まだ名前のない、きみの隣

 八月二日。待ち合わせの駅へ着いたのは、約束の十五分前だった。早すぎたと思う。だけど、遅れるよりはいい。そう結論を出して、改札の外にある時計の下へ向かった。

 修也は、まだ来ていなかった。一時まで、何をして待つか考える。近くの案内板を見るけれど、特に知りたい情報はない。今度は、自分の服が気になりだした。白いブラウスに、薄い緑色のロングスカート。普段よりは気を遣った。でも、気合いを入れすぎたと思われるほどではない。たぶん。同級生の男子と二人で出かける。それなら、いつもの休日より少しだけきれいな服を選ぶのは、普通だと思う。

 莉子には昨日の夜、『デートなんだから少しくらいかわいくして行きなよ』と言われた。すぐに、『デートじゃない』と返した。でも、休日に同級生の男子と二人で待ち合わせることを、一般的にはそう呼ぶのかもしれない。ただ、私が修也を恋愛として好きなのかは、まだ分からない。だから今日は、写真展へ行く。今は、それでいいことにした。

「瀬尾さん」

 声がして、顔を上げた。修也が改札の方から歩いてくる。黒いTシャツの上に、薄い色のシャツを羽織っていた。学校で見る制服姿とは、なんだか雰囲気が違う気がした。

「ごめん、待った?」

「ううん、大丈夫」

「ギャラリー、ここから十分くらい。行こうか」

 私は頷き、二人で並んで歩き始める。休日の駅前は人が多かった。家族連れ。大きな紙袋を持った人。同じくらいの年齢の男女も何組か歩いている。視界に入って、すぐに目を逸らした。

 何を話せばいいのか、一瞬だけ考える。学校なら、文化祭のことがある。授業のこともある。教室で起きたこともある。今日はそれがない。それでも修也は特に困った様子もなく、「今日、駅混んでた?」と聞いてきた。

「たぶん、普通だと思う」

「そう? 俺の方、電車ちょっと遅れてた」

「でも、まだ約束の時間前だよ」

「そうだけど。これから真帆と待ち合わせるなら、十分前には着いた方が良いかもな」

 初めて名前を呼ばれて、反応が遅れた。言葉を失っていると、修也が顔を上げる。

「あ、ごめん。嫌だった?」

「そういうわけじゃ」

「学校の外で瀬尾さんって呼ぶの、なんか固いなと思って。だから、真帆って呼んでもいい?」

 同じことを、以前にも聞かれた。晴から。そのときのことが、思ったよりはっきり浮かんだ。だけど、今は修也と話している。

「……いいよ」

「じゃあ真帆」

 すぐに呼ばれた。同じ名前なのに、晴に呼ばれるときとは聞こえ方が違う。当然だ。だって、声が違うのだから。

「俺のことも修也でいいよ」

「……うん」

「呼ばなそう」

「努力する」

 修也が笑う。つられて、私も笑った。さっきまであった緊張が、少しほどけた気がした。

◇

 市民ギャラリーは、大きな図書館の隣にあった。白い壁の建物の入口に、高校生写真合同展と書かれた看板が立っている。

「こんなのやってるの、知らなかった」

「たぶん、宣伝足りないんだよな」

 修也に続いて中へ入る。冷房の空気に包まれて、外で身体にまとわりついていた暑さが一気に遠ざかった。壁には、何十枚もの写真が並んでいた。街。海。人。動物。学校。夕焼け。一枚ずつ、題名と撮影者の名前が添えられている。

