千里が都での生活を始めてから、それは旬日(十日)目の朝だった。都全体が、早朝から張り詰めた空気に包まれていた。心なしか、聚星坊も珍しく静かだ。いつもの奇声が聞こえてこない。
「本日は、朗月殿下の正式な冊立の儀が宮中で行われます」
懐安が朝食の席で告げた。主に千里のために、即席の講義が開かれている。
「殿下は宗廟に参拝し、天壇にて天龍に誓いを立て、陛下より太子の印璽と冠を受けられます。これをもって、正式に皇太子となられるのです」
「それって、見られんの?」
「宮中の儀式ですから、民が目にすることはできません」
「なーんだ」
千里は箸を止め、窓の外に目を向けた。宮城の方角に、屋根が連なっている。あの向こうで、これから、朗月が本当に皇太子――未来の皇帝――に、なろうとしている。
「!」
足の裏に、微かな震えが伝わった。地中を走る龍脈が、ひときわ大きく波打ったような感覚だった。
懐の奥で、玉佩が熱を灯す。何かが、始まる。
「朗月……」
気がついたら、千里は聚星坊を飛び出していた。
「千里、どこへ行くのです!」
遠ざかる懐安と食堂のざわめきを背中に浴びながら、千里は門を抜けた。
裏路地を抜け、市場の脇をすり抜け、祝いの飾りを潜り、荷車の間を縫って大通りを横切る。都の東端を過ぎると家並みが途切れ、雑草の生い茂る坂道に変わる。
人の足が遠のいた先に、その丘はあった。石段を一段飛ばしで駆け上がり、最後の斜面を這うように登りきった時には、喉の奥が焼けるように熱かった。両手を膝につき、肩で息をする。
「なまっちまったかなー」
都にきてから座学ばかりの日々だ。
顔を上げると、眼下に都の全景が広がっていた。朝靄の彼方に、宮城が見える。幾重にも連なる楼閣の屋根が、連峰のようだ。
「見えるわけ、ないけどさ……」
千里は草の上に座り込んだ。間も無く朝靄が薄れ、陽が東の山際を離れた。屋根の影が西へ伸び、縮む。大路を行き交う豆粒の人影が蠢く様子を眺めていると、急に、空気が震えた。
「!?」
腹の底を揺さぶる鐘の音が、宮城の方角から響いた。千里は立ち上がる。
一つ、二つ、三つ――鐘は鳴り止まなかった。都中の寺院がそれに応えるように次々と鐘を鳴らし始め、重奏が都の空気を埋め尽くしていく。慶賀の鐘、天龍への報せ。冊立が成ったのだ。
その瞬間、千里の目は捉えた。地の底から、光が走った。都の地下を縦横に巡る龍脈が、一斉に脈動する。千里の足元から宮城へ向かって伸びる太い幹脈が青白い輝きを増し、眩いほどに明滅していた。光は枝脈から枝脈へと伝わり、都全体の龍脈がぶつかり合って波打つ。宮城の奥で、青い光の線が跳ねた。
一本、二本、三本――七本。光の筋が幾重にも空へ躍り上がり、交差し、絡み合い、弾ける。龍たちが宮城の上空で鐘の音に合わせ、舞い踊っている。
「龍が喜んでる!」
千里は蒼天を仰いだ。瑞華の龍達が、朗月を祝っている。
鐘の音に呼ばれたように、あちこちから人の歓声が上がった。灯籠に一斉に火が灯り、爆竹の音が弾ける。眼下の大通りで人々が走り回り、手を叩き合い、笑っている。皆が、朗月を祝っている。
「朗月……」
丘の上まで流れてくる祝いの音と匂いと、青い光の残照が、千里に軽い酔いをもたらした。
千里は丘を降り、祝いに沸く都の中を歩き回った。大通りでは辻々でまだ爆竹が鳴っていて、物売りが祝いの餅や飴を声を張り上げて商っている。茶楼の軒先で碁盤を囲みながら口々に瑞華の未来を語り合う人や、橋の上では楽師たちが即興の祝い曲を奏でている光景。
どこを向いても人、人、人。都がまるごと祭りのようだった。
でも誰も、本当の朗月を知らない。泥の中で笑った顔も、震える手で金冊を受けた姿も、民のための皇帝になると誓った決意も、何も知らない。
