文化祭まで、あと二週間になった。教室の後ろには、完成しかけた展示パネルが並んでいる。進路。家族。友達。恋愛。自分自身。それぞれの見出しの下に、選んだ質問を仮留めしていた。
私が書いた紙もある。
『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』
最初は自分の字を見るたびに落ち着かなかったけれど、今は少し慣れた。誰も私が書いたとは知らない。だからなのかもしれない。
六時間目のホームルーム中、黒板の前で先生が言った。
「開会式での出し物紹介、各クラス三十秒な。委員を中心に、金曜までに内容出しといて」
その声に、教室がざわつく。文化祭当日の朝、体育館で全クラスが短い宣伝をするらしい。確かに、去年もあった気がする。でも、自分のクラスが何をしたのかは覚えていなかった。
「誰出る?」
「実行委員でいいじゃん」
すぐに声が上がって、嫌な予感がした。後ろを見ると、晴は笑っている。
「だって。真帆、出る?」
「出ない」
「即答。じゃあ私一人?」
「一人でできるなら」
「冷たい」
「説明は晴の方が得意でしょ」
実際そうだった。晴は、人前で話すことをあまり苦にしない。私は十人の前でも百人の前でも苦手だ。
「話すだけだと普通すぎない? どうせなら何かやれば?」
前の方から声が上がった。
「何かって?」
「寸劇とか」
いくつか案が飛び始める。質問カードを一枚読む。先生を出す。全員で叫ぶ。クイズ。どれも、私には同じくらい恥ずかしく見えた。
「王子でよくない?」
誰かが言った。一瞬、教室が静かになる。
「王子?」
「晴が。白シャツにジャケットとか着せてさ。本物の男子より格好よさそう」
「あー、分かる。絶対似合う」
その声に、晴が自分を指さす。
「私? 劇じゃないのになんで王子なの」
「なんとなく王子。文化祭っぽいし」
「説明になってない」
晴は笑っていた。嫌そうには見えない。
「じゃあ王子が、『悩める十七歳よ』って言うとか?」
「それは無理」
教室中が笑う。くだらない。でも、文化祭らしいと言えば文化祭らしい。晴も笑っている。だから、私も特に気にしなかった。
「衣装はどうする?」
「演劇部に借りれば? 晴、ジャケット似合いそう」
「それは分かる。男装正解じゃん」
意見がどんどんまとまっていく。だけど、その言葉だけが胸に引っかかった。正解。何が。何に対して。
「でもさ、本人の意見聞いてなくない?」
喧騒の中で、莉子が言った。みんなが晴を見る。晴は考えるようにして、腕を組んでいた。
「……衣装による」
「やるんだ」
「面白そうなら」
「さすが晴。じゃあ決定!」
「まだ衣装見てないって」
また笑いが起きた。晴も困ったように笑っている。さっきの引っかかりは、それ以上大きくならなかった。結局、クラス紹介では晴が王子役をして、短く企画を紹介する方向で話を詰めることになった。
私は出ない。その点だけは守られた。
◇
「真帆、これ見て」
放課後、晴がスマートフォンを差し出した。通販サイトの画面だった。黒いジャケット。白いシャツ。細身のパンツ。
「……これ王子?」
「王子っぽくない?」
「ホテルの人みたい。王子服って、もっと飾りあるんじゃない?」
「真帆、意外と王子に厳しいね」
「だって、王子って言うから」
晴が画面をスクロールする。次に見せてきたのは、白いジャケットに金色の装飾がついた衣装だった。
「こっちは?」
「王子だ。でも、文化祭で買うには高い。演劇部に聞いた方がいいんじゃない?」
「莉子が聞いてくれるって」
そう言ってから、晴はスマートフォンをしまう。少し間を置いて、晴が口を開いた。
「真帆は私が王子やるの、変じゃない?」
「変?」
「似合わないとか」
「似合うと思う」
すぐに答えると、晴の口元が緩む。
「早い」
「似合うかどうかだけなら。晴、やっぱりジャケットとか似合いそうだから」
短い髪に、すっと伸びた姿勢。バスケをしているからか、立っているだけでも動きやすそうに見える身体。ジャケットはたぶん似合う。そこまでは、自然に思えた。
「別に晴が王子みたいだから、じゃないけど」
そのあと、そう付け足した。
「違うの?」
「そもそも王子みたいな人って、何?」
