修也に告白されてから、一週間が過ぎた。文化祭の準備では、普通に話す。写真のサイズ。印刷する枚数。展示パネルの位置。必要なことなら、修也はこれまでと変わらず答えてくれた。
「この写真、横でいい?」
「うん」
「じゃあ二枚印刷する」
「分かった、ありがとう」
以前なら、たぶんそのあとに何か別の話が続いた。今は続かない。当然だった。修也は、しばらく二人で出かけるのはなしにしたいと言った。普通に戻れるかも分からない、と。その言葉を尊重するなら、私から距離を縮めようとするべきではない。自分が謝って楽になりたいからといって、修也に許すことまで求めるのも違う。
だから今は、これでいい。いいはずだった。
「ねえ真帆、そこの付箋取って」
莉子に言われ、机の端にあった束を渡す。夏休みの文化祭準備。教室には、私と莉子と修也、それから数人のクラスメイトが集まっていた。
晴はまだ来ていない。午前中がバスケ部の練習で、終わり次第こちらへ来ると言っていた。時計を見る。十二時二十二分。正式な文化祭の作業開始は一時。私たちが早く来ただけだった。
「瀬尾、ちょっといいか? パネル見てきてくれる?」
先生がそう言いながら、教室へ顔を出した。
「パネルですか?」
「文化祭で借りるやつ。体育館横の倉庫に、去年のがあるらしい。枚数と状態だけ、使えるか確認しておいてくれ」
「分かりました」
鍵を受け取り、私は教室を出た。夏休みの校舎は静かだった。教室棟を抜け、渡り廊下を進む。体育館へ近づくにつれて、床を叩く音が聞こえてきた。
バスケットボール。一度。間。もう一度。規則的ではあるけれど、練習中のような掛け声は聞こえない。視線を向けると、体育館の扉が少し開いている。倉庫はその横だった。通り過ぎようとして、中が見えた。
晴がいた。一人だった。誰かと話しているわけでもない。笑っているわけでもない。白いTシャツにハーフパンツ。短い髪は、汗で額へ張りついている。晴はゴールの正面へ立ち、シュートを打った。ボールがリングへ当たる。外れる。自分で拾いに行く。戻る。もう一度打つと、今度は入った。ネットが短く鳴る。また打つ。外れる。拾う。同じことを、ただ黙って繰り返していた。
教室にいる晴とは、違って見えた。誰かの話へ笑って相槌を打つ晴でも、後輩へ声をかける晴でも、試合中に仲間へ指示を出す晴でもない。誰にも見られていない晴。
「晴」
中を覗き込んで、声をかける。ボールを抱えたまま、晴が振り返った。驚いた顔のあと、すぐに笑う。
「真帆、どうしたの?」
「晴は、まだ練習?」
「自主練中」
「一人で?」
「うん」
晴はまた笑った。いつもの笑顔だった。
「真帆こそ何してるの?」
「パネル見に来た。文化祭の」
「ああ、倉庫? 手伝おうか?」
「見るだけだから大丈夫」
「そっか」
晴はまたゴールへ向く。シュート。入る。床へ跳ねたボールを拾う。
「晴。文化祭準備、一時からだよ。今、十二時二十五分」
「知ってる。まだ余裕あるって」
「お昼は?」
尋ねると、晴の動きが一度止まった。
「……食べないの?」
「もうちょっとやったら、後で食べる」
「分かった。先に倉庫見てくるね」
私は一度体育館を出て、倉庫の鍵を開けた。中には、折り畳まれた展示パネルが壁へ立てかけてある。数えると、全部で七枚。大きな破損はないけれど、少し汚れているものが二枚あった。スマートフォンへメモして、倉庫を閉める。鍵を抜く。そして、体育館を見る。
晴は、まだシュートを打っていた。教室では、みんなが準備をしている。晴もあとで来ると言っている。私がここに残る理由は残ってない。それなのに、一歩目が出なかった。晴がまたシュートを外す。ボールを追いかける。拾う。戻る。
「……晴。いつまでやるの?」
