まだ名前のない、きみの隣

 文化祭まで、あと二週間になった。教室の後ろには、完成しかけた展示パネルが並んでいる。進路。家族。友達。恋愛。自分自身。それぞれの見出しの下に、選んだ質問を仮留めしていた。

 私が書いた紙もある。

『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』

 最初は自分の字を見るたびに落ち着かなかったけれど、今は少し慣れた。誰も私が書いたとは知らない。だからなのかもしれない。

 六時間目のホームルーム中、黒板の前で先生が言った。

「開会式での出し物紹介、各クラス三十秒な。委員を中心に、金曜までに内容出しといて」

 その声に、教室がざわつく。文化祭当日の朝、体育館で全クラスが短い宣伝をするらしい。確かに、去年もあった気がする。でも、自分のクラスが何をしたのかは覚えていなかった。

「誰出る?」

「実行委員でいいじゃん」

 すぐに声が上がって、嫌な予感がした。後ろを見ると、晴は笑っている。

「だって。真帆、出る?」

「出ない」

「即答。じゃあ私一人?」

「一人でできるなら」

「冷たい」

「説明は晴の方が得意でしょ」

 実際そうだった。晴は、人前で話すことをあまり苦にしない。私は十人の前でも百人の前でも苦手だ。

「話すだけだと普通すぎない? どうせなら何かやれば?」

 前の方から声が上がった。

「何かって?」

「寸劇とか」

 いくつか案が飛び始める。質問カードを一枚読む。先生を出す。全員で叫ぶ。クイズ。どれも、私には同じくらい恥ずかしく見えた。

「王子でよくない?」

 誰かが言った。一瞬、教室が静かになる。

「王子?」

「晴が。白シャツにジャケットとか着せてさ。本物の男子より格好よさそう」

「あー、分かる。絶対似合う」

 その声に、晴が自分を指さす。

「私? 劇じゃないのになんで王子なの」

「なんとなく王子。文化祭っぽいし」

「説明になってない」

 晴は笑っていた。嫌そうには見えない。

「じゃあ王子が、『悩める十七歳よ』って言うとか?」

「それは無理」

 教室中が笑う。くだらない。でも、文化祭らしいと言えば文化祭らしい。晴も笑っている。だから、私も特に気にしなかった。

「衣装はどうする?」

「演劇部に借りれば? 晴、ジャケット似合いそう」

「それは分かる。男装正解じゃん」

 意見がどんどんまとまっていく。だけど、その言葉だけが胸に引っかかった。正解。何が。何に対して。

「でもさ、本人の意見聞いてなくない?」

 喧騒の中で、莉子が言った。みんなが晴を見る。晴は考えるようにして、腕を組んでいた。

「……衣装による」

「やるんだ」

「面白そうなら」

「さすが晴。じゃあ決定!」

「まだ衣装見てないって」

 また笑いが起きた。晴も困ったように笑っている。さっきの引っかかりは、それ以上大きくならなかった。結局、クラス紹介では晴が王子役をして、短く企画を紹介する方向で話を詰めることになった。

 私は出ない。その点だけは守られた。

◇

「真帆、これ見て」

 放課後、晴がスマートフォンを差し出した。通販サイトの画面だった。黒いジャケット。白いシャツ。細身のパンツ。

「……これ王子?」

「王子っぽくない?」

「ホテルの人みたい。王子服って、もっと飾りあるんじゃない?」

「真帆、意外と王子に厳しいね」

「だって、王子って言うから」

 晴が画面をスクロールする。次に見せてきたのは、白いジャケットに金色の装飾がついた衣装だった。

「こっちは?」

「王子だ。でも、文化祭で買うには高い。演劇部に聞いた方がいいんじゃない?」

「莉子が聞いてくれるって」

 そう言ってから、晴はスマートフォンをしまう。少し間を置いて、晴が口を開いた。

「真帆は私が王子やるの、変じゃない?」

「変?」

「似合わないとか」

「似合うと思う」

 すぐに答えると、晴の口元が緩む。

「早い」

「似合うかどうかだけなら。晴、やっぱりジャケットとか似合いそうだから」

 短い髪に、すっと伸びた姿勢。バスケをしているからか、立っているだけでも動きやすそうに見える身体。ジャケットはたぶん似合う。そこまでは、自然に思えた。

「別に晴が王子みたいだから、じゃないけど」

 そのあと、そう付け足した。

「違うの?」

「そもそも王子みたいな人って、何?」

「知らない。じゃあ何で似合うと思うの」

「晴に服が似合いそうだから」

 そう言うと、晴は一度黙った。

「……真帆って、たまに変なところ細かいよね。でも嫌いじゃない」

 鼓動が跳ねる。もう、この程度の言葉にも反応する自分が面倒だった。

「……それ褒めてる?」

「褒めてる」

「じゃあ、ありがとう」

「素直」

 晴の表情が和らいだ。その顔を見ながら、ホームルームで聞いた言葉を思い出す。本物の男子より格好よさそう。男装正解。褒めているのだと思う。悪意はない。晴も笑っていた。だからたぶん、何も問題はないはずだった。