「知らない。じゃあ何で似合うと思うの」
「晴に服が似合いそうだから」
そう言うと、晴は一度黙った。
「……真帆って、たまに変なところ細かいよね。でも嫌いじゃない」
鼓動が跳ねる。もう、この程度の言葉にも反応する自分が面倒だった。
「……それ褒めてる?」
「褒めてる」
「じゃあ、ありがとう」
「素直」
晴の表情が和らいだ。その顔を見ながら、ホームルームで聞いた言葉を思い出す。本物の男子より格好よさそう。男装正解。褒めているのだと思う。悪意はない。晴も笑っていた。だからたぶん、何も問題はないはずだった。
◇
翌日、莉子が演劇部から借りてきた衣装を、昼休みの机へ広げていた。一つ目、紺色のジャケット。二つ目、白いシャツに黒いベスト。三つ目、金色の装飾がついた、少し古風な白い上着。
「すごいね。三つ目、王子じゃん」
「でしょ。着てみてよ、晴。上だけならいけるでしょ」
晴は笑って、白い上着を受け取った。制服のブラウスの上から羽織る。肩にも装飾があって、金色の飾りが照明を反射した。
「どう?」
晴が両手を少し広げる。
「おお」
「なになに? やば! 似合う!」
「ほんとに王子じゃん」
上着を着た晴の姿を見て、周りに人が集まってきた。クラスメイトの輪の中で、晴は照れたように笑っていた。
「これ暑い」
「そこなの?」
「写真撮ろうよ」
「ポスターにも使えるかも」
そう言って、誰かがスマートフォンを構える。
「晴、ちょっとキメて」
「キメるって何」
「それっぽく」
「雑」
笑いながら、晴は姿勢を変えた。片手を胸元へ当て、顎をほんの少し上げてみる。
「うわ、似合う」
「やっぱ正解すぎる」
またその言葉だった。それに晴の笑顔が、一瞬だけ止まった。本当に一瞬だった。だけど次には、「正解って何」といつものように笑っていた。
「だって似合うじゃん」
「似合うはいいけど」
「じゃあ正解」
「だから何の」
笑いが起きる。晴も笑った。でも最初の一瞬だけ、私は見ていた。
「晴、これ本番で着る?」
莉子が聞くと、晴が俯いて袖を見た。そこにあるのは白い布と、金色の飾り。
「別に嫌じゃないけど……なんか、やりすぎじゃない? 企画より、衣装の方が目立ちそう」
「確かにそれはあるかもね」
頷いた莉子の隣で、晴は上着を脱いだ。
「私、家に濃紺のセットアップあるんだけど」
「そうなんだ。それ着る?」
「まあ、それならサイズも合ってるから動きやすいし」
「王子感ある?」
「どうかな。だけど別に、私が王子になる必要なくない?」
晴がそう言うと、莉子は考えるように目線を上げた。
「まあね。要は、晴が紹介すればいいんだし。盛り上がってるだけで、王子の必要ないからね」
「とりあえず、帰って写真だけ撮っとくよ」
話はそれでまとまった。白い王子服は、机の上へ畳まれた。晴は制服のまま、見慣れた姿に戻っていた。それを見て、なぜか私は安心していた。
◇
その日は木曜日だった。だから、晴と二人で駅へ向かう。文化祭が近づいたせいで、最近は帰る時間が少し遅い。夕方の光も、夏休み前より短くなっていた。
「晴。結局、自分の服にするんだね」
「まあ、オッケーが出たらね」
「白いのも似合ってたけど」
「本当? 真帆に言われると、ちょっと嬉しい」
晴の笑顔に胸が動く。だけど以前ほど、いちいち理由を探そうとは思わなくなっていた。嬉しいものは嬉しい。今は、それでいいことにした。
「でも……やっぱり、自分の服の方がいいと思う」
「何で?」
「晴が選んだ服だから」
そう言うと、晴が私に視線を向けた。
「そんな理由? なんか、真帆っぽい」
通い慣れた道を、並んで歩く。しばらくして、晴がスマートフォンを取り出した。昼に撮られた写真を開く。白い王子服を着た晴。カメラの前で、格好つけた顔だった。
「これ、やっぱ私じゃないみたい」
「晴でしょ」
「そうなんだけど」
「何が違うの?」
「分かんない」
言いながら、晴がじっと画面を見つめる。
「なんか、すごい『そういう人』に見える」
「そういう?」
「王子っぽい人」
「衣装が王子だから」
晴はスマートフォンを持ったまま「確かにね」と笑った。だけど数歩進んでから、ぽつりと呟いた。
「だけど今日さ、ちょっとだけ複雑だったかも」
その声に、私は咄嗟に横を見る。晴は、前を向いたままだった。