「好きに見てていいよ」

 修也が言う。

「……修也たちの写真はどの辺?」

 口にしたあと、一拍遅れて気づいた。呼んだ。それに気づいて、修也が笑う。

「今、普通に呼んだ。努力の成果?」

「たまたま」

「じゃあ、もう一回」

「そう言われると嫌」

「厳しいな」

 横を見ると、修也は楽しそうだった。

「俺の写真は先に教えない」

「でも、名前見れば分かるでしょ」

「まあね。だけど、先入観なしで見てほしいから」

「分かった」

 私は頷き、順番に写真を見る。一枚目。雨上がりの道路。水たまりに、逆さまの空が映っている。二枚目。駅のホーム。誰もいないベンチ。三枚目。夕方の校庭。どれも、普段ならそのまま通り過ぎるような景色だった。だけど写真になると、見えていなかったものが急にそこに現れたような気がする。

 全部を同じ速さで見るつもりだったのに、一枚の前で足が止まった。

「これ、好きかも」

 海沿いの防波堤。夕方。雲の隙間から、細い光が海へ落ちている。空も海も青いのに、真昼の青とは違う。少しくすんでいて、静かだった。

「それ、俺」

 修也が言った。題名を見る。『帰るまでの十七分』――撮影者、牧野修也。

「どう?」

「……好き」

 私の横で、修也が一瞬黙った。すぐに、自分の言葉が足りなかったことに気づく。

「写真が」

「分かってるよ。どこが?」

「……色。夕方なのに、オレンジじゃないところ」

 修也も写真を見る。

「なるほどね。撮った日、曇ってたから」

「……暗いのに、怖くない」

「それ褒めてる?」

「褒めてる」

「真帆、褒め方独特だな。気に入ったなら、写真撮っても大丈夫。展示は全部撮影可だから」

 私は鞄の中から、スマートフォンを取り出した。自分の画面の中へ、写真を収める。撮り終えた瞬間、晴に見せたいと思った。青が好きだと言っていたから。たぶん、この色も好きだと思う。送信画面を開きかけて、やめた。

 今は修也と一緒にいる。その最中に別の友達へ写真を送るのは、なんだか失礼な気がした。そう考えて、私はスマートフォンをしまう。

「誰かに送るの? 三好?」

 修也が聞いた。その名前に、顔を上げる。

「なんで?」

「いや、なんとなく」

 胸の奥が、小さく跳ねた。

「文化祭の参考になるかもしれないから」

 すぐに理由が出た。

「三好も実行委員だもんね」

「うん」

 嘘ではない。たぶん、文化祭の参考にもなる。ただ、その理由より先に晴に見せたいと思ったことは、言わなかった。

◇

 展示を見終えた頃には、二時半を少し回っていた。

「真帆、お昼まだでしょ」

 そう修也に言われ、近くにあったカフェへ入った。

「何食べる? 俺はサンドイッチ」

「早い」

「写真選ぶのは遅いけど、食べ物は早いんだ」

 私はメニューを見る。サンドイッチ。パスタ。カレー。パンケーキ。冷たいドリンク。上から順番に見て、それぞれを頭の中で比べていく。

「……パスタにする」

「了解」

 修也が店員を呼ぶ。注文を終えると、間が空いた。だけど、気まずい沈黙ではない。修也は窓の外を見ている。私も水を一口飲んだ。

「真帆って、三好と仲いいよね。よく一緒にいる」

 修也は視線を私に向けて、何気なく言った。

「そうかな、文化祭もあるから」

「それだけ?」

 同じことを、莉子にも聞かれたことがある。グラスを持っていた右手に、知らないうちに力が入っていた。

「友達だから」

「うん」

「……何?」

「何でもない」

 そう言って、修也は水を飲む。それで話は終わったはずなのに、なぜか自分から続けていた。

「……晴って、誰とでも仲いいし。だから、私だけじゃないよ」

 口にしてから、自分が何を説明しているのか分からなくなった。

「それ、気にしてる?」

「別に、気にしてない」

「そっか」

 修也はそれ以上は聞いてこなかった。追及されないことに安心する。ほどなくして、料理が運ばれてきた。食べながら、修也と写真の話をした。どうして写真部へ入ったのか。最初に使ったカメラ。好きな写真家。学校行事では人を撮るより、風景を撮る方が好きなこと。