「もうちょっと」
「さっきも言ったよ」
「じゃあ、あと十本打つまで」
「分かった」
私は体育館の壁際へ座った。それを見て、晴が驚いたように手を止める。
「真帆、準備は?」
「まだ時間あるから」
そう言うと、晴は一拍黙った。
「そっか」
そう言って、ゴールへ戻る。でも、さっきまでより肩の力が抜けたように見えた。一投目、入る。二投目、外れる。三投目、入る。私は数えた。だけど、晴は数えていないようだった。
四投目。五投目。六投目。動きはいつもと同じに見える。だけど、やっぱりどこか違う。試合で見た晴は、周りをよく見ていた。味方へ声をかける。パスを出す。自分がボールを持っていなくても走る。だけど、今は一人だった。ボールと、ゴールと、自分だけ。
七。八。九。十。
「十本だよ」
声をかけると、晴がボールを抱えた。
「数えてたの? 真帆、そういうところ律儀だよね」
「終わり?」
晴はゴールを見る。一瞬だけ迷ったように見えた。
「……うん」
ボールを片づけ、こちらへ歩いてくる。そして、晴は私から少し離れたところへ座り込んだ。鞄から取り出したタオルで、無造作に顔を拭く。
「疲れた」
「それだけやれば、疲れると思うよ」
「正論」
晴が笑った。笑ったあとにいつもなら、そのまま何か別の話へ進む。だけど晴はタオルを膝へ置いたまま、ただ床を見ている。
「……何かあった?」
そう聞いた。晴の指が、タオルの端をいじる。
「なんで?」
「なんか……いつもと違うから」
「そう?」
「うん」
私は頷く。今度は、あまり迷わなかった。以前なら晴が違って見えても、自分の勘違いかもしれないと考えた。口にして間違っていたら、晴を困らせるかもしれない。
今も、それは少し考える。でも言わないことで、相手を困らせることもある。それも、もう知っていた。
「……次の大会さ、スタメン外れた」
晴が言った。一瞬、意味を理解するのが遅れた。
「……試合に出ないの?」
「出るかもしれないよ。ベンチには入るし」
「でも……最初からじゃない?」
「うん、昨日言われたんだ。最近ミス多かったから。別の子の方が調子いいし」
「……そっか」
何を言えばいいのか分からなかった。以前のバス停と同じだった。大丈夫。次がある。晴なら戻れる。そのどれも、根拠がない。だから、私は言わなかった。
「……悔しい?」
聞くと、晴の口元が緩む。
「そりゃあね」
「……怒ってる?」
晴はすぐに答えた。
「別に。だから余計に嫌なんだよね。私がもっとちゃんとやればよかっただけ」
「でも」
言葉を言いかけて、止める。すると、晴がこちらを見た。
「何?」
「……分からない」
「出た。真帆の分からない」
「だって、バスケのこと知らないから」
私が俯くと、晴は困ったように笑っていた。
「前も言ってたね。バスケ分かんないから、悪くないとか言えないって」
晴は、そういうことをよく覚えている。私は一度考えた。
「全部、晴一人のせいなのかなって思っただけ。バスケって、チームでやるスポーツでしょ。先生が決める理由だって、一個じゃないだろうし……」
「真帆なりに頑張って励ましてる?」
「励ましてるかは分からない」
「そっか」
晴が笑った。だけどその笑顔も、すぐ消える。
「みんなも言ってくれたよ。晴ならすぐ戻れるって。七海も、次頑張ろって。ありがたいんだけどね。それ言われると、頑張らなきゃってなるじゃん」
晴は床を見たまま言う。声が少し小さくなった。
「別に頑張りたくないわけじゃないよ。スタメン戻りたいし。試合出たいし。でも……昨日からずっと、次、次って言われて。今悔しいの、いつ終わらせればいいんだろうって思っただけ」