人々が朗月の噂をする様子が嬉しかったり、腹立たしかったり。不思議な気持ちに胸を高ならせながら、千里は広い都の隅々を彷徨った。
いつの間にか陽が落ちていた。通りの灯籠に明かりが点き、人々の顔が橙色に染まっている。門限はとうに、過ぎていた。
*
聚星坊の門は、閉まっていなかった。千里は懐安の叱責を覚悟して、まだ明かりがついている食堂の戸を恐る恐る開けた。片隅の卓に、懐安が座っていた。卓の上に茶碗が一つ。湯気はもう立っていない。
千里の前の席に、夕餉の膳が一人分、蓋をされて置いてあった。懐安は千里を一瞥したが、ただ茶碗に口をつけ、静かに啜った。
「毒見は必要ないでしょう。安心してお食べなさい」
千里は一瞬きょとんとして、それから、小さく笑った。途端、腹が鳴る。蓋を取ると、まだ温もりの残る汁物と、麦飯と、青菜の炒め物が並んでいた。しばらく、勢いよく箸が碗に当たる音だけが響く。
「丘まで、鐘が聞こえた」
千里が、飯を頬張りながら呟いた。今日は懐安から「口につめこみすぎない!」との注意は飛んでこなかった。
「そうですか」
懐安の声は平坦だった。
「みんな、朗月のことを祝ってた!」
興奮が醒めきれない様子の千里を見て、懐安は茶碗を卓に置いた。老爺の瞳が、遠くの光を映している。
「……朗月殿下は、幼い頃から、その優しさ故に、お辛い思いをされてきたお方です」
千里の箸も、止まった。
「御兄弟の中で唯一、龍のお印をお持ちでなかった。宮中どころか都中で、国中で、陰で何と囁かれていたか。それでも殿下は一度として、他者を恨むお言葉を口にされなかった」
懐安は茶碗の縁を指先で辿りながら、続けた。
「あの御方は、静かに耐えることを幼くして覚えてしまわれた。それが良いことかどうか。ですが」
茶碗に落とされていた老爺の視線が静かに上がり、千里の顔を捉えた。
「あなたをはじめ、聚星坊の皆が、あのように殿下のなされてきたことを正しく評価し、心から慕ってくださっている……。私にとって、これほど嬉しく、報われる思いのすることはございません」
言葉の端に滲んだ震えを誤魔化すように、懐安はこほんと咳払いを一つした。すっと背筋を正し、いつもの隙のない「礼儀作法説教じいさん(千里・談)」な管理人の顔に戻る。
「早くお休みなさい。明日は鹵簿です。見たいでしょう」
「ロバ?」
「ろぼ、です。皇太子殿下が東宮にお入りになる際の御行列が大路を通るのです。殿下がお通りになる様子が、ご覧になれるかもしれません」
「見に行っていいのか!?」
「遠く離れた丘の上からなら、誰にも咎められませんでしょう。ただし、御顔を見ることは叶いませんよ」
懐安はそれだけ言って、千里の前の膳に目を落とした。
「冷めないうちにお食べなさい。残すことは許しません」
「うん!」
千里は慌てて箸を取り直し、汁物をかき込んだ。青菜を頬張り、麦飯を口に押し込む。懐安は新しい茶を淹れて、千里の前に置く。飯が詰まった紅い頬が懸命に動く様子を、老爺は静かに見守り続けた。
*
翌日。千里は早朝から、丘の頂上にいた。大路の沿道に、蟻のように民衆が詰めかけていくのが見える。皇太子の鹵簿――東宮入りの行列が、民の前を通る日なのだ。
風に乗って鼓と笛の音が届いた。大路の北の端から、色彩の帯が現れた。赤と金の大旗が何十本も翻り、楽隊が連なり、儀仗兵の槍の穂先が銀の粒のように光る。翔鸞衛の騎馬が続き、文官、武官、宦官、侍女たちが、果てしなく長い列を成していた。
大路を占拠する文武百官の大行列は、一匹の巨大な龍のようだった。色鮮やかな鱗を光らせながら、大路をゆっくりと這い進んでいく。
龍の腹の中心を、豪奢な金輅が進んでいた。四方に垂らされた細かな編み目の御簾と、春霞のような薄絹の帳が風に揺れている。
「朗月か……?」
