まだ名前のない、きみの隣

 晴が私の肩にもたれて泣いたことを、私は誰にも話さなかった。話してはいけないと言われたわけではない。秘密にしてほしいと頼まれたわけでもない。それでも、誰かへ話そうとは思わなかった。

 あの体育館で、晴が泣いたこと。今は明るくなくてもいいと言ったこと。私の肩を借りたいと言ったこと。それは、誰かに説明するための出来事ではなかった。

 晴自身も、文化祭準備の時にはいつもと変わらなかった。

「真帆、これどっち?」

「進路。『親に反対されても行きたい大学を選ぶべきですか』だから、進路でいいと思う」

「でも親出てるよ。家族じゃなくていい?」

「でも、分類は一個にしないと」

「両方に置けば?」

「同じ質問二枚ないでしょ」

「確かに」

 晴はあっさり引いて、笑っていた。いつも通りだった。体育館で泣いていた晴。今、目の前で笑っている晴。どちらも同じ人だ。暗くても、晴は晴。自分で言った言葉を思い出す。

 バスケをしている晴。教室で誰かと話している晴。ピンクのリップをつけた晴。誰もいない体育館で、一人でシュートを打っていた晴。私の肩へ頭を預けた晴。

 全部、同じ人。その中の一つを、私だけが知っている。そう思うと嬉しかった。どうして嬉しいのか。そこから先は、まだうまく説明できなかった。

 夜に布団へ入ってから、スマートフォンを開いた。時間は十一時十七分。もう寝た方がいい。明日も午前中から文化祭の作業がある。分かっているのに、検索画面を開いた。そして、白い入力欄をただ見つめる。以前にも、ここへ来たことがある。

『女の子 女の子 好き』

 あのときも検索した。画面に出てきた『女の子が好きかもしれない』という文字を見て、怖くなった。言葉そのものは知っていた。女の子が女の子を好きになることだって知っていた。でも、その言葉が自分の方を向いた瞬間、画面を閉じた。検索履歴も消した。

 だけど今日は、一文字ずつ打った。女の子を好きになったかもしれない、検索。画面がすぐに切り替わる。今度は、閉じなかった。個人の相談。若い人向けの情報サイト。性的指向について説明しているページ。

 いくつか開いた。レズビアン。女性が女性に恋愛的な気持ちや魅力を感じる場合に使われる言葉。画面を読んでから、晴を思い浮かべる。私は、女の子が好きなのだろうか。晴だけなのだろうか。他の女の子を見て、同じ気持ちになったことがあるだろうか。

 思い出そうとする。莉子。七海。中学の同級生。たぶん、かわいいと思ったことはある。でも、それが晴に向けているものと同じなのかは分からない。

 次を見る。バイセクシュアル。男女どちらにも恋愛感情や魅力を感じる場合に使われる言葉。男の子。そこで考えた。中学生の頃は同じ学年に、格好いいと思っていた男子がいた。背が高くて、サッカー部だった。顔が格好いいと思った。友達と「かっこいいよね」と話したこともある。

 たぶん、それまでの私なら、そういうのを「好きになる前」の気持ちだと思っていた。でも、その男子と付き合いたいと考えたことはなかった。その人に彼女ができたと聞いたときも、そうなんだと思っただけだった。

 修也は優しいと思った。話しやすかった。二人で出かけても楽しかった。付き合う相手としてはいい人だとも思った。それでも好きだと言われたとき、自分も好きだとは思わなかった。付き合ったら好きになれるかもしれない。そう考えただけだった。

 男の子を一人好きにならなかったからといって、男の子を好きにならないと決まるわけではない。中学の男子も、修也も。二人だけでは証明できない。だから、この言葉もまだ、自分の答えにはならなかった。

 次。クエスチョニング。自分の性のあり方や、誰を好きになるのかについて、まだ決めていない人や考えている途中の人が使うこともある。その説明だけ、少し長く見た。じゃあ、私はこれだ――とは思わなかった。これも一つの名前だ。今まで知らなかった名前。それを自分につければ、突然何かが分かるわけではない。

 それでも分からないままでいる人は、私一人ではないらしい。誰が好きなのか、どんな言葉が自分に合うのか、すぐ決めない人もいる。名前をつけない人もいる。考えている途中でもいい。その部分を、二度読んだ。それでも、スマートフォンを閉じることはできなかった。まだ知りたかった。ラベルではなく、もっと別のことを。