晴の指が、タオルを握る。私は何も言えなかった。次へ進む。前向きになる。頑張る。全部、いいことのように聞こえる。でも今の晴は、まだそこへ行きたくないのかもしれない。
「部活の子の前で落ち込んでたら、気遣わせるし。後輩とかもっと困るじゃん。先輩が暗かったら」
「……そうかな」
「困るでしょ」
晴は笑った。いつものように。でも、その笑顔が少し苦しく見えた。
「私、名前晴だし」
「……名前? 関係ある?」
「あるよ」
晴はふっと苦笑して、自分の膝へ顎を乗せた。
「小さい頃から言われるもん。晴が暗いと天気悪いみたいって」
「それ、面白い?」
「最初の百回くらいは」
「百回は多い」
「でしょ?」
晴が笑う。今度は本当に笑っていた。
「だから、落ち込んでるとみんな言うんだよ。『晴らしくない』とか」
途端、胸の中に小さな違和感が生まれた。
「……晴らしくないって、誰が決めるの?」
つい口から出た。私の声に、晴が顔を上げる。
「え?」
「落ち込んでるのも晴でしょ」
「まあ、そうだけど」
「暗くても、晴は晴でしょ」
言ってから、自分でもずいぶん単純なことを言ったと思った。暗くても、晴は晴。その言葉だけが、妙に胸に残った。明るい晴。泣いている晴。バスケをしている晴。ピンクのリップをつけた晴。どれか一つだけが本物なわけではない。全部、同じ人だ。
それを口にしただけなのに、なぜか、自分にも言い聞かせたような気がした。晴は何も言わなかった。
「……変なこと言った?」
「いや。真帆って……」
晴が一度息を吸う。
「たまに、本当に変なこと言う」
「また?」
「褒めてる」
「それ、いつも褒めてない」
「今日は褒めてる」
晴が笑った。だけど途中で、顔を伏せた。そして、肩が少し揺れる。笑っているのかと思ったけれど、違った。涙が床へ、一滴落ちた。
「あ」
晴が、自分でも驚いたような声を出す。
「最悪、泣くつもりなかった」
「いいんじゃない。誰もいないし」
「真帆いるじゃん。真帆いるから、余計だめ」
そこまで言って、晴はタオルで目を押さえた。
「……どうして?」
「分かんない」
今度は晴が言った。一瞬だけ、おかしくなった。つい笑いそうになって、やめる。
「晴も分からないんだね」
「分かんないよ。泣くと思ってなかったし。なんで今なのかも、よく分かんない」
晴はタオルで目元を押さえたまま、掠れた声で続けた。
「たぶん、真帆いると……我慢しなくてよくなるから」
その言葉に、胸の奥が強く鳴った。
「……私がいると?」
「うん」
「なんで?」
「だから、それは分かんないって言ったじゃん」
晴が涙のまま笑う。今度は、私も笑った。
「そうだった」
笑い合うと、空気が緩んだ気がした。晴は鼻を一度すすり、タオルを再び膝へ下ろす。
「部活の子の前だとさ、私が落ち込んでたら気遣わせるし。家帰ったら、家族も心配するし。でも真帆は……変に励まさないから」
「……励まし方が分からないだけだけど」
「それがいいのかもね」
そう言って、晴は赤い目のまま私を見た。理由を全部分かったわけではないらしい。でも私の前では、無理に明るくしなくてもいい。少なくとも、晴は今そう感じている。そのことが、静かに残った。
晴はしばらく泣いていた。声を上げるほどではない。ただ、一度出た涙が止まらなくなったようだった。私は隣に座っていた。背中をさすることも、抱きしめることも、大丈夫と言うこともできなかった。でも、前のように「何をすれば正解か」を探してはいなかった。
ここにいる。今は、それだけでいい気がした。少ししてから、晴が顔を上げた。
「真帆……ちょっとだけ、いい?」
「何が?」
晴は言いにくそうに、一度口を閉じた。それから、視線が私の顔から少し下へ落ちる。
「ここ」
晴が指先で指す。意味が分かるまでに、一秒かかった。
