まだ名前のない、きみの隣

 修也に告白されてから、一週間が過ぎた。文化祭の準備では、普通に話す。写真のサイズ。印刷する枚数。展示パネルの位置。必要なことなら、修也はこれまでと変わらず答えてくれた。

「この写真、横でいい?」

「うん」

「じゃあ二枚印刷する」

「分かった、ありがとう」

 以前なら、たぶんそのあとに何か別の話が続いた。今は続かない。当然だった。修也は、しばらく二人で出かけるのはなしにしたいと言った。普通に戻れるかも分からない、と。その言葉を尊重するなら、私から距離を縮めようとするべきではない。自分が謝って楽になりたいからといって、修也に許すことまで求めるのも違う。

 だから今は、これでいい。いいはずだった。

「ねえ真帆、そこの付箋取って」

 莉子に言われ、机の端にあった束を渡す。夏休みの文化祭準備。教室には、私と莉子と修也、それから数人のクラスメイトが集まっていた。

 晴はまだ来ていない。午前中がバスケ部の練習で、終わり次第こちらへ来ると言っていた。時計を見る。十二時二十二分。正式な文化祭の作業開始は一時。私たちが早く来ただけだった。

「瀬尾、ちょっといいか? パネル見てきてくれる?」

 先生がそう言いながら、教室へ顔を出した。

「パネルですか?」

「文化祭で借りるやつ。体育館横の倉庫に、去年のがあるらしい。枚数と状態だけ、使えるか確認しておいてくれ」

「分かりました」

 鍵を受け取り、私は教室を出た。夏休みの校舎は静かだった。教室棟を抜け、渡り廊下を進む。体育館へ近づくにつれて、床を叩く音が聞こえてきた。

 バスケットボール。一度。間。もう一度。規則的ではあるけれど、練習中のような掛け声は聞こえない。視線を向けると、体育館の扉が少し開いている。倉庫はその横だった。通り過ぎようとして、中が見えた。

 晴がいた。一人だった。誰かと話しているわけでもない。笑っているわけでもない。白いTシャツにハーフパンツ。短い髪は、汗で額へ張りついている。晴はゴールの正面へ立ち、シュートを打った。ボールがリングへ当たる。外れる。自分で拾いに行く。戻る。もう一度打つと、今度は入った。ネットが短く鳴る。また打つ。外れる。拾う。同じことを、ただ黙って繰り返していた。

 教室にいる晴とは、違って見えた。誰かの話へ笑って相槌を打つ晴でも、後輩へ声をかける晴でも、試合中に仲間へ指示を出す晴でもない。誰にも見られていない晴。

「晴」

 中を覗き込んで、声をかける。ボールを抱えたまま、晴が振り返った。驚いた顔のあと、すぐに笑う。

「真帆、どうしたの?」

「晴は、まだ練習?」

「自主練中」

「一人で?」

「うん」

 晴はまた笑った。いつもの笑顔だった。

「真帆こそ何してるの?」

「パネル見に来た。文化祭の」

「ああ、倉庫? 手伝おうか?」

「見るだけだから大丈夫」

「そっか」

 晴はまたゴールへ向く。シュート。入る。床へ跳ねたボールを拾う。

「晴。文化祭準備、一時からだよ。今、十二時二十五分」

「知ってる。まだ余裕あるって」

「お昼は?」

 尋ねると、晴の動きが一度止まった。

「……食べないの?」

「もうちょっとやったら、後で食べる」

「分かった。先に倉庫見てくるね」

 私は一度体育館を出て、倉庫の鍵を開けた。中には、折り畳まれた展示パネルが壁へ立てかけてある。数えると、全部で七枚。大きな破損はないけれど、少し汚れているものが二枚あった。スマートフォンへメモして、倉庫を閉める。鍵を抜く。そして、体育館を見る。

 晴は、まだシュートを打っていた。教室では、みんなが準備をしている。晴もあとで来ると言っている。私がここに残る理由は残ってない。それなのに、一歩目が出なかった。晴がまたシュートを外す。ボールを追いかける。拾う。戻る。