あの中に朗月がいる。どれほど目を凝らしても、織糸も重厚な絹が冷酷な壁となって、朗月の姿を遮断していた。
「朗月!」
千里は斜面の草を踏みしめ、ぐっと前のめりに身を乗り出した。
その刹那だった。大路に、青い龍気が大きな渦を巻き始めた。
瑞龍湖で見た時と同じ、いや、それ以上の凄まじい光だ。蒼煌の光帯が金輅を中心に螺旋を描き、大地の底を走る龍脈と共鳴する。地下が巨大な鼓動を打ち光の奔流となって、主の通る新たな道を導き始めた。
圧倒的な光の波が龍脈を伝い、丘上に立つ千里の足元から一気に駆け上る。肉眼では見えないはずの光景が、色彩と音を伴って千里の脳裏へ流れ込んできた。
「!?」
薄絹の向こう側に座す、金糸で四爪の蟒紋を織り込んだ深紅の礼服。頭上の冕冠から垂れ、微かな音を立てて揺れる九筋の旒(玉簾)。
膝の上で印を結ぶように重ねられている手は、かつて、千里の泥だらけの手を握ってくれたものだ。人夫たちと一緒に汗をかいて石を運んだ腕は、今は幾重もの重厚な絹の袖に覆われている。
一筋の乱れもなく結い上げられ、冠の下に収められている髪。村では無造作に結ばれて、馬の尾のように揺れていた。千里が悪戯をして引っ張ると、朗月は笑って怒ったものだ。今はあの髪の一本にすら、触れることが叶わない。
真っ直ぐ前だけを見据えた横顔は、白い玉を彫り上げたように整い、そしてひどく精悍だった。飯場で千里の頭を撫でながら笑ったやわい目元の皺も、軽口に吹き出して崩れた口元も、今は重々しい覚悟に塗り固められている。
沿道では民衆が額ずいている。誰も、目の前の圧倒的な龍の祝福を見ていない。見えない。千里にだけ見える、特別なもの。
行列は大路を南へ進み、やがて宮城の壁に沿って東宮の門へ向かった。翔鸞衛の騎馬が門の左右に展開し、儀仗兵が道を開く。金輅が、ゆっくりと門に近づいていく。一歩、また一歩。重厚な車輪が軋むたび、灰白色の門壁が巨大な口を開けて待ち構える。
千里は瞬きすら惜しんだ。朗月の横顔を、光の帯に包まれた輪郭を、一つ残らず頭へ具に焼き付ける。
金輅が、門の敷居を越えた瞬間――朗月の顔が、動いた。ほんの僅か。玉簾の向こうで、横顔がこちらへ傾いだ。揺れる薄絹の帳が、門の深い暗がりに呑まれていく。視界から金輅の影が消え、同時に、龍脈を伝っていた光の像がふっと途切れた。
「朗月……!」
気づけば千里は駆け出していた。丘の斜面を二歩、三歩、宮城に向かって。体が前のめりに傾き、転げ落ちかけて、足を踏ん張って思いとどまる。身を乗り出して、千里は食い入るように門の方角を見つめ続けた。
東宮の門が、ゆっくりと閉じていく。鉄と石の分厚い二枚の巨大な扉が、左右から押し寄せるように近づき、壁となる。行列の色彩が宮城の壁の内側に飲み込まれ、楽の音が途絶え、旗が消える。
やがて解蹕の命が下り、大路には叩頭を解いた民衆のさざめきだけが残った。きっと誰もが、新たな皇太子の噂をしているだろう。
「ご立派ではないか」
と讃える声もあれば、
「負け犬皇子であろう」
と裏で顰めた声もあるだろう。
「……ふぅ……」
千里は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。眼下に伸びる灰白色の城壁が、どこまでも高く、厚く、都の中心を囲んでいる。壁の向こうに、朗月は確かにいる。膨大な儀礼と規律で作られた囲いの向こうに。
「起居の全てに宮中の規範が適用される」とは懐安の説明によれば――朝は何刻に起き、何を着て、何を食べ、何を学び、誰に会うのか、いつ就寝するのか。一挙手一投足の全てが決められ、全てが監視される世界だという。
面会には明確な理由と、複雑な手続きと、許可が要る。それでも会える者は一握り。千里が朗月に会いに行くには、どれだけの距離を越えなければならないのか。