「……何が?」
「みんなが言ってたこと。別に嫌じゃなかったんだよ。服も面白かったし、似合うって言われるのも別にいい。でも……こっちの方がいいみたいに言われると、なんか変」
「……変? どうして?」
「分かんない」
晴がようやくこちらを見て、少し困ったように笑う。
「普段の私は、何なんだろってなる。昔から言われるし。男だったら絶対モテるのに、とか。彼氏にしたい、とか」
返事が出てこなかった。以前、莉子が晴に言ったことを思い出した。女子に彼氏にしたいとか言われそう――あのとき、晴は笑っていた。
「……嫌だったの?」
「全部じゃないよ。普通に褒めてくれてるんだなって思うときもあるし。でも、たまに……」
晴はすぐに否定した。だけどそう言ってから、少し考える。
「私が男だったら、って前提がつくのが……変だなって思う」
それ以上は、うまく言えないらしい。晴は口を閉じた。私も何も言わなかった。信号が赤になり、二人で止まる。
「真帆も、今日みたいな方が好き?」
隣を見ると、晴は信号を見たままだった。その横顔に、心臓が跳ねた。
「……今日みたいな?」
「王子っぽい方」
「服の話?」
「服だけじゃなくて」
晴は視線を下げ、そして、一度息を吸う。
「短い髪とか、バスケしてるとことか。そういうの含めて、男っぽい私の方が、好き?」
好き。その言葉だけが、はっきり聞こえた。答えを探す。短い髪。バスケをしている晴。格好いいと思う。それは本当だった。もし、髪が長かったら。バスケをしていなかったら。今日みたいな服を着なかったら。今よりずっと柔らかい格好ばかりする人だったら。
「……分からない」
結局、最初に出たのはその言葉だった。
「そっか」
晴の声が低くなる。信号が青へ変わって、晴が先に歩き出す。
「待って。晴、違う」
私が慌てて横に並ぶと、晴が歩幅を小さくした。
「今の、分からない……分からないけど、ちゃんと考えたい」
「……何を?」
「晴のこと、適当に考えたくないから。晴の短い髪が好きだからとか、バスケしてて格好いいからとか。そういうのだけで答えたくない」
自分で言って、胸が鳴った。言えるのは、そこまでだった。それ以上はまだ、自分にも分からない。晴はふいに目を伏せる。
「そっか。真帆らしいね」
だけど今度の声は、さっきと違った。
「それ褒めてるの?」
「今日は褒めてる」
横を見ると、いつもの晴の笑い方に戻っていた。
「私も真帆に何が聞きたかったのか、よく分かってないし。いろいろ言われて、真帆にもそう見えてるのかなって思っただけ。だから忘れて」
「忘れないと思う」
「そこは忘れてよ。真帆ほんと覚えてるよね」
晴の表情が緩む。その横顔を見た。何を聞きたかったのか、晴自身にもまだ分からない。それでも私は、ちゃんと答えたいと思った。
◇
家へ帰ってからも信号の前で聞かれたことが、頭から離れなかった。
『男っぽい私の方が、好き?』
王子の衣装が格好よかった。それは本当だった。短い髪も似合っていると思う。バスケをしている晴も格好いい。そこに惹かれているのも、たぶん本当。でも、体育館で泣いていた晴を思い出す。
『真帆いるから、余計だめ』
私の肩へ頭を預けた晴。ピンクのリップを塗って、『どう?』と聞いた晴。メロンソーダを飲みながら、夏の水族館は涼しいから好きだと言った晴。教室でくだらないことを言って笑う晴。どれも嫌ではなかった。むしろ好きだった。
好き。その言葉まで来て、胸が苦しくなる。
机の上のスマートフォンが目に入った。以前なら検索したと思う。男っぽい女の子が好き。ボーイッシュな女の子 恋愛。女の子 男みたいだから好き。そんな言葉を並べて、誰かの答えを探した。
でも今日は、スマートフォンを手に取らなかった。検索したところで私が晴の何を見ているのかまでは、誰にも分からない。それは私が考えるしかない。短い髪だからなのか。バスケをしているからなのか。格好いいからなのか。もし、それが全部なくなったら。私は晴を見なくなるのだろうか。体育館で泣いていた晴を思い出す。ピンクのリップを塗った晴を思い出す。どちらも私が知っている晴だった。
だったら私が好きだと思っているのは、何なのだろう。答えはまだ出なかった。でも今日はもう、「分からない」の一言だけで終わらせたくない。あのときの晴の顔がずっと、頭から離れなかった。
