まだ名前のない、きみの隣

 二学期が始まった。九月になっても暑さはほとんど変わらず、朝の教室にはまだ冷房が入っていた。席に座ると、背後から声がした。

「真帆、おはよう」

 振り返る。晴は、夏休み前とほとんど変わっていなかった。髪が少しだけ伸びて、日に焼けた。それくらい。

「でも、真帆と久しぶりって感じしないね」

「だって、夏休みも普通に会ってたから」

「文化祭ばっかだったけど。一回くらい、真帆と普通に遊びたかった」

 その言葉に、胸が少し動いた。

「水族館?」

 私が言うと、晴が瞬きをした。

「覚えてた? 真帆、ほんと覚えてるよね」

「忘れた方がよかった?」

「逆、嬉しい。落ち着いたら、日決めようよ。真帆、ほんとに行ってくれる?」

「前にも行くって言ったでしょ」

「そうだけど。真帆ってなんか、予定決まるまで保留にしそうだから」

「そんなことない」

「じゃあ聞く」

 そう言ってから、晴が身を乗り出す。

「真帆も水族館行きたい?」

 すぐに答えられそうだった。それでも私は、一瞬だけ言葉を選んだ。修也と写真展へ出かけたときは、それがデートなのかどうか考えた。男子と二人で出かけることに、どんな意味があるのか。自分が何を感じるのか。何度も確かめた。

 晴となら、どうなのだろう。そこまで考えそうになって「行きたい」と答えた。晴がぱっと嬉しそうに笑う。

「じゃあ決まりね」

「もう決まってたでしょ」

「再確認」

「必要だった?」

「私には」

 晴は機嫌良く笑って、自分の机から教科書を出した。私もふと、肩の力が抜けていることに気がついた。以前なら、その理由を考えた。晴が喜んだから。水族館が嫌いではないから。友達と出かけるのが楽しみなのは普通だから。

 今日は、そこまで考えなかった。少なくとも、その瞬間は。

◇

 昼休みに文化祭の展示に使う写真を確認していると、修也が教室へ戻ってきた。写真部の打ち合わせで、昼休みの途中まで部室へ行っていたらしい。修也を見た晴が、壁際の写真を指した。

「あっ、牧野。これ確認して。こっち、ちょっと暗くない? 直せる?」

「元データあれば」

「よかった」

 修也は普通に晴へ答える。私とも、必要なことなら話してくれる。それ以外は、まだほとんど話さない。それでいい。少しずつ、そう思えるようになっていた。

「そういえば写真展、どうだった?」

 修也の隣で、晴が写真を見ながら何気なく言った。なぜ今、晴がそれを聞くのだろう。驚いて顔を向けると、修也も言葉を失っていた。

「……夏休みの?」

「うん」

「普通によかったよ」

「そう。真帆も楽しかったって言ってた」

「そっか」

 晴は写真の端を指で押さえる。そのまま、何でもないことのように続けた。

「そのあと、またどっか行った?」

 言った直後にほんの一瞬だけ、晴の指が止まった。

「晴、何でそんなこと聞くの」

 私は思わず名前を呼ぶ。

「別に」

 晴はそう言った。だけど、その返事が少し速い。晴は写真へ目を戻す。いつもの晴ならこういうことを、わざわざ本人たちの前で聞くだろうか。その横で、修也が小さく息を吐く。

「……行ってないよ」

 その声に、晴が振り返った。

「そうなんだ」

「うん。俺たち別に、そういう感じじゃないから」

 はっきりした言い方だった。胸が痛んだけれど、修也はこちらを見なかった。

「そっか」

 晴はそれ以上聞かなかった。ただ、手にしていた写真を机へ置いたとき、さっきよりも力が抜けたように見えた。

 修也が少し離れたところへ移動したあと、私は晴に声をかけた。

「晴。さっきの、どうして聞いたの?」

「ごめん。気になったから。真帆と牧野」

 晴は一瞬だけ目を泳がせた。その言葉に、心臓が鳴る。

「……どうして?」

「どうしてって。二人で写真展行ってたし。牧野、真帆のこと好きそうだったし」

「……分かってたの?」

「なんとなく」

 どうしてみんな、なんとなくで分かるのだろう。私だけが、いつも分からない。そこまで言って、晴は困ったように頭に手をやった。

「付き合ったのかなって思ってたから」

「付き合ってないよ」

「うん」

「……それで?」

「それでって?」

「付き合ってなかったら、何なの?」

 自分でも少し強い聞き方だと思った。でも、聞きたかった。晴はすぐには答えない。机の上にあった質問用紙の束を、意味もなく一度揃える。

「……よかった」

 小さな声だった。胸の奥が一気に熱くなる。

「よかった? どうして?」

 また聞いた。数秒、晴の手が止まる。いつもなら、私が考えている側だった。

「……文化祭、気まずくなったら困るから。二人とも中心でやってるし」

 晴は視線を紙へ落としたまま、小さく言った。

「……そっか」

 納得できる理由だった。私が修也と付き合って、もしすぐ別れたり関係が悪くなったりすれば、文化祭の準備にも影響するかもしれない。だから晴が安心するのは、不自然ではない。