「……肩?」
「言わせないでよ」
少し恥ずかしそうに、晴が顔を逸らした。その顔を見た瞬間、なぜか私まで恥ずかしくなった。
「……いいよ」
晴がゆっくり身体を寄せる。その頭が、肩へ乗った。思っていたより近かった。前の帰りのバスとは違う。あのときは、眠った晴がいつの間にかもたれてきただけだった。
今日は、晴が自分で選んだ。私の肩を。
その違いを意識した瞬間、身体が固まりそうになった。晴の短い髪が、頬の近くへ触れる。汗と、シャンプーの匂いが混ざっていた。呼吸するたび、肩にかかる重さがほんの少し動く。
「真帆、重い?」
「大丈夫」
「本当?」
「これくらいなら」
「よかった」
晴が目を閉じた。私たちは、しばらく何も話さなかった。体育館の高い窓から、外の明るさが差し込んでいる。遠くで蝉が鳴いている。外は暑いはずなのに、床へついた手のひらは少し冷たい。肩だけが熱かった。
「真帆の前だと……ちゃんとしてなくていい気がする」
晴が小さく言う。その言葉に、喉元が締まった。
「私……何もしてないけど」
「それがいいのかも」
晴は目を閉じたまま、口元で笑う。
「励まさないし。次頑張れとも言わないし」
「……言ってほしい?」
「今はいい」
「じゃあ言わない」
「そういうとこ」
「何?」
それから間があった。晴は、ずっと目を閉じたままだった。
「……好き」
心臓が跳ねた。聞き間違いかと思うくらい、大きく。息をするのを忘れていた。一秒。たぶん、それくらいだった。だけど、その一秒はもっと長かった気がした。
「だから真帆といると、楽なのかも」
胸の中で、さっきの一言が別の意味へ修正された。そういう意味ではない。分かっている。友達にだって「好き」と言う。性格の一部分について「好き」と言うこともある。だから、私は何も勘違いしていない。
「……ありがとう」
「そこ、ありがとうなんだ」
「だって、何て言えばいいか分からないから」
「真帆らしい」
晴が静かに口を閉じる。肩にかかる重さ。呼吸。触れている髪。それを今、私だけが感じている。その事実が、嬉しかった。
そう思った瞬間、自分の考えに引っかかる。晴は落ち込んでいる。そんなときに、自分が選ばれたことを喜ぶのは違う。でも、もしいつか。晴が別の誰かに、こんなふうに寄りかかるようになったら。七海でも、これからできるかもしれない誰かでも、彼氏でも。私ではない人の肩へ、こんなふうに頭を預けるようになったら。
そこまで考えて、胸が締めつけられた。嫌だった。今までより、ずっとはっきりと。晴が弱いところを預ける相手が、いつか私ではなくなる。そのことを想像したくなかった。
だけど、そんなことを望む権利はない。七海には七海と晴の関係がある。これから晴が誰を大切にするのかも、晴が決めることだ。だから、私に制限する権利はないはずだった。分かっている。分かっているのに。
「真帆? 肩、固い」
「だって、晴が乗ってるから」
「やっぱ重い?」
「違う」
「じゃあ何?」
「……考えてる」
「また? 考え終わったら教えて」
晴が小さく笑う。以前にも言われた言葉だった。そのときは、いつか本当に教えられるようになる気がしていた。でも、今考えていることだけは。
「……これは教えないかも」
「なんで?」
「まだ分からないから」
「分からないなら、教えてくれてもいいのに」
少し驚いて、晴を見る。晴は目を閉じたままだった。
「前にも言ったでしょ。答え出てなくてもいいって」
文化祭の企画。十七歳の問い。まだ答えが出ないこと。晴は、最初からそういう人だった。
「……でも、これはまだ」
「そっか」
晴は、それ以上聞かなかった。無理に言わせようともしない。分からないままでも、答えを出さなくても、晴はそこにいてくれた。だから、私も今だけは晴が預けてくれたものを、そのまま受け止めていたかった。