私が書いた紙もある。
『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』
最初は自分の字を見るたびに落ち着かなかったけれど、今は少し慣れた。誰も私が書いたとは知らない。だからなのかもしれない。
六時間目のホームルーム中、黒板の前で先生が言った。
「開会式での出し物紹介、各クラス三十秒な。委員を中心に、金曜までに内容出しといて」
その声に、教室がざわつく。文化祭当日の朝、体育館で全クラスが短い宣伝をするらしい。確かに、去年もあった気がする。でも、自分のクラスが何をしたのかは覚えていなかった。
「誰出る?」
「実行委員でいいじゃん」
すぐに声が上がって、嫌な予感がした。後ろを見ると、晴は笑っている。
「だって。真帆、出る?」
「出ない」
「即答。じゃあ私一人?」
「一人でできるなら」
「冷たい」
「説明は晴の方が得意でしょ」
実際そうだった。晴は、人前で話すことをあまり苦にしない。私は十人の前でも百人の前でも苦手だ。
「話すだけだと普通すぎない? どうせなら何かやれば?」
前の方から声が上がった。
「何かって?」
「寸劇とか」
いくつか案が飛び始める。質問カードを一枚読む。先生を出す。全員で叫ぶ。クイズ。どれも、私には同じくらい恥ずかしく見えた。
「王子でよくない?」
誰かが言った。一瞬、教室が静かになる。
「王子?」
「晴が。白シャツにジャケットとか着せてさ。本物の男子より格好よさそう」
「あー、分かる。絶対似合う」
その声に、晴が自分を指さす。
「私? 劇じゃないのになんで王子なの」
「なんとなく王子。文化祭っぽいし」
「説明になってない」
晴は笑っていた。嫌そうには見えない。
「じゃあ王子が、『悩める十七歳よ』って言うとか?」
「それは無理」
教室中が笑う。くだらない。でも、文化祭らしいと言えば文化祭らしい。晴も笑っている。だから、私も特に気にしなかった。
「衣装はどうする?」
「演劇部に借りれば? 晴、ジャケット似合いそう」
「それは分かる。男装正解じゃん」
意見がどんどんまとまっていく。だけど、その言葉だけが胸に引っかかった。正解。何が。何に対して。
「でもさ、本人の意見聞いてなくない?」
喧騒の中で、莉子が言った。みんなが晴を見る。晴は考えるようにして、腕を組んでいた。
「……衣装による」
「やるんだ」
「面白そうなら」
「さすが晴。じゃあ決定!」
「まだ衣装見てないって」
また笑いが起きた。晴も困ったように笑っている。さっきの引っかかりは、それ以上大きくならなかった。結局、クラス紹介では晴が王子役をして、短く企画を紹介する方向で話を詰めることになった。
私は出ない。その点だけは守られた。
◇
「真帆、これ見て」
放課後、晴がスマートフォンを差し出した。通販サイトの画面だった。黒いジャケット。白いシャツ。細身のパンツ。
「……これ王子?」
「王子っぽくない?」
「ホテルの人みたい。王子服って、もっと飾りあるんじゃない?」
「真帆、意外と王子に厳しいね」
「だって、王子って言うから」
晴が画面をスクロールする。次に見せてきたのは、白いジャケットに金色の装飾がついた衣装だった。
「こっちは?」
「王子だ。でも、文化祭で買うには高い。演劇部に聞いた方がいいんじゃない?」
「莉子が聞いてくれるって」
そう言ってから、晴はスマートフォンをしまう。少し間を置いて、晴が口を開いた。
「真帆は私が王子やるの、変じゃない?」
「変?」
「似合わないとか」
「似合うと思う」
すぐに答えると、晴の口元が緩む。
「早い」
「似合うかどうかだけなら。晴、やっぱりジャケットとか似合いそうだから」
短い髪に、すっと伸びた姿勢。バスケをしているからか、立っているだけでも動きやすそうに見える身体。ジャケットはたぶん似合う。そこまでは、自然に思えた。
「別に晴が王子みたいだから、じゃないけど」
そのあと、そう付け足した。
「違うの?」
「そもそも王子みたいな人って、何?」
「知らない。じゃあ何で似合うと思うの」
「晴に服が似合いそうだから」
そう言うと、晴は一度黙った。