「人、苦手なの?」

「撮るのがね」

「どうして?」

「カメラ向けると、人ってちょっと変わるじゃん。笑ったり、姿勢直したり」

「普通じゃない?」

「普通。でも、その直前の顔の方が好きなときある」

 そこまで言って、修也は考えた。

「撮られてるって気づいてないときの方が、その人っぽいっていうか」

 晴の顔が浮かんだ。試合に負けた日のバス停。泣いていないと言い張った顔。目元も鼻も赤くて、格好よくはなかった。たぶん、晴自身もそう思っていた。でも、なぜか目を逸らしたくなかった。

「……分かる気がする」

「真帆もカメラ向けられるの苦手そう」

「苦手」

「やっぱり。撮るよって言ったら、絶対意識しそう」

「すると思う」

「じゃあ撮っていい?」

「今? 嫌」

「了解」

 断ると、修也はあっさり引いた。

「じゃあ、そのうち撮っていい日が来たら」

「来ないと思う」

「やっぱ厳しいな」

 修也が苦笑する。私も笑った。思っていたより、楽しかった。修也は話しやすい。返事を急かさない。嫌だと言えば、すぐに引く。いい人だと思う。それなのに、「付き合う」という言葉を修也の隣へ置いてみても、胸の中では何も起こらなかった。

 まだ今日一日だから。すぐに理由を足した。恋愛感情が一日で生まれるとは限らない。もう一度会えば、何か変わるかもしれない。そう考えれば、今日はまだ答えを出さなくて済む。

「真帆、何か考えてるでしょ。つまらなかった?」

 声にはっとして顔を上げると、修也が私を覗き込むようにして見ていた。

「違う。楽しかった」

「本当?」

「本当」

 それに、修也が安心したように顔を綻ばす。楽しかった。そこだけは、考え直す必要のない答えだった。

 話しているうちに、時計は四時を回っていた。店を出ると、まだ昼の明るさが残っている。それでも日差しは傾き、建物の影が長くなり始めていた。二人で並んで、来た道を戻る。昼より人は減っていた。駅前の広場では、小さな噴水の周りで子どもたちが遊んでいる。その光景を見て、修也がカメラを取り出した。

「撮るの?」

「光いいから」

 噴水の向こうへ、斜めに光が差している。修也は立ち止まり、何枚か写真を撮った。カメラを構えているときの修也は、学校にいるときより表情が柔らかい。

「真帆。さっきから、たまに良い顔するよね」

 私に目線を向けて、修也がカメラを下ろす。

「良い顔?」

「うん。誰かに見せたいのかなって顔してる」

 修也の声に、喉が詰まった。

「……そんな顔してた?」

「たぶん」

「どうして分かるの?」

「写真撮ってると、人の顔見るから」

 そこまで言って、修也は口元を緩める。

「俺の勘違いかもしれないけど」

「……分からない」

 それ以上は言わなかった。でも、自分では分かっていた。展示を見る。晴ならこの色を好きかもしれないと思う。人の「作っていない顔」の話を聞く。あの日の晴を思い出す。

 修也と一緒にいる今日、晴はここにいない。それなのに、何度も頭の中へ現れる。何度だっただろう。数えようとして、やめた。数えたら、それも何かの答えになりそうだった。

 駅へ着くと、改札の前で修也が立ち止まる。

「今日はありがとう。来てくれて嬉しかった」

「こっちこそ。写真、よかったよ」

「それだけ?」

 冗談っぽい声だった。私は少し考える。

「……話すのも楽しかった」

 正直に言うと、修也が笑う。

「俺も」

 そこまで言ってから、短い間があった。

「また誘っていい?」

 その言葉だけが、少しゆっくり聞こえた。また修也と二人で出かける。嫌ではない。むしろ今日も楽しかった。

 それでも、すぐには返事が出なかった。もう一度会えば分かるかもしれない。そんな考えが浮かぶ。その瞬間、胸の中がわずかにざらついた。

「……うん」

 結局、私は頷いた。

「ありがと。じゃあまた学校で。夏休みだけど」

「文化祭準備があるから、また会うよ」

「そうだった」

 手を振って別れ、改札を通る。一人になった。ホームへ向かいながら、鞄からスマートフォンを取り出す。そして、今日撮った写真を開いた。修也の写真。夕方の防波堤。淡い青。晴が好きそうだと思った写真。アプリを開いて、晴の名前を選ぶ。そこで動けなくなった。

