まだ名前のない、きみの隣

 新しい教室を間違えたことに気づいたのは、始業のチャイムが鳴る三分前だった。二階の廊下を半分ほど進んだところで、扉の上に掲げられた「一年三組」という札が目に入る。

 今日は高校二年生になって最初の日だ。新しいクラスは三階の二年二組。昇降口に貼り出された名簿を、何度も確認した。それなのに、身体だけが去年までと同じ道順を選んでいた。階段を上がっていた途中で、チャイムが鳴った。間に合わなかった。

 新しい教室の前まで来ると、閉じた扉の向こうから担任らしい男性の声が聞こえた。もう何かを話し始めている。ここで立っていても、時間が経つほど中に入りづらくなるだけ――そう分かっていても、指先は扉から離れたところで止まっていた。

 ノックは二回でいいのだろうか。三回の方が丁寧だったような気もする。そもそも、ノックをせずに入っても問題はない。そんなことを考えているあいだにも、教室の中から声が続いている。

 私は一度息を吸い、結局二回だけ扉を叩いた。恐る恐る扉を開けると、教室の中にいた全員が、一斉にこちらを見た。

「あの、遅れて――」

「瀬尾だな」

 黒板の前に立っていた男性教師が、手元の名簿を確かめる。細いフレームの眼鏡をかけた、四十代くらいの先生だった。

「初日から遅刻か?」

「いえ、その……去年の教室に行ってしまって……」

 そう言うと、何人かが小さく笑った。馬鹿にするような笑いではない。ただ新学期らしい失敗を聞いて、空気が緩んだだけなのだと思う。それでも顔が熱くなる。

「瀬尾の席は窓側、後ろから二番目」

 先生が教室の奥を指す。どの机のことか分からず視線をさまよわせると、一人の女子生徒が明るく手を上げた。

「瀬尾さん、ここ。私の前だよ」

 髪の短い子だった。その子の名前は、三好晴。直接話したことはほとんどないけれど、名前は知っていた。女子バスケットボール部で、廊下を歩けばよく誰かに呼び止められている。髪は耳がすっかり出るくらい短く、私より頭半分ほど背が高い。

 晴が上げた手を目印に、窓際まで歩く。椅子を引いて座ると、背後から小さな声がした。

「瀬尾さん。私も今朝、去年の教室に入りかけたよ」

 咄嗟に振り返ると、黒い瞳と目が合った。

「……本当に?」

「うん。入りそうになったところで、知らない子ばっかりだったから逃げた。だから、教室まで入った瀬尾さんの方が度胸あるね」

 晴は口元に手を当てて、悪戯っぽく笑っていた。

「入ってない。途中で気づいたから」

「じゃあ同点だ」

 それで、どうして同点になるのだろう。でも、私一人だけが失敗したのではないと思うと、先ほどまでの恥ずかしさが薄れていた。

「じゃあ、改めて出席を取るぞ」

 担任の声が響き、私は前を向く。だけどホームルームの間、話はほとんど頭に入らなかった。

――三好晴は、どうして私の名前を知っていたのだろう。

 同じ学年なのだから、理由はいくらでも考えられる。それでも、私は晴を知っていて、晴は私を知らない。勝手にそう思い込んでいた。その前提が崩れたことだけが、妙に落ち着かなかった。

◇

 休み時間になると、晴の周囲にはすぐに人が集まった。

「晴、また同じクラスだね」

「その席いいな。後ろじゃん」

 晴は一人ずつに返事をする。誰かと話しながら、別の誰かに手を振る。教室の前を通った上級生から名前を呼ばれると、椅子に座ったまま大きく手を上げた。見ているだけで、晴は忙しそうだった。

