新しい教室を間違えたことに気づいたのは、始業のチャイムが鳴る三分前だった。二階の廊下を半分ほど進んだところで、扉の上に掲げられた「一年三組」という札が目に入る。
今日は高校二年生になって最初の日だ。新しいクラスは三階の二年二組。昇降口に貼り出された名簿を、何度も確認した。それなのに、身体だけが去年までと同じ道順を選んでいた。階段を上がっていた途中で、チャイムが鳴った。間に合わなかった。
新しい教室の前まで来ると、閉じた扉の向こうから担任らしい男性の声が聞こえた。もう何かを話し始めている。ここで立っていても、時間が経つほど中に入りづらくなるだけ――そう分かっていても、指先は扉から離れたところで止まっていた。
ノックは二回でいいのだろうか。三回の方が丁寧だったような気もする。そもそも、ノックをせずに入っても問題はない。そんなことを考えているあいだにも、教室の中から声が続いている。
私は一度息を吸い、結局二回だけ扉を叩いた。恐る恐る扉を開けると、教室の中にいた全員が、一斉にこちらを見た。
「あの、遅れて――」
「瀬尾だな」
黒板の前に立っていた男性教師が、手元の名簿を確かめる。細いフレームの眼鏡をかけた、四十代くらいの先生だった。
「初日から遅刻か?」
「いえ、その……去年の教室に行ってしまって……」
そう言うと、何人かが小さく笑った。馬鹿にするような笑いではない。ただ新学期らしい失敗を聞いて、空気が緩んだだけなのだと思う。それでも顔が熱くなる。
「瀬尾の席は窓側、後ろから二番目」
先生が教室の奥を指す。どの机のことか分からず視線をさまよわせると、一人の女子生徒が明るく手を上げた。
「瀬尾さん、ここ。私の前だよ」
髪の短い子だった。その子の名前は、三好晴。直接話したことはほとんどないけれど、名前は知っていた。女子バスケットボール部で、廊下を歩けばよく誰かに呼び止められている。髪は耳がすっかり出るくらい短く、私より頭半分ほど背が高い。
晴が上げた手を目印に、窓際まで歩く。椅子を引いて座ると、背後から小さな声がした。
「瀬尾さん。私も今朝、去年の教室に入りかけたよ」
咄嗟に振り返ると、黒い瞳と目が合った。
「……本当に?」
「うん。入りそうになったところで、知らない子ばっかりだったから逃げた。だから、教室まで入った瀬尾さんの方が度胸あるね」
晴は口元に手を当てて、悪戯っぽく笑っていた。
「入ってない。途中で気づいたから」
「じゃあ同点だ」
それで、どうして同点になるのだろう。でも、私一人だけが失敗したのではないと思うと、先ほどまでの恥ずかしさが薄れていた。
「じゃあ、改めて出席を取るぞ」
担任の声が響き、私は前を向く。だけどホームルームの間、話はほとんど頭に入らなかった。
――三好晴は、どうして私の名前を知っていたのだろう。
同じ学年なのだから、理由はいくらでも考えられる。それでも、私は晴を知っていて、晴は私を知らない。勝手にそう思い込んでいた。その前提が崩れたことだけが、妙に落ち着かなかった。
◇
休み時間になると、晴の周囲にはすぐに人が集まった。
「晴、また同じクラスだね」
「その席いいな。後ろじゃん」
晴は一人ずつに返事をする。誰かと話しながら、別の誰かに手を振る。教室の前を通った上級生から名前を呼ばれると、椅子に座ったまま大きく手を上げた。見ているだけで、晴は忙しそうだった。
私にはできない。話しているとき、自分が次に何を言うべきか考えているうちに、話題はたいてい先へ進む。やっと言葉を決めた頃には、その言葉を置く場所がなくなっている。
「真帆、今年も一緒だったね。名簿見た?」
横から名前を呼ばれて顔を上げる。友人の羽鳥莉子が、私の机のそばに立っていた。
「見た」
「真帆の名前見つけて安心したよ。知ってる子、ほとんどいないと思ってたから」
莉子はそう言いながら、私の机へ両手をついた。
「でもさ、このクラス、三好さんいるじゃん。当たりかもね」
「当たり?」
「だって人気者でしょ。明るいし、顔広いし」
晴の方を見ると、ちょうど誰かに消しゴムを投げ返しているところだった。消しゴムは相手の机に届かず、床へ落ちた。晴は「ごめん」と笑いながら、自分で拾いに行く。