 修也と写真展へ行くことは、晴も知っている。だけどその途中で晴のことを考えていたと知られるのは、何となく恥ずかしかった。どうしてかは分からない。結局、私はスマートフォンを閉じた。

 電車へ乗ると、座席は空いていた。車窓を流れる街を眺めながら、今日一日のことを考えた。今日一日は楽しかった。修也は優しかった。写真も面白かった。また誘われても、嫌ではなかった。だったら、今日の外出は成功だったのだと思う。そこまで考えて、引っかかった。成功。何をもって、成功とするのだろう。

 写真展を楽しめたこと。修也と二人でも気まずくなかったこと。男子と休日に出かけても嫌ではなかったこと。そのどれかなら、確かにうまくいった。安心した。だけど、自分が何に安心しているのか。そこまで考えそうになって、やめる。

 咄嗟に俯くと、スマートフォンが震えた。通知に表示されたのは、晴だった。

『写真展今日だっけ。どうだった?』

 その一行を見た瞬間に、胸の奥が大きく動いた。今日一日修也と話しても、写真を見ても、カフェで笑っても、「また誘っていい?」と聞かれても。私は、こんなふうにはならなかった。

 すぐに返信欄を開く。

『楽しかった』

 打つ。送る。迷ったのは一瞬だった。そのまま、さっき閉じた写真を添付する。

『これ、晴好きそうだと思った』

 送信したあとで、息が止まった。書いてしまった。晴が好きそうだと思った。つまり――私は写真展にいるあいだ、晴のことを考えた。そう伝えたことになる。取り消した方がいいだろうか。迷った瞬間に、既読がついた。

『え、めっちゃ好き』

 続けて、『青きれい』。その言葉に思わず口元が緩んで、慌てて片手で隠す。やっぱり、思ったとおりだった。嬉しい。

『牧野の写真?』

『うん』

『上手いね』

『本人に言っておく』

 そこで返信が止まった。画面を見つめる。一分。二分。その間に、電車が一駅進む。やがて、メッセージが届いた。

『今日ずっと牧野といた?』

 文字を読んで、質問の意味を考える。一緒に行ったのだから、当然だった。ただの確認かもしれない。

『うん』

 そう送る。少しして、『そっか』と返ってきた。何か続くのかと思って待つけれど、来ない。

『どうしたの?』

 打つ。消す。聞くほどのことではない。晴は、ただ確認しただけかもしれない。そこまで考えて、スマートフォンを膝へ置く。そして、窓の外を見た。

 今日、修也と過ごした時間は楽しかった。それは間違いない。修也を嫌だと思った瞬間もなかった。また会う約束もした。なのに一番嬉しかったのは、修也に「また誘っていい?」と聞かれたときではなかった。

 晴からメッセージが来たときだった。その事実だけが、今日一日のどの出来事よりもはっきりしていた。

 考えれば、たぶんまた問いが増える。どうして晴に見せたかったのか。どうして晴の返信を待ったのか。どうして『今日ずっと牧野といた?』という一文が、こんなに気になるのか。そして、どうして修也を好きになれるかどうかを、今日ずっと確かめようとしていたのか。

 そこまで考えたところで、電車が次の駅へ滑り込んだ。扉が開く。人が乗ってくる。私はスマートフォンを握りしめた。まだ、答えにはしなかった。