「この写真、横でいい?」
「うん」
「じゃあ二枚印刷する」
「分かった、ありがとう」
以前なら、たぶんそのあとに何か別の話が続いた。今は続かない。当然だった。修也は、しばらく二人で出かけるのはなしにしたいと言った。普通に戻れるかも分からない、と。その言葉を尊重するなら、私から距離を縮めようとするべきではない。自分が謝って楽になりたいからといって、修也に許すことまで求めるのも違う。
だから今は、これでいい。いいはずだった。
「ねえ真帆、そこの付箋取って」
莉子に言われ、机の端にあった束を渡す。夏休みの文化祭準備。教室には、私と莉子と修也、それから数人のクラスメイトが集まっていた。
晴はまだ来ていない。午前中がバスケ部の練習で、終わり次第こちらへ来ると言っていた。時計を見る。十二時二十二分。正式な文化祭の作業開始は一時。私たちが早く来ただけだった。
「瀬尾、ちょっといいか? パネル見てきてくれる?」
先生がそう言いながら、教室へ顔を出した。
「パネルですか?」
「文化祭で借りるやつ。体育館横の倉庫に、去年のがあるらしい。枚数と状態だけ、使えるか確認しておいてくれ」
「分かりました」
鍵を受け取り、私は教室を出た。夏休みの校舎は静かだった。教室棟を抜け、渡り廊下を進む。体育館へ近づくにつれて、床を叩く音が聞こえてきた。
バスケットボール。一度。間。もう一度。規則的ではあるけれど、練習中のような掛け声は聞こえない。視線を向けると、体育館の扉が少し開いている。倉庫はその横だった。通り過ぎようとして、中が見えた。
晴がいた。一人だった。誰かと話しているわけでもない。笑っているわけでもない。白いTシャツにハーフパンツ。短い髪は、汗で額へ張りついている。晴はゴールの正面へ立ち、シュートを打った。ボールがリングへ当たる。外れる。自分で拾いに行く。戻る。もう一度打つと、今度は入った。ネットが短く鳴る。また打つ。外れる。拾う。同じことを、ただ黙って繰り返していた。
教室にいる晴とは、違って見えた。誰かの話へ笑って相槌を打つ晴でも、後輩へ声をかける晴でも、試合中に仲間へ指示を出す晴でもない。誰にも見られていない晴。
「晴」
中を覗き込んで、声をかける。ボールを抱えたまま、晴が振り返った。驚いた顔のあと、すぐに笑う。
「真帆、どうしたの?」
「晴は、まだ練習?」
「自主練中」
「一人で?」
「うん」
晴はまた笑った。いつもの笑顔だった。
「真帆こそ何してるの?」
「パネル見に来た。文化祭の」
「ああ、倉庫? 手伝おうか?」
「見るだけだから大丈夫」
「そっか」
晴はまたゴールへ向く。シュート。入る。床へ跳ねたボールを拾う。
「晴。文化祭準備、一時からだよ。今、十二時二十五分」
「知ってる。まだ余裕あるって」
「お昼は?」
尋ねると、晴の動きが一度止まった。
「……食べないの?」
「もうちょっとやったら、後で食べる」
「分かった。先に倉庫見てくるね」
私は一度体育館を出て、倉庫の鍵を開けた。中には、折り畳まれた展示パネルが壁へ立てかけてある。数えると、全部で七枚。大きな破損はないけれど、少し汚れているものが二枚あった。スマートフォンへメモして、倉庫を閉める。鍵を抜く。そして、体育館を見る。
晴は、まだシュートを打っていた。教室では、みんなが準備をしている。晴もあとで来ると言っている。私がここに残る理由は残ってない。それなのに、一歩目が出なかった。晴がまたシュートを外す。ボールを追いかける。拾う。戻る。
「……晴。いつまでやるの?」
「もうちょっと」
「さっきも言ったよ」
「じゃあ、あと十本打つまで」
「分かった」