「真帆、三好さんの目の前じゃん。いいな。これを機に仲良くなれば? 私も友達になりたい」
「そんな。だって話したこと、ほとんどないし」
「これから話せばいいじゃん」
それは、莉子には簡単なことらしい。でも私には、話したことのない相手との距離の取り方がよく分からなかった。
「それでさ、真帆。今日のお昼、一緒に食べようね。私購買行くから、ちょっと待ってて。限定のいちごパン、今日からなんだって」
「限定?」
「去年もすぐ売り切れてたの。真帆も何かいる?」
「お弁当あるから大丈夫」
「じゃあ、席だけ取っておいて」
「分かった」
そこでチャイムが鳴り、莉子は自分の席へ戻っていった。晴の周囲にいた生徒たちも、慌ただしく席へ散っていく。最後に晴が椅子へ座り、指先で私の肩を軽く叩いた。
「瀬尾さん」
振り返ると、晴が床を指していた。私の足元に、シャープペンシルが落ちている。だけど、いつ落としたのか分からない。
「それ、瀬尾さんのじゃない?」
「あ……ありがとう」
「どういたしまして」
晴はそう言って、教科書を机に出した。私も前を向く。話しかけられた。ただ、落とし物を教えてもらっただけだ。きっと晴なら、誰のものでも同じように声をかけただろう。それでも次の授業が始まってからしばらく、私はシャープペンシルを持つ指先を意識していた。
◇
四時間目の終了を知らせるチャイムが鳴ると、教室の空気が一斉に緩んだ。机を寄せる音。弁当袋を開く音。廊下へ駆け出していく足音。
「じゃあ真帆、行ってくるね!」
莉子は財布を持ち、購買へ向かう生徒の列に加わった。それから五分経っても、莉子は戻ってこなかった。私の後ろでは、晴が女子生徒二人と机を向かい合わせにしている。晴は購買へ行かなかったらしく、自分の弁当箱を開けていた。
「ねえ、瀬尾さん」
背後から名前を呼ばれた。振り向くと、晴が箸を持ったままこちらを見ていた。
「羽鳥さん待ってるの?」
「うん。購買に行ってて」
「購買、すごい列だったよ。さっき見たけど、廊下の曲がり角まで並んでた」
「そんなに?」
「限定のパンの日だからじゃない? 時間かかると思う」
「そうなんだ」
視線を一度弁当箱に戻す。それならたぶん、先に食べた方がいいのだろう。けれど、まだ蓋を開ける気にはならなかった。晴は弁当箱と、何もしていない私の手を交互に見た。
「瀬尾さんも、こっちで一緒に食べない? 羽鳥さんが戻ったら、来てもらえばいいし」
「えっ」
晴が指した先では、三人分の机が向かい合わせになっていた。私の机を足せば、四人になる。断る理由を探した。三人は元々仲がいいのかもしれない。そこへ急に入れば、気を遣わせる。でも、誘われたのに断れば、今度は晴に気を遣わせるかもしれない。何と答えるのが、一番誰にも迷惑をかけないのだろう。
「嫌だった?」
晴が首を傾げた。
「ち、違う。嫌じゃなくて。ただ、いいのかなって」
「何が?」
「一緒に食べても」
私の言葉に、晴は一度だけ瞬きをした。それから、当たり前のことを確認するように言った。
「私が誘ったんだから、いいに決まってるじゃん」
そう言ってから立ち上がり、私の机の端へ手をかける。
「動かしていい?」
「あ、自分でやる」
「じゃあ、そっち持って」
二人で机を持ち上げる。数十センチ移動させるだけなのに、晴は「せーの」と声をかけた。大げさな気もしたけれど、合図があった方が動きやすかった。
「はい、完成」
三つの机に、私の机が加わった。晴と一緒にいた小林さんと植田さんも、私を普通に受け入れてくれた。自己紹介を終えて少しして、朝から気になっていたことを聞いてみた。
「三好さんは、どうして私の名前を知ってたの?」
「え? 座席表見たから。席が後ろだから、前の人の名前だけ覚えてたんだよね。先生が瀬尾って呼んだから、この子だって」
晴は咀嚼をしながら、あっさりと答えた。
「そうだったんだ」
「もしかして、前から知ってると思った?」
「ちょっと」