 検索画面へ戻る。『女友達 好き 恋愛か分からない』――いくつかのページを開いた。会いたいと思うか。二人きりでいたいか。触れたいか。キスしたいか。付き合いたいか。相手が他の人を好きになったら嫌か。

 並んだ項目を、一つずつ晴へ向けてみる。会いたい。木曜日に一緒に帰ることを、いつの間にか楽しみにしていた。晴からメッセージが来ないと気になった。学校で姿を見つけると、安心する。

 触れたいか。そこで指が止まった。体育館で、晴が肩にもたれたときの重さを思い出す。髪が頬の近くに触れて、呼吸するたび、その重さがわずかに動いた。嫌ではなかった。むしろ――。そこから先は、考えられなかった。

 次に目へ入ったのは、キスしたいと思うかだった。晴と。頭の中で二つの言葉を並べただけで、頬が熱くなる。そんなことは、一度も考えたことがない。

 相手が他の人を好きになったら嫌か。それならもう知っている。晴に彼氏ができるところを想像したとき。七海と近い距離で話していたとき。理由を説明できなくても、嫌だった。

 それでも――会いたいから恋なのか。嫉妬したから恋なのか。キスを想像して顔が熱くなったから恋なのか。検索結果には、そんなふうに判定できるとは書いていない。友達にも嫉妬することはある。恋人でも、触れ合いをあまり求めない人はいる。質問を増やすほど、「分からない」の種類だけが増えていく。

 画面を開いたまま、目を閉じた。検索すれば、答えに近づけると思っていた。でも、誰かが作った項目を全部埋めても、最後に「あなたは晴を好きです」と表示されるわけではないらしい。

 分かったことがあるとすれば、私は、晴についてこれだけのことを考えている。それだけは、もう検索しなくても分かった。

 スマートフォンの時刻を見ると、十二時を過ぎていた。明日絶対眠い。そう思って、今度こそ閉じようとした。だけどそのとき、一つのページが目に入った。若い人向けの相談窓口。性別や恋愛、家族、学校生活。そういうことについて、匿名で相談できると書いてある。

 ページを開いた。相談するつもりはなかった。何を相談すればいいのかも分からない。『女の子の友達が好きかもしれません』なんて、そう書くのだろうか。その一文だけで、自分の気持ちを決めてしまったような気がする。『女の子の友達に彼氏ができるのが嫌です』――それなら、事実として書ける。でも、そこから何を聞けばいいのだろう。

 これは恋ですか。私は女の子が好きなんですか。私は何者ですか。知らない誰かに聞いて、決めてもらえることでもない。閉じようとして、やめた。そしてなぜか、ブックマークの印を押していた。画面の端に、小さな星がつく。

 相談するつもりはない。少なくとも、今は。それでも消してしまうのは、少し違う気がした。検索履歴は、一つずつ消した。女の子を好きになったかもしれない。女友達 好き 恋愛か分からない。同性 好きかもしれない 勘違い。友達 恋愛感情 違い。

 全部。文字が消えると、安心した。でもブックマークだけは、残していた。

◇

「真帆、眠そうだね?」

 翌朝教室へ入った瞬間、晴に言われた。

「寝不足かも」

「何してたの?」

「調べ物」

「文化祭?」

「……まあ、いろいろ」

「怪しい」

 晴が笑う。昨夜晴を思い浮かべながら何度も検索していたことを、晴は知らない。当然だった。調べていたのは、晴ではない。自分のことだ。自分が、晴をどう思っているのかだった。

「真帆。今日、昼までだよね? 終わったら何か食べて帰らない?」

 すぐに「行く」と答えそうになった。そこで、ほんの一瞬止まる。二人で昼食。昨夜読んだ言葉が、勝手に浮かぶ。二人きりでいたいか。付き合いたいか。特別でいたいか。

「真帆?」

「……行く」

「また考えてた?」

「ちょっと」

「お昼食べるかどうかに?」

「違う」

「じゃあ何?」

 聞かれる。以前なら「分からない」と言って終わっていた気がする。でも。

「……内緒」

 私は初めてそう言った。それに、晴が目を丸くする。

「真帆が内緒って言った」

「言うよ」

「言わないじゃん。いつも『分からない』か『別に』じゃん」

「そんなに?」

「そんなに」

 晴は楽しそうに笑っていた。その笑顔を見ると、胸が動く。昨夜なら、これも一つの証拠として数えようとしたかもしれない。晴が笑うと嬉しい。では、これは何点。恋愛に近いのか。友達でも同じなのか。そんなふうに。