私は体育館の壁際へ座った。それを見て、晴が驚いたように手を止める。
「真帆、準備は?」
「まだ時間あるから」
そう言うと、晴は一拍黙った。
「そっか」
そう言って、ゴールへ戻る。でも、さっきまでより肩の力が抜けたように見えた。一投目、入る。二投目、外れる。三投目、入る。私は数えた。だけど、晴は数えていないようだった。
四投目。五投目。六投目。動きはいつもと同じに見える。だけど、やっぱりどこか違う。試合で見た晴は、周りをよく見ていた。味方へ声をかける。パスを出す。自分がボールを持っていなくても走る。だけど、今は一人だった。ボールと、ゴールと、自分だけ。
七。八。九。十。
「十本だよ」
声をかけると、晴がボールを抱えた。
「数えてたの? 真帆、そういうところ律儀だよね」
「終わり?」
晴はゴールを見る。一瞬だけ迷ったように見えた。
「……うん」
ボールを片づけ、こちらへ歩いてくる。そして、晴は私から少し離れたところへ座り込んだ。鞄から取り出したタオルで、無造作に顔を拭く。
「疲れた」
「それだけやれば、疲れると思うよ」
「正論」
晴が笑った。笑ったあとにいつもなら、そのまま何か別の話へ進む。だけど晴はタオルを膝へ置いたまま、ただ床を見ている。
「……何かあった?」
そう聞いた。晴の指が、タオルの端をいじる。
「なんで?」
「なんか……いつもと違うから」
「そう?」
「うん」
私は頷く。今度は、あまり迷わなかった。以前なら晴が違って見えても、自分の勘違いかもしれないと考えた。口にして間違っていたら、晴を困らせるかもしれない。
今も、それは少し考える。でも言わないことで、相手を困らせることもある。それも、もう知っていた。
「……次の大会さ、スタメン外れた」
晴が言った。一瞬、意味を理解するのが遅れた。
「……試合に出ないの?」
「出るかもしれないよ。ベンチには入るし」
「でも……最初からじゃない?」
「うん、昨日言われたんだ。最近ミス多かったから。別の子の方が調子いいし」
「……そっか」
何を言えばいいのか分からなかった。以前のバス停と同じだった。大丈夫。次がある。晴なら戻れる。そのどれも、根拠がない。だから、私は言わなかった。
「……悔しい?」
聞くと、晴の口元が緩む。
「そりゃあね」
「……怒ってる?」
晴はすぐに答えた。
「別に。だから余計に嫌なんだよね。私がもっとちゃんとやればよかっただけ」
「でも」
言葉を言いかけて、止める。すると、晴がこちらを見た。
「何?」
「……分からない」
「出た。真帆の分からない」
「だって、バスケのこと知らないから」
私が俯くと、晴は困ったように笑っていた。
「前も言ってたね。バスケ分かんないから、悪くないとか言えないって」
晴は、そういうことをよく覚えている。私は一度考えた。
「全部、晴一人のせいなのかなって思っただけ。バスケって、チームでやるスポーツでしょ。先生が決める理由だって、一個じゃないだろうし……」
「真帆なりに頑張って励ましてる?」
「励ましてるかは分からない」
「そっか」
晴が笑った。だけどその笑顔も、すぐ消える。
「みんなも言ってくれたよ。晴ならすぐ戻れるって。七海も、次頑張ろって。ありがたいんだけどね。それ言われると、頑張らなきゃってなるじゃん」
晴は床を見たまま言う。声が少し小さくなった。
「別に頑張りたくないわけじゃないよ。スタメン戻りたいし。試合出たいし。でも……昨日からずっと、次、次って言われて。今悔しいの、いつ終わらせればいいんだろうって思っただけ」
晴の指が、タオルを握る。私は何も言えなかった。次へ進む。前向きになる。頑張る。全部、いいことのように聞こえる。でも今の晴は、まだそこへ行きたくないのかもしれない。