正直に答えてから、言わない方がよかったかもしれないと思った。これじゃあ私が晴を以前から知っていたことを、わざわざ本人に伝えたようなものだった。でも、晴は気にした様子もなく笑った。
「でも、瀬尾さんの顔は知ってたよ。去年、体育一緒だったでしょ。バドミントンでずっとシャトル拾ってた子」
「あれは、下手だったから」
「拾うの速かったよ」
それは褒められているのだろうか。よく分からずにいると、小林さんが笑った。
「晴、人のこと変なところで覚えてるよね」
「だって、分かりやすいところで覚えても、みんなと同じになるじゃん」
晴はそう答え、再び弁当へ箸を伸ばした。私も弁当箱を開ける。ご飯、焼き鮭、ほうれん草のおひたし、卵焼き。いつもと同じような中身だった。
「ねえ。瀬尾さんの卵焼きって、甘いやつ?」
話題を変えるようにして、晴がそう尋ねる。
「たぶん」
「たぶんなんだ。私、甘いの好きなんだよね」
そう言ってから、晴が自分の弁当箱から卵焼きを一つ持ち上げる。
「これはしょっぱい。甘かったら一個交換しない?」
晴はなんてことなさそうに言った。きっと、普段からこういう子なんだろう。断る理由もなくて、私は卵焼きを口に入れる。
「……甘い」
「ほんと? やった。じゃあ交換」
晴は嬉しそうに目を輝かせ、箸で卵焼きを示した。互いの弁当箱の蓋へ、一つずつ卵焼きを置く。交換した卵焼きは、確かにしょっぱかった。出汁の味が強くて、これはこれでおいしい。
「瀬尾さん、どう?」
「おいしい」
「どっちが?」
「どっちも」
「無難な答え。私は、瀬尾さんの家のが好きだな。交換して正解だった」
晴は甘い卵焼きを食べながら、あっさりと言った。正解。その言葉に、肩の力が抜けた。正しい返事を探していたわけではないのに、晴がそう言うと、これでよかったのだと思えた。
「ねえ、瀬尾さん。真帆って呼んでもいい? 瀬尾さんだと、なんか固いから」
晴は突然そう言った。名前で呼ばれるのは嫌ではない。でも、出会ってすぐに下の名前で呼び合う距離感が、私にはまだ分からなかった。
小林さんと植田さんは、いつの間にか二人で別の話をしていた。晴だけが、私の返事を待っている。
「……いいよ」
「じゃ、真帆。私も晴でいいから」
晴はすぐに呼んだ。試しに一度使ってみた、というような軽さだった。私は頷き、晴、と頭の中で呼んでみる。だけど、声にはまだ出せなかった。
昼休みが終わる十分前になって、莉子が教室へ戻ってきた。片手には、いちご色の袋に入ったパンが二つある。
「やっと買えた……って真帆、よかった、食べてたんだ」
莉子は私の席を探し、机が移動していることに気がついた。
「うん。晴が、誘ってくれて」
私は初めて、晴の名前を口にした。それは、自分が思っていたより普通の音だった。
「そうなんだ。三好さん、ありがとね」
私の答えに、莉子が安心したように笑う。
「全然。私も人数多い方が楽しいから。羽鳥さんも一緒にどう?」
晴はそう答えた。私が一人だったから助けたとも、気を遣ったとも言わなかった。ただ、自分も一緒に食べたかったのだという形にしてくれた。
◇
放課後になって帰る支度をしていると、背後から椅子を引く音がした。
「真帆」
振り向くと、晴が通学鞄を肩にかけて立っていた。そのそばでは、バスケ部らしい女子生徒が二人、晴を待っている。
「じゃ、また明日」
一瞬、返事が遅れた。また明日。それに対する返事は、たぶん同じ言葉でいい。
「また明日」
答えると、晴は満足そうに手を振り、友人たちと教室を出ていった。
「すごいね、真帆。三好さんから、もう名前で呼ばれてるじゃん」
気づけば隣に立っていた莉子が、感心したように言う。
「別に、お昼一緒に食べただけだよ」
「それで十分でしょ。三好さんの友達になるのに、面接とかないからね」
莉子が呆れたように笑う。友達になる明確な条件なんてない。だけど決まっていないから、私には難しい。今日は晴と昼食を食べ、卵焼きを交換し、名前で呼ばれた。それでも、自分の名前が晴の声で呼ばれたとき、なぜか違うものに聞こえた。今まで何度も呼ばれてきた、ただの名前。それが一瞬だけ、私の知らない明るい音を持った。