「……晴。いつまでやるの?」

「もうちょっと」

「さっきも言ったよ」

「じゃあ、あと十本打つまで」

「分かった」

 私は体育館の壁際へ座った。それを見て、晴が驚いたように手を止める。

「真帆、準備は?」

「まだ時間あるから」

 そう言うと、晴は一拍黙った。

「そっか」

 そう言って、ゴールへ戻る。でも、さっきまでより肩の力が抜けたように見えた。一投目、入る。二投目、外れる。三投目、入る。私は数えた。だけど、晴は数えていないようだった。

 四投目。五投目。六投目。動きはいつもと同じに見える。だけど、やっぱりどこか違う。試合で見た晴は、周りをよく見ていた。味方へ声をかける。パスを出す。自分がボールを持っていなくても走る。だけど、今は一人だった。ボールと、ゴールと、自分だけ。

 七。八。九。十。

「十本だよ」

 声をかけると、晴がボールを抱えた。

「数えてたの? 真帆、そういうところ律儀だよね」

「終わり?」

 晴はゴールを見る。一瞬だけ迷ったように見えた。

「……うん」

 ボールを片づけ、こちらへ歩いてくる。そして、晴は私から少し離れたところへ座り込んだ。鞄から取り出したタオルで、無造作に顔を拭く。

「疲れた」

「それだけやれば、疲れると思うよ」

「正論」

 晴が笑った。笑ったあとにいつもなら、そのまま何か別の話へ進む。だけど晴はタオルを膝へ置いたまま、ただ床を見ている。

「……何かあった?」

 そう聞いた。晴の指が、タオルの端をいじる。

「なんで?」

「なんか……いつもと違うから」

「そう?」

「うん」

 私は頷く。今度は、あまり迷わなかった。以前なら晴が違って見えても、自分の勘違いかもしれないと考えた。口にして間違っていたら、晴を困らせるかもしれない。

 今も、それは少し考える。でも言わないことで、相手を困らせることもある。それも、もう知っていた。

「……次の大会さ、スタメン外れた」

 晴が言った。一瞬、意味を理解するのが遅れた。

「……試合に出ないの?」

「出るかもしれないよ。ベンチには入るし」

「でも……最初からじゃない?」

「うん、昨日言われたんだ。最近ミス多かったから。別の子の方が調子いいし」

「……そっか」

 何を言えばいいのか分からなかった。以前のバス停と同じだった。大丈夫。次がある。晴なら戻れる。そのどれも、根拠がない。だから、私は言わなかった。

「……悔しい?」

 聞くと、晴の口元が緩む。

「そりゃあね」

「……怒ってる?」

 晴はすぐに答えた。

「別に。だから余計に嫌なんだよね。私がもっとちゃんとやればよかっただけ」

「でも」

 言葉を言いかけて、止める。すると、晴がこちらを見た。

「何?」

「……分からない」

「出た。真帆の分からない」

「だって、バスケのこと知らないから」

 私が俯くと、晴は困ったように笑っていた。

「前も言ってたね。バスケ分かんないから、悪くないとか言えないって」

 晴は、そういうことをよく覚えている。私は一度考えた。

「全部、晴一人のせいなのかなって思っただけ。バスケって、チームでやるスポーツでしょ。先生が決める理由だって、一個じゃないだろうし……」

「真帆なりに頑張って励ましてる?」

「励ましてるかは分からない」

「そっか」

 晴が笑った。だけどその笑顔も、すぐ消える。

「みんなも言ってくれたよ。晴ならすぐ戻れるって。七海も、次頑張ろって。ありがたいんだけどね。それ言われると、頑張らなきゃってなるじゃん」

 晴は床を見たまま言う。声が少し小さくなった。

「別に頑張りたくないわけじゃないよ。スタメン戻りたいし。試合出たいし。でも……昨日からずっと、次、次って言われて。今悔しいの、いつ終わらせればいいんだろうって思っただけ」