「部活の子の前で落ち込んでたら、気遣わせるし。後輩とかもっと困るじゃん。先輩が暗かったら」
「……そうかな」
「困るでしょ」
晴は笑った。いつものように。でも、その笑顔が少し苦しく見えた。
「私、名前晴だし」
「……名前? 関係ある?」
「あるよ」
晴はふっと苦笑して、自分の膝へ顎を乗せた。
「小さい頃から言われるもん。晴が暗いと天気悪いみたいって」
「それ、面白い?」
「最初の百回くらいは」
「百回は多い」
「でしょ?」
晴が笑う。今度は本当に笑っていた。
「だから、落ち込んでるとみんな言うんだよ。『晴らしくない』とか」
途端、胸の中に小さな違和感が生まれた。
「……晴らしくないって、誰が決めるの?」
つい口から出た。私の声に、晴が顔を上げる。
「え?」
「落ち込んでるのも晴でしょ」
「まあ、そうだけど」
「暗くても、晴は晴でしょ」
言ってから、自分でもずいぶん単純なことを言ったと思った。暗くても、晴は晴。その言葉だけが、妙に胸に残った。明るい晴。泣いている晴。バスケをしている晴。ピンクのリップをつけた晴。どれか一つだけが本物なわけではない。全部、同じ人だ。
それを口にしただけなのに、なぜか、自分にも言い聞かせたような気がした。晴は何も言わなかった。
「……変なこと言った?」
「いや。真帆って……」
晴が一度息を吸う。
「たまに、本当に変なこと言う」
「また?」
「褒めてる」
「それ、いつも褒めてない」
「今日は褒めてる」
晴が笑った。だけど途中で、顔を伏せた。そして、肩が少し揺れる。笑っているのかと思ったけれど、違った。涙が床へ、一滴落ちた。
「あ」
晴が、自分でも驚いたような声を出す。
「最悪、泣くつもりなかった」
「いいんじゃない。誰もいないし」
「真帆いるじゃん。真帆いるから、余計だめ」
そこまで言って、晴はタオルで目を押さえた。
「……どうして?」
「分かんない」
今度は晴が言った。一瞬だけ、おかしくなった。つい笑いそうになって、やめる。
「晴も分からないんだね」
「分かんないよ。泣くと思ってなかったし。なんで今なのかも、よく分かんない」
晴はタオルで目元を押さえたまま、掠れた声で続けた。
「たぶん、真帆いると……我慢しなくてよくなるから」
その言葉に、胸の奥が強く鳴った。
「……私がいると?」
「うん」
「なんで?」
「だから、それは分かんないって言ったじゃん」
晴が涙のまま笑う。今度は、私も笑った。
「そうだった」
笑い合うと、空気が緩んだ気がした。晴は鼻を一度すすり、タオルを再び膝へ下ろす。
「部活の子の前だとさ、私が落ち込んでたら気遣わせるし。家帰ったら、家族も心配するし。でも真帆は……変に励まさないから」
「……励まし方が分からないだけだけど」
「それがいいのかもね」
そう言って、晴は赤い目のまま私を見た。理由を全部分かったわけではないらしい。でも私の前では、無理に明るくしなくてもいい。少なくとも、晴は今そう感じている。そのことが、静かに残った。
晴はしばらく泣いていた。声を上げるほどではない。ただ、一度出た涙が止まらなくなったようだった。私は隣に座っていた。背中をさすることも、抱きしめることも、大丈夫と言うこともできなかった。でも、前のように「何をすれば正解か」を探してはいなかった。
ここにいる。今は、それだけでいい気がした。少ししてから、晴が顔を上げた。
「真帆……ちょっとだけ、いい?」
「何が?」
晴は言いにくそうに、一度口を閉じた。それから、視線が私の顔から少し下へ落ちる。
「ここ」
晴が指先で指す。意味が分かるまでに、一秒かかった。
「……肩?」
「言わせないでよ」
少し恥ずかしそうに、晴が顔を逸らした。その顔を見た瞬間、なぜか私まで恥ずかしくなった。