 私にはできない。話しているとき、自分が次に何を言うべきか考えているうちに、話題はたいてい先へ進む。やっと言葉を決めた頃には、その言葉を置く場所がなくなっている。

「真帆、今年も一緒だったね。名簿見た?」

 横から名前を呼ばれて顔を上げる。友人の羽鳥莉子が、私の机のそばに立っていた。

「見た」

「真帆の名前見つけて安心したよ。知ってる子、ほとんどいないと思ってたから」

 莉子はそう言いながら、私の机へ両手をついた。

「でもさ、このクラス、三好さんいるじゃん。当たりかもね」

「当たり?」

「だって人気者でしょ。明るいし、顔広いし」

 晴の方を見ると、ちょうど誰かに消しゴムを投げ返しているところだった。消しゴムは相手の机に届かず、床へ落ちた。晴は「ごめん」と笑いながら、自分で拾いに行く。

「真帆、三好さんの目の前じゃん。いいな。これを機に仲良くなれば? 私も友達になりたい」

「そんな。だって話したこと、ほとんどないし」

「これから話せばいいじゃん」

 それは、莉子には簡単なことらしい。でも私には、話したことのない相手との距離の取り方がよく分からなかった。

「それでさ、真帆。今日のお昼、一緒に食べようね。私購買行くから、ちょっと待ってて。限定のいちごパン、今日からなんだって」

「限定?」

「去年もすぐ売り切れてたの。真帆も何かいる?」

「お弁当あるから大丈夫」

「じゃあ、席だけ取っておいて」

「分かった」

 そこでチャイムが鳴り、莉子は自分の席へ戻っていった。晴の周囲にいた生徒たちも、慌ただしく席へ散っていく。最後に晴が椅子へ座り、指先で私の肩を軽く叩いた。

「瀬尾さん」

 振り返ると、晴が床を指していた。私の足元に、シャープペンシルが落ちている。だけど、いつ落としたのか分からない。

「それ、瀬尾さんのじゃない?」

「あ……ありがとう」

「どういたしまして」

 晴はそう言って、教科書を机に出した。私も前を向く。話しかけられた。ただ、落とし物を教えてもらっただけだ。きっと晴なら、誰のものでも同じように声をかけただろう。それでも次の授業が始まってからしばらく、私はシャープペンシルを持つ指先を意識していた。

◇

 四時間目の終了を知らせるチャイムが鳴ると、教室の空気が一斉に緩んだ。机を寄せる音。弁当袋を開く音。廊下へ駆け出していく足音。

「じゃあ真帆、行ってくるね!」

 莉子は財布を持ち、購買へ向かう生徒の列に加わった。それから五分経っても、莉子は戻ってこなかった。私の後ろでは、晴が女子生徒二人と机を向かい合わせにしている。晴は購買へ行かなかったらしく、自分の弁当箱を開けていた。

「ねえ、瀬尾さん」

 背後から名前を呼ばれた。振り向くと、晴が箸を持ったままこちらを見ていた。

「羽鳥さん待ってるの?」

「うん。購買に行ってて」

「購買、すごい列だったよ。さっき見たけど、廊下の曲がり角まで並んでた」

「そんなに?」

「限定のパンの日だからじゃない? 時間かかると思う」

「そうなんだ」

 視線を一度弁当箱に戻す。それならたぶん、先に食べた方がいいのだろう。けれど、まだ蓋を開ける気にはならなかった。晴は弁当箱と、何もしていない私の手を交互に見た。

「瀬尾さんも、こっちで一緒に食べない? 羽鳥さんが戻ったら、来てもらえばいいし」

「えっ」

 晴が指した先では、三人分の机が向かい合わせになっていた。私の机を足せば、四人になる。断る理由を探した。三人は元々仲がいいのかもしれない。そこへ急に入れば、気を遣わせる。でも、誘われたのに断れば、今度は晴に気を遣わせるかもしれない。何と答えるのが、一番誰にも迷惑をかけないのだろう。

「嫌だった?」

 晴が首を傾げた。

「ち、違う。嫌じゃなくて。ただ、いいのかなって」

「何が?」

「一緒に食べても」

 私の言葉に、晴は一度だけ瞬きをした。それから、当たり前のことを確認するように言った。

「私が誘ったんだから、いいに決まってるじゃん」

 そう言ってから立ち上がり、私の机の端へ手をかける。

「動かしていい?」

「あ、自分でやる」

「じゃあ、そっち持って」

 二人で机を持ち上げる。数十センチ移動させるだけなのに、晴は「せーの」と声をかけた。大げさな気もしたけれど、合図があった方が動きやすかった。

「はい、完成」

 三つの机に、私の机が加わった。晴と一緒にいた小林さんと植田さんも、私を普通に受け入れてくれた。自己紹介を終えて少しして、朝から気になっていたことを聞いてみた。

「三好さんは、どうして私の名前を知ってたの?」

「え? 座席表見たから。席が後ろだから、前の人の名前だけ覚えてたんだよね。先生が瀬尾って呼んだから、この子だって」

 晴は咀嚼をしながら、あっさりと答えた。

「そうだったんだ」

「もしかして、前から知ってると思った?」

「ちょっと」

 正直に答えてから、言わない方がよかったかもしれないと思った。これじゃあ私が晴を以前から知っていたことを、わざわざ本人に伝えたようなものだった。でも、晴は気にした様子もなく笑った。