 私は、晴に何を期待していたのだろう。分からない。晴はまだ、揃え終わった紙の端を指でなぞっていた。

◇

 文化祭まで、あと三週間。事前募集の質問箱は、ひとまず締め切った。集まった質問は、今の時点で百八十七枚。ただ、展示する質問の最終選定まではまだ時間がある。締切後に追加で届いたものについても、最終選定までなら目を通すことにしていた。

 これから、百八十七枚を絞っていく。すべてを貼ることはできない。似た内容はまとめる。個人が特定できそうなものは外す。攻撃的な内容も使わない。でも、できるだけ多く残す。

「これとこれ、近いね」

 机を覗き込みながら、莉子が二枚の紙を並べる。

『友達に嫌われるのが怖くて、本音を言えません。』

『大切な人には、嫌われても本当のことを言うべきですか。』

「真帆、一つにまとめる?」

 聞かれて、私は二枚を見比べる。

「でも、質問違わない? 一枚目は、言えないこと自体に困ってる。二枚目は、言うべきかどうかを聞いてる気がする」

「細かい。じゃあ両方」

 莉子はあっさり二枚を分けた。

「真帆、この企画始まってから質問に厳しくなったね。一枚ずつちゃんと考えてる」

「だって、書いた人がいるから」

 口にしてから、自分でも意外だった。匿名。誰が書いたかは分からない。それでも紙の向こうには、誰かがいる。

 最初に『女の子が女の子を好きになるのは、変ですか。』という問いを見たときから、少しずつそう思うようになっていた。誰かが本当に聞きたくて書いたのかもしれない。誰にも直接言えなくて、ここなら置けると思ったのかもしれない。だから簡単に、「同じ質問」としてまとめたくなかった。

「じゃあ真帆、最後に自分で質問書いたら?」

 莉子が私を見て、からかうように言う。

「実行委員がそういうことするの、どうなの」

「真面目」

「普通。莉子は書いたの?」

「書いた」

「何?」

「匿名です。せっかく作ったんだから、真帆も一個くらい書けば良いのに」

「人に聞くことないから」

 以前と同じ答えだった。言った瞬間に、自分で分かった。今は、嘘だった。

 聞いてみたいことはある。むしろ、増えている。女の子を好きになるとは、どういうことなのか。友情と恋愛は、どこで分かれるのか。自分の気持ちに、名前をつけなければならないのか。好きかもしれないと伝えることは、相手を困らせるのか。

 全部。でも人に聞けば、一つの答えが返ってくるものではない。だから書く意味はない。そう思っていた。

 放課後、文化祭の作業が終わってほとんどの生徒が帰ったあとも、私は教室に残っていた。晴は部活。莉子は塾。修也も写真部へ行った。一人だった。

 机の上には、予備として残してあった質問用紙がある。白い小さな紙。追加で届いた質問も、箱へ入れることになっている。

 教室の隅に残された、小さな箱を見る。書く必要はない。誰かに聞いてもらう必要もない。そう思うのに、ペンを持った。何も書かないまま、一分くらい過ぎた。書いたところで、誰かに答えてもらったところで、私の気持ちが決まるわけではない。夜に検索して、調べて、いくつも言葉を知って、それでも答えは出なかった。

 だから、ここでも同じかもしれない。でも、晴が最初に言ったことを思い出す。

 答えが出ていなくても、書くだけで、少しすっきりすることもある。あのときの私には、よく分からなかった。今も、完全には分からない。それでも紙の上なら、名前を書かなくていいなら、答えを決めなくていいなら。少しくらい。

 ペン先を紙へつける。友達を――そこで、一度止まった。続きを書けば今まで頭の中にしかなかったものが、外へ出る。誰かが読む言葉になる。それでも私は、ゆっくり書いた。

『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』

 最後の句点を書く。手が止まった。友達。好き。二つの言葉が、同じ一文の中にある。それだけで怖かった。特に――好き。その二文字。誰を、とは書いていない。女の子とも書いていない。恋愛として、とも書いていない。それでも自分で書いた言葉が、自分の気持ちを先に決めてしまったように見えた。

 消したくなった。紙を丸めればいい。破ればいい。誰も見ていない。だから、まだ間に合う。指先で、紙の端をつまむ。でも、破らなかった。箱の前まで歩く。蓋を開ける。少し迷って、紙を落とした。軽い音がした。たった、それだけだった。