◇

 翌日、莉子が演劇部から借りてきた衣装を、昼休みの机へ広げていた。一つ目、紺色のジャケット。二つ目、白いシャツに黒いベスト。三つ目、金色の装飾がついた、少し古風な白い上着。

「すごいね。三つ目、王子じゃん」

「でしょ。着てみてよ、晴。上だけならいけるでしょ」

 晴は笑って、白い上着を受け取った。制服のブラウスの上から羽織る。肩にも装飾があって、金色の飾りが照明を反射した。

「どう?」

 晴が両手を少し広げる。

「おお」

「なになに? やば! 似合う!」

「ほんとに王子じゃん」

 上着を着た晴の姿を見て、周りに人が集まってきた。クラスメイトの輪の中で、晴は照れたように笑っていた。

「これ暑い」

「そこなの?」

「写真撮ろうよ」

「ポスターにも使えるかも」

 そう言って、誰かがスマートフォンを構える。

「晴、ちょっとキメて」

「キメるって何」

「それっぽく」

「雑」

 笑いながら、晴は姿勢を変えた。片手を胸元へ当て、顎をほんの少し上げてみる。

「うわ、似合う」

「やっぱ正解すぎる」

 またその言葉だった。それに晴の笑顔が、一瞬だけ止まった。本当に一瞬だった。だけど次には、「正解って何」といつものように笑っていた。

「だって似合うじゃん」

「似合うはいいけど」

「じゃあ正解」

「だから何の」

 笑いが起きる。晴も笑った。でも最初の一瞬だけ、私は見ていた。

「晴、これ本番で着る?」

 莉子が聞くと、晴が俯いて袖を見た。そこにあるのは白い布と、金色の飾り。

「別に嫌じゃないけど……なんか、やりすぎじゃない? 企画より、衣装の方が目立ちそう」

「確かにそれはあるかもね」

 頷いた莉子の隣で、晴は上着を脱いだ。

「私、家に濃紺のセットアップあるんだけど」

「そうなんだ。それ着る?」

「まあ、それならサイズも合ってるから動きやすいし」

「王子感ある?」

「どうかな。だけど別に、私が王子になる必要なくない?」

 晴がそう言うと、莉子は考えるように目線を上げた。

「まあね。要は、晴が紹介すればいいんだし。盛り上がってるだけで、王子の必要ないからね」

「とりあえず、帰って写真だけ撮っとくよ」

 話はそれでまとまった。白い王子服は、机の上へ畳まれた。晴は制服のまま、見慣れた姿に戻っていた。それを見て、なぜか私は安心していた。

◇

 その日は木曜日だった。だから、晴と二人で駅へ向かう。文化祭が近づいたせいで、最近は帰る時間が少し遅い。夕方の光も、夏休み前より短くなっていた。

「晴。結局、自分の服にするんだね」

「まあ、オッケーが出たらね」

「白いのも似合ってたけど」

「本当? 真帆に言われると、ちょっと嬉しい」

 晴の笑顔に胸が動く。だけど以前ほど、いちいち理由を探そうとは思わなくなっていた。嬉しいものは嬉しい。今は、それでいいことにした。

「でも……やっぱり、自分の服の方がいいと思う」

「何で?」

「晴が選んだ服だから」

 そう言うと、晴が私に視線を向けた。

「そんな理由? なんか、真帆っぽい」

 通い慣れた道を、並んで歩く。しばらくして、晴がスマートフォンを取り出した。昼に撮られた写真を開く。白い王子服を着た晴。カメラの前で、格好つけた顔だった。

「これ、やっぱ私じゃないみたい」

「晴でしょ」

「そうなんだけど」

「何が違うの?」

「分かんない」

 言いながら、晴がじっと画面を見つめる。

「なんか、すごい『そういう人』に見える」

「そういう?」

「王子っぽい人」

「衣装が王子だから」

 晴はスマートフォンを持ったまま「確かにね」と笑った。だけど数歩進んでから、ぽつりと呟いた。

「だけど今日さ、ちょっとだけ複雑だったかも」

 その声に、私は咄嗟に横を見る。晴は、前を向いたままだった。

「……何が?」

「みんなが言ってたこと。別に嫌じゃなかったんだよ。服も面白かったし、似合うって言われるのも別にいい。でも……こっちの方がいいみたいに言われると、なんか変」

「……変? どうして?」

「分かんない」

 晴がようやくこちらを見て、少し困ったように笑う。

