこの人が本当に、女の子を好きなのだとしたら、同じように考えたことがあるのだろうか。相手が男の子だったら、自分が男だったら、もっと簡単だったのに――と。

 そう思うこと自体と、それを好きな相手へ向けて口にすることは、たぶん同じではない。

 晴の顔が浮かんだ。私が女なのを、真帆が困る理由にしないでよ――あの言葉に、私は何も返せなかった。もう一枚を見る。自分の質問だった。

『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』

 今まで私は、自分の気持ちが何なのかばかり考えていた。友情なのか。恋愛なのか。女の子が好きなのか。男の子も好きになるのか。晴だけなのか。何と呼べばいいのか。全部自分の問題だった。

 でも相手がいる。晴がいる。私が自分の答えを探しているあいだも、晴はそこにいる。私が言った言葉を聞く。傷つくこともある。

 修也のことを思い出した。あのときも自分を知りたくて、目の前にいる人を自分の答えのために使いかけた。今回は違う。同じではない。でも、自分のことを考えるのに夢中になって、相手が何を感じるかを後ろへ置いたところは、どこか似ていた。

 時計を見ると、十一時を回っていた。晴からメッセージは来ない。私も送っていなかった。明日学校で会う。同じ教室。文化祭の準備もある。逃げられない。逃げたくない。もう一度謝る。でも謝れば元に戻る、とも思いたくなかった。

 晴に男の子になってほしかったわけではない。それだけは分かる。変わってほしかったのはたぶん、晴ではない。私はずっと男の子を好きになる未来を、何となく自分の先に置いていた。そこから外れるかもしれないことが怖かった。

 だから、晴が男の子だったら。そう考えれば、今までの自分を変えずに済んだ。簡単だった。きっと。私がほしかったのは、自分が何も考えなくて済む方の答えだった。そこまで考えて、目を閉じた。

 晴に何を言うべきなのかは、まだ分からなかった。でももう一度話すなら、今度は自分が楽になるための言葉ではなくて、晴に向けた言葉を選びたかった。