たぶん、晴という名前のせいだ。そういうことにして、私は莉子と並んで校門を出た。
今日は高校二年生になって最初の日だ。新しいクラスは三階の二年二組。昇降口に貼り出された名簿を、何度も確認した。それなのに、身体だけが去年までと同じ道順を選んでいた。階段を上がっていた途中で、チャイムが鳴った。間に合わなかった。
新しい教室の前まで来ると、閉じた扉の向こうから担任らしい男性の声が聞こえた。もう何かを話し始めている。ここで立っていても、時間が経つほど中に入りづらくなるだけ――そう分かっていても、指先は扉から離れたところで止まっていた。
ノックは二回でいいのだろうか。三回の方が丁寧だったような気もする。そもそも、ノックをせずに入っても問題はない。そんなことを考えているあいだにも、教室の中から声が続いている。
私は一度息を吸い、結局二回だけ扉を叩いた。恐る恐る扉を開けると、教室の中にいた全員が、一斉にこちらを見た。
「あの、遅れて――」
「瀬尾だな」
黒板の前に立っていた男性教師が、手元の名簿を確かめる。細いフレームの眼鏡をかけた、四十代くらいの先生だった。
「初日から遅刻か?」
「いえ、その……去年の教室に行ってしまって……」
そう言うと、何人かが小さく笑った。馬鹿にするような笑いではない。ただ新学期らしい失敗を聞いて、空気が緩んだだけなのだと思う。それでも顔が熱くなる。
「瀬尾の席は窓側、後ろから二番目」
先生が教室の奥を指す。どの机のことか分からず視線をさまよわせると、一人の女子生徒が明るく手を上げた。
「瀬尾さん、ここ。私の前だよ」
髪の短い子だった。その子の名前は、三好晴。直接話したことはほとんどないけれど、名前は知っていた。女子バスケットボール部で、廊下を歩けばよく誰かに呼び止められている。髪は耳がすっかり出るくらい短く、私より頭半分ほど背が高い。
晴が上げた手を目印に、窓際まで歩く。椅子を引いて座ると、背後から小さな声がした。
「瀬尾さん。私も今朝、去年の教室に入りかけたよ」
咄嗟に振り返ると、黒い瞳と目が合った。
「……本当に?」
「うん。入りそうになったところで、知らない子ばっかりだったから逃げた。だから、教室まで入った瀬尾さんの方が度胸あるね」
晴は口元に手を当てて、悪戯っぽく笑っていた。
「入ってない。途中で気づいたから」
「じゃあ同点だ」
それで、どうして同点になるのだろう。でも、私一人だけが失敗したのではないと思うと、先ほどまでの恥ずかしさが薄れていた。
「じゃあ、改めて出席を取るぞ」
担任の声が響き、私は前を向く。だけどホームルームの間、話はほとんど頭に入らなかった。
――三好晴は、どうして私の名前を知っていたのだろう。
同じ学年なのだから、理由はいくらでも考えられる。それでも、私は晴を知っていて、晴は私を知らない。勝手にそう思い込んでいた。その前提が崩れたことだけが、妙に落ち着かなかった。
◇
休み時間になると、晴の周囲にはすぐに人が集まった。
「晴、また同じクラスだね」
「その席いいな。後ろじゃん」
晴は一人ずつに返事をする。誰かと話しながら、別の誰かに手を振る。教室の前を通った上級生から名前を呼ばれると、椅子に座ったまま大きく手を上げた。見ているだけで、晴は忙しそうだった。
私にはできない。話しているとき、自分が次に何を言うべきか考えているうちに、話題はたいてい先へ進む。やっと言葉を決めた頃には、その言葉を置く場所がなくなっている。
「真帆、今年も一緒だったね。名簿見た?」
横から名前を呼ばれて顔を上げる。友人の羽鳥莉子が、私の机のそばに立っていた。
「見た」
「真帆の名前見つけて安心したよ。知ってる子、ほとんどいないと思ってたから」
莉子はそう言いながら、私の机へ両手をついた。
「でもさ、このクラス、三好さんいるじゃん。当たりかもね」
「当たり?」
「だって人気者でしょ。明るいし、顔広いし」
晴の方を見ると、ちょうど誰かに消しゴムを投げ返しているところだった。消しゴムは相手の机に届かず、床へ落ちた。晴は「ごめん」と笑いながら、自分で拾いに行く。