「普段の私は、何なんだろってなる。昔から言われるし。男だったら絶対モテるのに、とか。彼氏にしたい、とか」

 返事が出てこなかった。以前、莉子が晴に言ったことを思い出した。女子に彼氏にしたいとか言われそう――あのとき、晴は笑っていた。

「……嫌だったの?」

「全部じゃないよ。普通に褒めてくれてるんだなって思うときもあるし。でも、たまに……」

 晴はすぐに否定した。だけどそう言ってから、少し考える。

「私が男だったら、って前提がつくのが……変だなって思う」

 それ以上は、うまく言えないらしい。晴は口を閉じた。私も何も言わなかった。信号が赤になり、二人で止まる。

「真帆も、今日みたいな方が好き?」

 隣を見ると、晴は信号を見たままだった。その横顔に、心臓が跳ねた。

「……今日みたいな?」

「王子っぽい方」

「服の話?」

「服だけじゃなくて」

 晴は視線を下げ、そして、一度息を吸う。

「短い髪とか、バスケしてるとことか。そういうの含めて、男っぽい私の方が、好き?」

 好き。その言葉だけが、はっきり聞こえた。答えを探す。短い髪。バスケをしている晴。格好いいと思う。それは本当だった。もし、髪が長かったら。バスケをしていなかったら。今日みたいな服を着なかったら。今よりずっと柔らかい格好ばかりする人だったら。

「……分からない」

 結局、最初に出たのはその言葉だった。

「そっか」

 晴の声が低くなる。信号が青へ変わって、晴が先に歩き出す。

「待って。晴、違う」

 私が慌てて横に並ぶと、晴が歩幅を小さくした。

「今の、分からない……分からないけど、ちゃんと考えたい」

「……何を?」

「晴のこと、適当に考えたくないから。晴の短い髪が好きだからとか、バスケしてて格好いいからとか。そういうのだけで答えたくない」

 自分で言って、胸が鳴った。言えるのは、そこまでだった。それ以上はまだ、自分にも分からない。晴はふいに目を伏せる。

「そっか。真帆らしいね」

 だけど今度の声は、さっきと違った。

「それ褒めてるの?」

「今日は褒めてる」

 横を見ると、いつもの晴の笑い方に戻っていた。

「私も真帆に何が聞きたかったのか、よく分かってないし。いろいろ言われて、真帆にもそう見えてるのかなって思っただけ。だから忘れて」

「忘れないと思う」

「そこは忘れてよ。真帆ほんと覚えてるよね」

 晴の表情が緩む。その横顔を見た。何を聞きたかったのか、晴自身にもまだ分からない。それでも私は、ちゃんと答えたいと思った。

◇

 家へ帰ってからも信号の前で聞かれたことが、頭から離れなかった。

『男っぽい私の方が、好き?』

 王子の衣装が格好よかった。それは本当だった。短い髪も似合っていると思う。バスケをしている晴も格好いい。そこに惹かれているのも、たぶん本当。でも、体育館で泣いていた晴を思い出す。

『真帆いるから、余計だめ』

 私の肩へ頭を預けた晴。ピンクのリップを塗って、『どう?』と聞いた晴。メロンソーダを飲みながら、夏の水族館は涼しいから好きだと言った晴。教室でくだらないことを言って笑う晴。どれも嫌ではなかった。むしろ好きだった。

 好き。その言葉まで来て、胸が苦しくなる。

 机の上のスマートフォンが目に入った。以前なら検索したと思う。男っぽい女の子が好き。ボーイッシュな女の子 恋愛。女の子 男みたいだから好き。そんな言葉を並べて、誰かの答えを探した。

 でも今日は、スマートフォンを手に取らなかった。検索したところで私が晴の何を見ているのかまでは、誰にも分からない。それは私が考えるしかない。短い髪だからなのか。バスケをしているからなのか。格好いいからなのか。もし、それが全部なくなったら。私は晴を見なくなるのだろうか。体育館で泣いていた晴を思い出す。ピンクのリップを塗った晴を思い出す。どちらも私が知っている晴だった。

 だったら私が好きだと思っているのは、何なのだろう。答えはまだ出なかった。でも今日はもう、「分からない」の一言だけで終わらせたくない。あのときの晴の顔がずっと、頭から離れなかった。