 晴の指が、タオルを握る。私は何も言えなかった。次へ進む。前向きになる。頑張る。全部、いいことのように聞こえる。でも今の晴は、まだそこへ行きたくないのかもしれない。

「部活の子の前で落ち込んでたら、気遣わせるし。後輩とかもっと困るじゃん。先輩が暗かったら」

「……そうかな」

「困るでしょ」

 晴は笑った。いつものように。でも、その笑顔が少し苦しく見えた。

「私、名前晴だし」

「……名前? 関係ある?」

「あるよ」

 晴はふっと苦笑して、自分の膝へ顎を乗せた。

「小さい頃から言われるもん。晴が暗いと天気悪いみたいって」

「それ、面白い?」

「最初の百回くらいは」

「百回は多い」

「でしょ?」

 晴が笑う。今度は本当に笑っていた。

「だから、落ち込んでるとみんな言うんだよ。『晴らしくない』とか」

 途端、胸の中に小さな違和感が生まれた。

「……晴らしくないって、誰が決めるの?」

 つい口から出た。私の声に、晴が顔を上げる。

「え?」

「落ち込んでるのも晴でしょ」

「まあ、そうだけど」

「暗くても、晴は晴でしょ」

 言ってから、自分でもずいぶん単純なことを言ったと思った。暗くても、晴は晴。その言葉だけが、妙に胸に残った。明るい晴。泣いている晴。バスケをしている晴。ピンクのリップをつけた晴。どれか一つだけが本物なわけではない。全部、同じ人だ。

 それを口にしただけなのに、なぜか、自分にも言い聞かせたような気がした。晴は何も言わなかった。

「……変なこと言った?」

「いや。真帆って……」

 晴が一度息を吸う。

「たまに、本当に変なこと言う」

「また?」

「褒めてる」

「それ、いつも褒めてない」

「今日は褒めてる」

 晴が笑った。だけど途中で、顔を伏せた。そして、肩が少し揺れる。笑っているのかと思ったけれど、違った。涙が床へ、一滴落ちた。

「あ」

 晴が、自分でも驚いたような声を出す。

「最悪、泣くつもりなかった」

「いいんじゃない。誰もいないし」

「真帆いるじゃん。真帆いるから、余計だめ」

 そこまで言って、晴はタオルで目を押さえた。

「……どうして?」

「分かんない」

 今度は晴が言った。一瞬だけ、おかしくなった。つい笑いそうになって、やめる。

「晴も分からないんだね」

「分かんないよ。泣くと思ってなかったし。なんで今なのかも、よく分かんない」

 晴はタオルで目元を押さえたまま、掠れた声で続けた。

「たぶん、真帆いると……我慢しなくてよくなるから」

 その言葉に、胸の奥が強く鳴った。

「……私がいると?」

「うん」

「なんで?」

「だから、それは分かんないって言ったじゃん」

 晴が涙のまま笑う。今度は、私も笑った。

「そうだった」

 笑い合うと、空気が緩んだ気がした。晴は鼻を一度すすり、タオルを再び膝へ下ろす。

「部活の子の前だとさ、私が落ち込んでたら気遣わせるし。家帰ったら、家族も心配するし。でも真帆は……変に励まさないから」

「……励まし方が分からないだけだけど」

「それがいいのかもね」

 そう言って、晴は赤い目のまま私を見た。理由を全部分かったわけではないらしい。でも私の前では、無理に明るくしなくてもいい。少なくとも、晴は今そう感じている。そのことが、静かに残った。

 晴はしばらく泣いていた。声を上げるほどではない。ただ、一度出た涙が止まらなくなったようだった。私は隣に座っていた。背中をさすることも、抱きしめることも、大丈夫と言うこともできなかった。でも、前のように「何をすれば正解か」を探してはいなかった。