「でも、瀬尾さんの顔は知ってたよ。去年、体育一緒だったでしょ。バドミントンでずっとシャトル拾ってた子」

「あれは、下手だったから」

「拾うの速かったよ」

 それは褒められているのだろうか。よく分からずにいると、小林さんが笑った。

「晴、人のこと変なところで覚えてるよね」

「だって、分かりやすいところで覚えても、みんなと同じになるじゃん」

 晴はそう答え、再び弁当へ箸を伸ばした。私も弁当箱を開ける。ご飯、焼き鮭、ほうれん草のおひたし、卵焼き。いつもと同じような中身だった。

「ねえ。瀬尾さんの卵焼きって、甘いやつ?」

 話題を変えるようにして、晴がそう尋ねる。

「たぶん」

「たぶんなんだ。私、甘いの好きなんだよね」

 そう言ってから、晴が自分の弁当箱から卵焼きを一つ持ち上げる。

「これはしょっぱい。甘かったら一個交換しない?」

 晴はなんてことなさそうに言った。きっと、普段からこういう子なんだろう。断る理由もなくて、私は卵焼きを口に入れる。

「……甘い」

「ほんと? やった。じゃあ交換」

 晴は嬉しそうに目を輝かせ、箸で卵焼きを示した。互いの弁当箱の蓋へ、一つずつ卵焼きを置く。交換した卵焼きは、確かにしょっぱかった。出汁の味が強くて、これはこれでおいしい。

「瀬尾さん、どう?」

「おいしい」

「どっちが?」

「どっちも」

「無難な答え。私は、瀬尾さんの家のが好きだな。交換して正解だった」

 晴は甘い卵焼きを食べながら、あっさりと言った。正解。その言葉に、肩の力が抜けた。正しい返事を探していたわけではないのに、晴がそう言うと、これでよかったのだと思えた。

「ねえ、瀬尾さん。真帆って呼んでもいい? 瀬尾さんだと、なんか固いから」

 晴は突然そう言った。名前で呼ばれるのは嫌ではない。でも、出会ってすぐに下の名前で呼び合う距離感が、私にはまだ分からなかった。

 小林さんと植田さんは、いつの間にか二人で別の話をしていた。晴だけが、私の返事を待っている。

「……いいよ」

「じゃ、真帆。私も晴でいいから」

 晴はすぐに呼んだ。試しに一度使ってみた、というような軽さだった。私は頷き、晴、と頭の中で呼んでみる。だけど、声にはまだ出せなかった。

 昼休みが終わる十分前になって、莉子が教室へ戻ってきた。片手には、いちご色の袋に入ったパンが二つある。

「やっと買えた……って真帆、よかった、食べてたんだ」

 莉子は私の席を探し、机が移動していることに気がついた。

「うん。晴が、誘ってくれて」

 私は初めて、晴の名前を口にした。それは、自分が思っていたより普通の音だった。

「そうなんだ。三好さん、ありがとね」

 私の答えに、莉子が安心したように笑う。

「全然。私も人数多い方が楽しいから。羽鳥さんも一緒にどう?」

 晴はそう答えた。私が一人だったから助けたとも、気を遣ったとも言わなかった。ただ、自分も一緒に食べたかったのだという形にしてくれた。

◇

 放課後になって帰る支度をしていると、背後から椅子を引く音がした。

「真帆」

 振り向くと、晴が通学鞄を肩にかけて立っていた。そのそばでは、バスケ部らしい女子生徒が二人、晴を待っている。

「じゃ、また明日」

 一瞬、返事が遅れた。また明日。それに対する返事は、たぶん同じ言葉でいい。

「また明日」

 答えると、晴は満足そうに手を振り、友人たちと教室を出ていった。

「すごいね、真帆。三好さんから、もう名前で呼ばれてるじゃん」

 気づけば隣に立っていた莉子が、感心したように言う。

「別に、お昼一緒に食べただけだよ」

「それで十分でしょ。三好さんの友達になるのに、面接とかないからね」

 莉子が呆れたように笑う。友達になる明確な条件なんてない。だけど決まっていないから、私には難しい。今日は晴と昼食を食べ、卵焼きを交換し、名前で呼ばれた。それでも、自分の名前が晴の声で呼ばれたとき、なぜか違うものに聞こえた。今まで何度も呼ばれてきた、ただの名前。それが一瞬だけ、私の知らない明るい音を持った。

 たぶん、晴という名前のせいだ。そういうことにして、私は莉子と並んで校門を出た。