「……真帆って、たまに変なところ細かいよね。でも嫌いじゃない」
鼓動が跳ねる。もう、この程度の言葉にも反応する自分が面倒だった。
「……それ褒めてる?」
「褒めてる」
「じゃあ、ありがとう」
「素直」
晴の表情が和らいだ。その顔を見ながら、ホームルームで聞いた言葉を思い出す。本物の男子より格好よさそう。男装正解。褒めているのだと思う。悪意はない。晴も笑っていた。だからたぶん、何も問題はないはずだった。
◇
翌日、莉子が演劇部から借りてきた衣装を、昼休みの机へ広げていた。一つ目、紺色のジャケット。二つ目、白いシャツに黒いベスト。三つ目、金色の装飾がついた、少し古風な白い上着。
「すごいね。三つ目、王子じゃん」
「でしょ。着てみてよ、晴。上だけならいけるでしょ」
晴は笑って、白い上着を受け取った。制服のブラウスの上から羽織る。肩にも装飾があって、金色の飾りが照明を反射した。
「どう?」
晴が両手を少し広げる。
「おお」
「なになに? やば! 似合う!」
「ほんとに王子じゃん」
上着を着た晴の姿を見て、周りに人が集まってきた。クラスメイトの輪の中で、晴は照れたように笑っていた。
「これ暑い」
「そこなの?」
「写真撮ろうよ」
「ポスターにも使えるかも」
そう言って、誰かがスマートフォンを構える。
「晴、ちょっとキメて」
「キメるって何」
「それっぽく」
「雑」
笑いながら、晴は姿勢を変えた。片手を胸元へ当て、顎をほんの少し上げてみる。
「うわ、似合う」
「やっぱ正解すぎる」
またその言葉だった。それに晴の笑顔が、一瞬だけ止まった。本当に一瞬だった。だけど次には、「正解って何」といつものように笑っていた。
「だって似合うじゃん」
「似合うはいいけど」
「じゃあ正解」
「だから何の」
笑いが起きる。晴も笑った。でも最初の一瞬だけ、私は見ていた。
「晴、これ本番で着る?」
莉子が聞くと、晴が俯いて袖を見た。そこにあるのは白い布と、金色の飾り。
「別に嫌じゃないけど……なんか、やりすぎじゃない? 企画より、衣装の方が目立ちそう」
「確かにそれはあるかもね」
頷いた莉子の隣で、晴は上着を脱いだ。
「私、家に濃紺のセットアップあるんだけど」
「そうなんだ。それ着る?」
「まあ、それならサイズも合ってるから動きやすいし」
「王子感ある?」
「どうかな。だけど別に、私が王子になる必要なくない?」
晴がそう言うと、莉子は考えるように目線を上げた。
「まあね。要は、晴が紹介すればいいんだし。盛り上がってるだけで、王子の必要ないからね」
「とりあえず、帰って写真だけ撮っとくよ」
話はそれでまとまった。白い王子服は、机の上へ畳まれた。晴は制服のまま、見慣れた姿に戻っていた。それを見て、なぜか私は安心していた。
◇
その日は木曜日だった。だから、晴と二人で駅へ向かう。文化祭が近づいたせいで、最近は帰る時間が少し遅い。夕方の光も、夏休み前より短くなっていた。
「晴。結局、自分の服にするんだね」
「まあ、オッケーが出たらね」
「白いのも似合ってたけど」
「本当? 真帆に言われると、ちょっと嬉しい」
晴の笑顔に胸が動く。だけど以前ほど、いちいち理由を探そうとは思わなくなっていた。嬉しいものは嬉しい。今は、それでいいことにした。
「でも……やっぱり、自分の服の方がいいと思う」
「何で?」
「晴が選んだ服だから」
そう言うと、晴が私に視線を向けた。
「そんな理由? なんか、真帆っぽい」
通い慣れた道を、並んで歩く。しばらくして、晴がスマートフォンを取り出した。昼に撮られた写真を開く。白い王子服を着た晴。カメラの前で、格好つけた顔だった。
「これ、やっぱ私じゃないみたい」
「晴でしょ」
「そうなんだけど」
「何が違うの?」
「分かんない」
言いながら、晴がじっと画面を見つめる。
「なんか、すごい『そういう人』に見える」
「そういう?」
「王子っぽい人」
「衣装が王子だから」
晴はスマートフォンを持ったまま「確かにね」と笑った。だけど数歩進んでから、ぽつりと呟いた。
「だけど今日さ、ちょっとだけ複雑だったかも」
その声に、私は咄嗟に横を見る。晴は、前を向いたままだった。
「……何が?」