 ここにいる。今は、それだけでいい気がした。少ししてから、晴が顔を上げた。

「真帆……ちょっとだけ、いい?」

「何が?」

 晴は言いにくそうに、一度口を閉じた。それから、視線が私の顔から少し下へ落ちる。

「ここ」

 晴が指先で指す。意味が分かるまでに、一秒かかった。

「……肩?」

「言わせないでよ」

 少し恥ずかしそうに、晴が顔を逸らした。その顔を見た瞬間、なぜか私まで恥ずかしくなった。

「……いいよ」

 晴がゆっくり身体を寄せる。その頭が、肩へ乗った。思っていたより近かった。前の帰りのバスとは違う。あのときは、眠った晴がいつの間にかもたれてきただけだった。

 今日は、晴が自分で選んだ。私の肩を。

 その違いを意識した瞬間、身体が固まりそうになった。晴の短い髪が、頬の近くへ触れる。汗と、シャンプーの匂いが混ざっていた。呼吸するたび、肩にかかる重さがほんの少し動く。

「真帆、重い?」

「大丈夫」

「本当?」

「これくらいなら」

「よかった」

 晴が目を閉じた。私たちは、しばらく何も話さなかった。体育館の高い窓から、外の明るさが差し込んでいる。遠くで蝉が鳴いている。外は暑いはずなのに、床へついた手のひらは少し冷たい。肩だけが熱かった。

「真帆の前だと……ちゃんとしてなくていい気がする」

 晴が小さく言う。その言葉に、喉元が締まった。

「私……何もしてないけど」

「それがいいのかも」

 晴は目を閉じたまま、口元で笑う。

「励まさないし。次頑張れとも言わないし」

「……言ってほしい?」

「今はいい」

「じゃあ言わない」

「そういうとこ」

「何?」

 それから間があった。晴は、ずっと目を閉じたままだった。

「……好き」

 心臓が跳ねた。聞き間違いかと思うくらい、大きく。息をするのを忘れていた。一秒。たぶん、それくらいだった。だけど、その一秒はもっと長かった気がした。

「だから真帆といると、楽なのかも」

 胸の中で、さっきの一言が別の意味へ修正された。そういう意味ではない。分かっている。友達にだって「好き」と言う。性格の一部分について「好き」と言うこともある。だから、私は何も勘違いしていない。

「……ありがとう」

「そこ、ありがとうなんだ」

「だって、何て言えばいいか分からないから」

「真帆らしい」

 晴が静かに口を閉じる。肩にかかる重さ。呼吸。触れている髪。それを今、私だけが感じている。その事実が、嬉しかった。

 そう思った瞬間、自分の考えに引っかかる。晴は落ち込んでいる。そんなときに、自分が選ばれたことを喜ぶのは違う。でも、もしいつか。晴が別の誰かに、こんなふうに寄りかかるようになったら。七海でも、これからできるかもしれない誰かでも、彼氏でも。私ではない人の肩へ、こんなふうに頭を預けるようになったら。

 そこまで考えて、胸が締めつけられた。嫌だった。今までより、ずっとはっきりと。晴が弱いところを預ける相手が、いつか私ではなくなる。そのことを想像したくなかった。

 だけど、そんなことを望む権利はない。七海には七海と晴の関係がある。これから晴が誰を大切にするのかも、晴が決めることだ。だから、私に制限する権利はないはずだった。分かっている。分かっているのに。

「真帆? 肩、固い」

「だって、晴が乗ってるから」

「やっぱ重い?」

「違う」

「じゃあ何?」

「……考えてる」

「また? 考え終わったら教えて」

 晴が小さく笑う。以前にも言われた言葉だった。そのときは、いつか本当に教えられるようになる気がしていた。でも、今考えていることだけは。

「……これは教えないかも」

「なんで?」

「まだ分からないから」

「分からないなら、教えてくれてもいいのに」

 少し驚いて、晴を見る。晴は目を閉じたままだった。

「前にも言ったでしょ。答え出てなくてもいいって」

 文化祭の企画。十七歳の問い。まだ答えが出ないこと。晴は、最初からそういう人だった。

「……でも、これはまだ」

「そっか」

 晴は、それ以上聞かなかった。無理に言わせようともしない。分からないままでも、答えを出さなくても、晴はそこにいてくれた。だから、私も今だけは晴が預けてくれたものを、そのまま受け止めていたかった。