「真帆、三好さんの目の前じゃん。いいな。これを機に仲良くなれば? 私も友達になりたい」
「そんな。だって話したこと、ほとんどないし」
「これから話せばいいじゃん」
それは、莉子には簡単なことらしい。でも私には、話したことのない相手との距離の取り方がよく分からなかった。
「それでさ、真帆。今日のお昼、一緒に食べようね。私購買行くから、ちょっと待ってて。限定のいちごパン、今日からなんだって」
「限定?」
「去年もすぐ売り切れてたの。真帆も何かいる?」
「お弁当あるから大丈夫」
「じゃあ、席だけ取っておいて」
「分かった」
そこでチャイムが鳴り、莉子は自分の席へ戻っていった。晴の周囲にいた生徒たちも、慌ただしく席へ散っていく。最後に晴が椅子へ座り、指先で私の肩を軽く叩いた。
「瀬尾さん」
振り返ると、晴が床を指していた。私の足元に、シャープペンシルが落ちている。だけど、いつ落としたのか分からない。
「それ、瀬尾さんのじゃない?」
「あ……ありがとう」
「どういたしまして」
晴はそう言って、教科書を机に出した。私も前を向く。話しかけられた。ただ、落とし物を教えてもらっただけだ。きっと晴なら、誰のものでも同じように声をかけただろう。それでも次の授業が始まってからしばらく、私はシャープペンシルを持つ指先を意識していた。
◇
四時間目の終了を知らせるチャイムが鳴ると、教室の空気が一斉に緩んだ。机を寄せる音。弁当袋を開く音。廊下へ駆け出していく足音。
「じゃあ真帆、行ってくるね!」
莉子は財布を持ち、購買へ向かう生徒の列に加わった。それから五分経っても、莉子は戻ってこなかった。私の後ろでは、晴が女子生徒二人と机を向かい合わせにしている。晴は購買へ行かなかったらしく、自分の弁当箱を開けていた。
「ねえ、瀬尾さん」
背後から名前を呼ばれた。振り向くと、晴が箸を持ったままこちらを見ていた。
「羽鳥さん待ってるの?」
「うん。購買に行ってて」
「購買、すごい列だったよ。さっき見たけど、廊下の曲がり角まで並んでた」
「そんなに?」
「限定のパンの日だからじゃない? 時間かかると思う」
「そうなんだ」
視線を一度弁当箱に戻す。それならたぶん、先に食べた方がいいのだろう。けれど、まだ蓋を開ける気にはならなかった。晴は弁当箱と、何もしていない私の手を交互に見た。
「瀬尾さんも、こっちで一緒に食べない? 羽鳥さんが戻ったら、来てもらえばいいし」
「えっ」
晴が指した先では、三人分の机が向かい合わせになっていた。私の机を足せば、四人になる。断る理由を探した。三人は元々仲がいいのかもしれない。そこへ急に入れば、気を遣わせる。でも、誘われたのに断れば、今度は晴に気を遣わせるかもしれない。何と答えるのが、一番誰にも迷惑をかけないのだろう。
「嫌だった?」
晴が首を傾げた。
「ち、違う。嫌じゃなくて。ただ、いいのかなって」
「何が?」
「一緒に食べても」
私の言葉に、晴は一度だけ瞬きをした。それから、当たり前のことを確認するように言った。
「私が誘ったんだから、いいに決まってるじゃん」
そう言ってから立ち上がり、私の机の端へ手をかける。
「動かしていい?」
「あ、自分でやる」
「じゃあ、そっち持って」
二人で机を持ち上げる。数十センチ移動させるだけなのに、晴は「せーの」と声をかけた。大げさな気もしたけれど、合図があった方が動きやすかった。
「はい、完成」
三つの机に、私の机が加わった。晴と一緒にいた小林さんと植田さんも、私を普通に受け入れてくれた。自己紹介を終えて少しして、朝から気になっていたことを聞いてみた。
「三好さんは、どうして私の名前を知ってたの?」
「え? 座席表見たから。席が後ろだから、前の人の名前だけ覚えてたんだよね。先生が瀬尾って呼んだから、この子だって」
晴は咀嚼をしながら、あっさりと答えた。
「そうだったんだ」
「もしかして、前から知ってると思った?」
「ちょっと」
正直に答えてから、言わない方がよかったかもしれないと思った。これじゃあ私が晴を以前から知っていたことを、わざわざ本人に伝えたようなものだった。でも、晴は気にした様子もなく笑った。