「みんなが言ってたこと。別に嫌じゃなかったんだよ。服も面白かったし、似合うって言われるのも別にいい。でも……こっちの方がいいみたいに言われると、なんか変」
「……変? どうして?」
「分かんない」
晴がようやくこちらを見て、少し困ったように笑う。
「普段の私は、何なんだろってなる。昔から言われるし。男だったら絶対モテるのに、とか。彼氏にしたい、とか」
返事が出てこなかった。以前、莉子が晴に言ったことを思い出した。女子に彼氏にしたいとか言われそう――あのとき、晴は笑っていた。
「……嫌だったの?」
「全部じゃないよ。普通に褒めてくれてるんだなって思うときもあるし。でも、たまに……」
晴はすぐに否定した。だけどそう言ってから、少し考える。
「私が男だったら、って前提がつくのが……変だなって思う」
それ以上は、うまく言えないらしい。晴は口を閉じた。私も何も言わなかった。信号が赤になり、二人で止まる。
「真帆も、今日みたいな方が好き?」
隣を見ると、晴は信号を見たままだった。その横顔に、心臓が跳ねた。
「……今日みたいな?」
「王子っぽい方」
「服の話?」
「服だけじゃなくて」
晴は視線を下げ、そして、一度息を吸う。
「短い髪とか、バスケしてるとことか。そういうの含めて、男っぽい私の方が、好き?」
好き。その言葉だけが、はっきり聞こえた。答えを探す。短い髪。バスケをしている晴。格好いいと思う。それは本当だった。もし、髪が長かったら。バスケをしていなかったら。今日みたいな服を着なかったら。今よりずっと柔らかい格好ばかりする人だったら。
「……分からない」
結局、最初に出たのはその言葉だった。
「そっか」
晴の声が低くなる。信号が青へ変わって、晴が先に歩き出す。
「待って。晴、違う」
私が慌てて横に並ぶと、晴が歩幅を小さくした。
「今の、分からない……分からないけど、ちゃんと考えたい」
「……何を?」
「晴のこと、適当に考えたくないから。晴の短い髪が好きだからとか、バスケしてて格好いいからとか。そういうのだけで答えたくない」
自分で言って、胸が鳴った。言えるのは、そこまでだった。それ以上はまだ、自分にも分からない。晴はふいに目を伏せる。
「そっか。真帆らしいね」
だけど今度の声は、さっきと違った。
「それ褒めてるの?」
「今日は褒めてる」
横を見ると、いつもの晴の笑い方に戻っていた。
「私も真帆に何が聞きたかったのか、よく分かってないし。いろいろ言われて、真帆にもそう見えてるのかなって思っただけ。だから忘れて」
「忘れないと思う」
「そこは忘れてよ。真帆ほんと覚えてるよね」
晴の表情が緩む。その横顔を見た。何を聞きたかったのか、晴自身にもまだ分からない。それでも私は、ちゃんと答えたいと思った。
◇
家へ帰ってからも信号の前で聞かれたことが、頭から離れなかった。
『男っぽい私の方が、好き?』
王子の衣装が格好よかった。それは本当だった。短い髪も似合っていると思う。バスケをしている晴も格好いい。そこに惹かれているのも、たぶん本当。でも、体育館で泣いていた晴を思い出す。
『真帆いるから、余計だめ』
私の肩へ頭を預けた晴。ピンクのリップを塗って、『どう?』と聞いた晴。メロンソーダを飲みながら、夏の水族館は涼しいから好きだと言った晴。教室でくだらないことを言って笑う晴。どれも嫌ではなかった。むしろ好きだった。
好き。その言葉まで来て、胸が苦しくなる。
机の上のスマートフォンが目に入った。以前なら検索したと思う。男っぽい女の子が好き。ボーイッシュな女の子 恋愛。女の子 男みたいだから好き。そんな言葉を並べて、誰かの答えを探した。
でも今日は、スマートフォンを手に取らなかった。検索したところで私が晴の何を見ているのかまでは、誰にも分からない。それは私が考えるしかない。短い髪だからなのか。バスケをしているからなのか。格好いいからなのか。もし、それが全部なくなったら。私は晴を見なくなるのだろうか。体育館で泣いていた晴を思い出す。ピンクのリップを塗った晴を思い出す。どちらも私が知っている晴だった。
だったら私が好きだと思っているのは、何なのだろう。答えはまだ出なかった。でも今日はもう、「分からない」の一言だけで終わらせたくない。あのときの晴の顔がずっと、頭から離れなかった。