 誰が書いたかは分からない。晴にも、莉子にも、修也にも。私自身にさえ、まだ答えは分からない。

 それでも初めて自分の「分からない」を、誰かが読む場所へ置いてしまった。

◇

 翌日の放課後、箱を覗き込んだ晴が言った。

「あっ、一枚増えてる」

 その途端に、心臓が跳ねた。

「……そうなの?」

「うん。昨日は百八十七枚だったよね? これで百八十八だ」

 晴が教室の後ろの黒板に、新しい数字を書き足す。そして、箱から紙を取り出した。私の字。分かっているのに晴の手に渡った瞬間、自分のものではないみたいに見えた。

 晴が読む。だけど表情は変わらない。その顔を見ながら、胸が苦しくなった。

「これ、いい質問だね」

「……そうなの?」

「うん」

 晴は紙を机へ置く。

『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』

 自分の文字を、晴が見ている。恥ずかしい。怖い。でも晴は、誰が書いたか知らない。

「真帆はどう思う?」

 感想を聞かれた。最悪だった。

「分からない」

 即答すると、晴の口元が緩む。

「早いね」

「晴は?」

 聞き返すと、晴が紙へ目を落とした。

「何の好きかによるんじゃない? 友達として好きなのか、恋愛として好きなのか」

 その言葉に、胸が鳴る。

「……それが分からなかったら?」

「難しいね」

 そう呟いて、晴は少し考える。

「でも、好きになった瞬間に……友達じゃなくなるわけじゃないと思う」

「……どうして?」

「昨日まで友達だったのに、今日好きって気づいたら、昨日までのことが全部消えるの変じゃない?」

 晴らしい、ひどく単純な答えだった。

「じゃあ……言わなければ、ずっと友達でいられる?」

 声が小さくなった。自分でも踏み込みすぎたと思った。晴と目が合う。考えたまま、晴はすぐには答えない。

「……どうだろ。好きって言ったら、変わるかもしれないし。言わなくても、変わるかもしれないし」

「どういう意味?」

「好きになった方が、前と同じようにできなくなるとか」

 その言葉から、目を逸らしたくなった。今の私だった。七海を気にする。修也とのことを聞く晴の反応を気にする。水族館の予定を立てるだけで意味を考える。もう今までと完全に同じようには、できていない。

「……難しいね」

 私が言う。

「うん」

 晴は頷いて、紙を展示候補の束へ戻した。でも手を離したあとも、しばらくその紙を見つめていた。

「だからこの質問、出してみたい」

「……分かった」

 自分の問いが、文化祭の壁へ貼られる。知らない人が答えを書く。怖い。だけど、答えを見てみたいと思った。

◇

 翌朝、晴と並んで箱を覗き込んでいた莉子が、嬉しそうに笑っていた。

「また増えてる。一応締め切ったのに人気だね」

「ほんとにね。昨日百八十八だったから……百八十九だ」

 そう言って、晴が後ろの黒板の数字を消す。そして箱から取り出した紙を、私へ渡す。少し大きくて右上がりの、今まで見た紙とは違う字だった。

『好きな人に好きと言わないことは、優しさですか。』

 その言葉に、胸がざわついた。

「また恋愛。まあ、十七歳だからね。多感な時期なんでしょう」

 莉子がどこか呆れたように言う。晴は私の手元を覗き込みながら、「これも出す?」と尋ねてきた。

「……出していいと思う」

 私は答えた。そしてもう一度紙を見る。好きと言わない、それは優しさなのか。言えば、相手を困らせるかもしれない。関係が変わるかもしれない。なら何も言わない方が、相手のためなのだろうか。今の私には答えられない。

「晴はこの質問、どう思う?」

 何となく聞いてみる。晴は一拍置いて、文字をじっと見つめていた。

「……分かんない」

 珍しかった。晴が、私と同じ答えを口にする。

「そっか」

「うん」

 頷いて、晴は紙から目を離す。そのまま、別の質問の束へ手を伸ばした。それ以上は何も言わない。そして晴は、二枚の質問を机に並べる。

『友達を好きになったら、もう友達ではいられませんか。』

『好きな人に好きと言わないことは、優しさですか。』

 似ている。でも、少し違う。一枚目は好きになったことで、関係を失うことを怖がっている。二枚目は好きだと言わないことが、本当に相手のためなのかを聞いている。

 どちらを書いた人もきっと、何かに困っている。少なくとも一枚については、私が書いたから知っている。もう一枚を書いた人が誰なのかは、分からない。それなのに、なぜか――その問いが自分のものと並んでいることが、妙に気になった。まるで見えない線の向こう側で、誰かが、私と同じ場所に立ち止まっているみたいだった。