◇

 文化祭の作業が終わったあと、晴と駅前のファミリーレストランへ入った。晴はハンバーグ、私はパスタを注文した。

「真帆、夏休みどっか行きたいところある?」

「特に。晴は?」

「水族館」

「意外」

 つい言うと、晴がすぐに顔を上げた。

「また意外って言った。真帆、何回目?」

「分からない」

「数えてないの?」

「そこは数えなくていいでしょ」

「真帆が言う?」

「ごめん」

「別に怒ってないけど」

 そう言いつつも晴は一度顔をしかめて、すぐに笑った。そして、メロンソーダをストローで混ぜる。

「晴、水族館好きなの?」

「好きだよ」

「魚?」

「あと涼しい」

「どっちが先?」

「涼しい。夏の水族館、最高じゃない?」

「魚は?」

「魚も見るよ」

 晴が笑うと、また胸が少し動いた。

「真帆は? 水族館嫌い?」

「嫌いじゃない」

「じゃあ行く?」

「……二人で?」

 口から出てから、自分でも驚いた。晴は気にした様子もなく、「他に誰か呼びたい?」と聞いた。

「ううん」

 すぐに答えた。考えるより先だった。

「じゃあ二人でいいじゃん」

「……うん」

「落ち着いたら、また予定立てよ」

「分かった」

 晴は何でもない約束みたいな顔をして、メロンソーダを飲んだ。だから私も、何でもない顔をしてパスタを巻く。二人で水族館へ行く。その予定が増えた。嬉しかった。なぜ嬉しいのか。昨日の私なら、たぶん調べた。でも今は、そのままにしておいた。

◇

 その日の夕食、父は仕事で遅くなるらしく、母と二人だった。

「今日も学校だったの?」

「文化祭準備。実行委員だから」

「真帆が委員なんて珍しい。少し積極的になったのかしら」

 母が感慨深そうに言う。そうなのだろうか。文化祭委員を引き受けたのは、晴と一緒だったから。でも今では、自分から意見を出すこともある。質問を分類する。展示方法を考える。先生と話す。以前より、できることは増えた気がする。

「高校生活も、あと半分くらいねえ」

 母が味噌汁を飲みながら言った。

「まだ一年半あるよ」

「すぐよ。大学なんて四年あるけど、もっと早いし」

「まだ大学行くって決めてない」

「真帆は行くんじゃない?」

「まあ、たぶん」

「またたぶん。大学行ったら、真帆も彼氏くらいできるかしらね」

 以前の晴と同じことを言っていた。母も晴も、何の意味もなく言ったのだと思う。今日の天気の話と同じくらい。少し先の未来を、なんとなく想像しただけ。

「……どうだろ」

「高校ではいないの?」

「いないよ」

「好きな子も?」

 箸が止まった。好きな子。母の言う「好きな子」は、たぶん男子を想定している。さっきまで、彼氏の話をしていたのだから。でも母は、「男の子」とは言わなかった。そのわずかな隙間へ、晴が入ってきた。

 体育館で泣いていた顔。肩へ残った重さ。『そういうとこ、好き』という声。今日、ファミリーレストランで笑っていた顔。二人で行くことになった水族館。

「……いないよ」

 答えた。母は、「つまらない」と言って笑った。嘘ではない。好きだと決められる相手はいない。晴を好きなのかもしれない。でも、まだ分からない。だから「いない」は嘘ではない。そのはずだった。

「まあ、焦らなくていいけどね」

 母はそれ以上気にせず、テレビへ視線を向けた。会話は終わった。私だけが、少し苦しかった。嘘をついていないのに、嘘をついたような気持ちがした。

 部屋へ戻ってから、もう一度スマートフォンを開いた。『家族 同性 好き』そこまで打って、やめた。晴を好きなのかもまだ決められていないのに、私はもう家族へ何を言うのかまで調べようとしている。自分でも、何段階先へ行こうとしているのか分からなかった。

 文字を消す。今すぐ、全部に答えを出す必要はない。検索画面を閉じる代わりに、昨夜つけたブックマークを開いた。相談窓口。ページの内容は何も変わっていない。相談するつもりはない。たぶん。でも、ただそこにある。

 誰かに話したくなったら、話せる場所がある。何を相談したいのか決まっていなくても、自分が何者なのか決められていなくても、ページを開くことはできる。答えではない。ただ、答えが出ないままでいるための場所だった。