「でも、瀬尾さんの顔は知ってたよ。去年、体育一緒だったでしょ。バドミントンでずっとシャトル拾ってた子」
「あれは、下手だったから」
「拾うの速かったよ」
それは褒められているのだろうか。よく分からずにいると、小林さんが笑った。
「晴、人のこと変なところで覚えてるよね」
「だって、分かりやすいところで覚えても、みんなと同じになるじゃん」
晴はそう答え、再び弁当へ箸を伸ばした。私も弁当箱を開ける。ご飯、焼き鮭、ほうれん草のおひたし、卵焼き。いつもと同じような中身だった。
「ねえ。瀬尾さんの卵焼きって、甘いやつ?」
話題を変えるようにして、晴がそう尋ねる。
「たぶん」
「たぶんなんだ。私、甘いの好きなんだよね」
そう言ってから、晴が自分の弁当箱から卵焼きを一つ持ち上げる。
「これはしょっぱい。甘かったら一個交換しない?」
晴はなんてことなさそうに言った。きっと、普段からこういう子なんだろう。断る理由もなくて、私は卵焼きを口に入れる。
「……甘い」
「ほんと? やった。じゃあ交換」
晴は嬉しそうに目を輝かせ、箸で卵焼きを示した。互いの弁当箱の蓋へ、一つずつ卵焼きを置く。交換した卵焼きは、確かにしょっぱかった。出汁の味が強くて、これはこれでおいしい。
「瀬尾さん、どう?」
「おいしい」
「どっちが?」
「どっちも」
「無難な答え。私は、瀬尾さんの家のが好きだな。交換して正解だった」
晴は甘い卵焼きを食べながら、あっさりと言った。正解。その言葉に、肩の力が抜けた。正しい返事を探していたわけではないのに、晴がそう言うと、これでよかったのだと思えた。
「ねえ、瀬尾さん。真帆って呼んでもいい? 瀬尾さんだと、なんか固いから」
晴は突然そう言った。名前で呼ばれるのは嫌ではない。でも、出会ってすぐに下の名前で呼び合う距離感が、私にはまだ分からなかった。
小林さんと植田さんは、いつの間にか二人で別の話をしていた。晴だけが、私の返事を待っている。
「……いいよ」
「じゃ、真帆。私も晴でいいから」
晴はすぐに呼んだ。試しに一度使ってみた、というような軽さだった。私は頷き、晴、と頭の中で呼んでみる。だけど、声にはまだ出せなかった。
昼休みが終わる十分前になって、莉子が教室へ戻ってきた。片手には、いちご色の袋に入ったパンが二つある。
「やっと買えた……って真帆、よかった、食べてたんだ」
莉子は私の席を探し、机が移動していることに気がついた。
「うん。晴が、誘ってくれて」
私は初めて、晴の名前を口にした。それは、自分が思っていたより普通の音だった。
「そうなんだ。三好さん、ありがとね」
私の答えに、莉子が安心したように笑う。
「全然。私も人数多い方が楽しいから。羽鳥さんも一緒にどう?」
晴はそう答えた。私が一人だったから助けたとも、気を遣ったとも言わなかった。ただ、自分も一緒に食べたかったのだという形にしてくれた。
◇
放課後になって帰る支度をしていると、背後から椅子を引く音がした。
「真帆」
振り向くと、晴が通学鞄を肩にかけて立っていた。そのそばでは、バスケ部らしい女子生徒が二人、晴を待っている。
「じゃ、また明日」
一瞬、返事が遅れた。また明日。それに対する返事は、たぶん同じ言葉でいい。
「また明日」
答えると、晴は満足そうに手を振り、友人たちと教室を出ていった。
「すごいね、真帆。三好さんから、もう名前で呼ばれてるじゃん」
気づけば隣に立っていた莉子が、感心したように言う。
「別に、お昼一緒に食べただけだよ」
「それで十分でしょ。三好さんの友達になるのに、面接とかないからね」
莉子が呆れたように笑う。友達になる明確な条件なんてない。だけど決まっていないから、私には難しい。今日は晴と昼食を食べ、卵焼きを交換し、名前で呼ばれた。それでも、自分の名前が晴の声で呼ばれたとき、なぜか違うものに聞こえた。今まで何度も呼ばれてきた、ただの名前。それが一瞬だけ、私の知らない明るい音を持った。
たぶん、晴という名前のせいだ。そういうことにして、私は莉子と並んで校門を出た。