「……いいよ」
晴がゆっくり身体を寄せる。その頭が、肩へ乗った。思っていたより近かった。前の帰りのバスとは違う。あのときは、眠った晴がいつの間にかもたれてきただけだった。
今日は、晴が自分で選んだ。私の肩を。
その違いを意識した瞬間、身体が固まりそうになった。晴の短い髪が、頬の近くへ触れる。汗と、シャンプーの匂いが混ざっていた。呼吸するたび、肩にかかる重さがほんの少し動く。
「真帆、重い?」
「大丈夫」
「本当?」
「これくらいなら」
「よかった」
晴が目を閉じた。私たちは、しばらく何も話さなかった。体育館の高い窓から、外の明るさが差し込んでいる。遠くで蝉が鳴いている。外は暑いはずなのに、床へついた手のひらは少し冷たい。肩だけが熱かった。
「真帆の前だと……ちゃんとしてなくていい気がする」
晴が小さく言う。その言葉に、喉元が締まった。
「私……何もしてないけど」
「それがいいのかも」
晴は目を閉じたまま、口元で笑う。
「励まさないし。次頑張れとも言わないし」
「……言ってほしい?」
「今はいい」
「じゃあ言わない」
「そういうとこ」
「何?」
それから間があった。晴は、ずっと目を閉じたままだった。
「……好き」
心臓が跳ねた。聞き間違いかと思うくらい、大きく。息をするのを忘れていた。一秒。たぶん、それくらいだった。だけど、その一秒はもっと長かった気がした。
「だから真帆といると、楽なのかも」
胸の中で、さっきの一言が別の意味へ修正された。そういう意味ではない。分かっている。友達にだって「好き」と言う。性格の一部分について「好き」と言うこともある。だから、私は何も勘違いしていない。
「……ありがとう」
「そこ、ありがとうなんだ」
「だって、何て言えばいいか分からないから」
「真帆らしい」
晴が静かに口を閉じる。肩にかかる重さ。呼吸。触れている髪。それを今、私だけが感じている。その事実が、嬉しかった。
そう思った瞬間、自分の考えに引っかかる。晴は落ち込んでいる。そんなときに、自分が選ばれたことを喜ぶのは違う。でも、もしいつか。晴が別の誰かに、こんなふうに寄りかかるようになったら。七海でも、これからできるかもしれない誰かでも、彼氏でも。私ではない人の肩へ、こんなふうに頭を預けるようになったら。
そこまで考えて、胸が締めつけられた。嫌だった。今までより、ずっとはっきりと。晴が弱いところを預ける相手が、いつか私ではなくなる。そのことを想像したくなかった。
だけど、そんなことを望む権利はない。七海には七海と晴の関係がある。これから晴が誰を大切にするのかも、晴が決めることだ。だから、私に制限する権利はないはずだった。分かっている。分かっているのに。
「真帆? 肩、固い」
「だって、晴が乗ってるから」
「やっぱ重い?」
「違う」
「じゃあ何?」
「……考えてる」
「また? 考え終わったら教えて」
晴が小さく笑う。以前にも言われた言葉だった。そのときは、いつか本当に教えられるようになる気がしていた。でも、今考えていることだけは。
「……これは教えないかも」
「なんで?」
「まだ分からないから」
「分からないなら、教えてくれてもいいのに」
少し驚いて、晴を見る。晴は目を閉じたままだった。
「前にも言ったでしょ。答え出てなくてもいいって」
文化祭の企画。十七歳の問い。まだ答えが出ないこと。晴は、最初からそういう人だった。
「……でも、これはまだ」
「そっか」
晴は、それ以上聞かなかった。無理に言わせようともしない。分からないままでも、答えを出さなくても、晴はそこにいてくれた。だから、私も今だけは晴が預けてくれたものを、そのまま受け止めていたかった。