学がなければ話を聞いてももらえない。官位がなければ、宮中に足を踏み入れることが叶わない。それどころか礼儀がなっていなければ、首が飛ぶかもしれない。
千里は懐からそっと、羊脂玉の玉佩を取り出した。白い石に、行列で見た朗月の白い頬が重なった。
掌の上の玉佩を見つめたまま、しばし千里は不動だった。不意に、背中を突き飛ばされた。
「うわっ――!」
丘の背後から吹きつけた烈風が、千里の体を宮城の方角へ押し出す。たたらを踏み、咄嗟に傍らの枝に掴まって体を支えた。髪と衣の裾が旗のように激しくはためく。青白い光の粒が風に乗って千里の横を駆け抜け、丘を越え、都の屋根を飛び越えて、宮城の方角へ真っ直ぐに翔んでいった。
「龍気が……」
まるで千里の背中を押して、「行け」と言わんばかりに。
風が止んだ。
青い光の尾が、宮城の上空で溶けるように消える。
千里は枝を掴んだまま、呆然とその軌跡を目で追っていた。
「――やってやる」
千里は目の縁に残っていた湿り気を袖の裏で一度だけ乱暴に拭い、白い玉を握りしめた。
最後に見た村の景色が、頭に流れ込む。出口に立つ渓舟に向けられた言葉が、蘇った。
都には、底知れない化け物たちが集まってくる。瑞華全土から選び抜かれた「一番」だけが、朗月の側へ近づけるのだ。
渓舟はこうも言った。重ねた努力の量が、己と、守りたい誰かを救う盾と矛の強さになる。
勉強する。
聚星坊の皆みたいに、世の中のいろんなことを知りたい。
四方学林に入ったら、絶対に一番になる。どんな神童にも、どんな貴族の子女にも、負けない。太学にも行く。太学でだって、一番になってやる。
礼儀作法も、ちゃんとする。懐安の厳しい作法指導には、すべて意味があるのだ。礼を知らなければ、門の前で追い返される。言葉遣い一つ、指先の動き一つ、座り方一つ。その全てが、いずれ皇帝となる朗月に会うための、最初の階段だ。
渓舟のように、図面を引き、計画書を書けるようになる。
懐安のように、どんな場でも臆さず振る舞えるようになる。
朗月のように、相手を想って、きちんと言葉にできるようになる。
そして。必ず、龍脈の船を造る。朗月のために。
そして朗月はそれを、民のために使うだろう。
千里は玉佩を懐の奥に押し込み、衣の上からぎゅっと掌を当てた。鼓動が玉と重なって、力強く打っている。
――いつか千里の力を、貸しておくれ
――また、会おう
朗月の声が、耳の奥で鳴った。
「うん。絶対だ」
千里は宮城を望み、手を伸ばした。足元で大地が微かに脈打ち、淡い青の光を灯していた。
*
龍脈の子、中天に起つ。
望月丘より龍の祝福を目す。
万里の業、ここに興る。
――『瑞華正史』 巻十 朗月帝本紀 序文より
龍脈の子 完
「本日は、朗月殿下の正式な冊立の儀が宮中で行われます」
懐安が朝食の席で告げた。主に千里のために、即席の講義が開かれている。
「殿下は宗廟に参拝し、天壇にて天龍に誓いを立て、陛下より太子の印璽と冠を受けられます。これをもって、正式に皇太子となられるのです」
「それって、見られんの?」
「宮中の儀式ですから、民が目にすることはできません」
「なーんだ」
千里は箸を止め、窓の外に目を向けた。宮城の方角に、屋根が連なっている。あの向こうで、これから、朗月が本当に皇太子――未来の皇帝――に、なろうとしている。
「!」
足の裏に、微かな震えが伝わった。地中を走る龍脈が、ひときわ大きく波打ったような感覚だった。
懐の奥で、玉佩が熱を灯す。何かが、始まる。
「朗月……」
気がついたら、千里は聚星坊を飛び出していた。
「千里、どこへ行くのです!」
遠ざかる懐安と食堂のざわめきを背中に浴びながら、千里は門を抜けた。
裏路地を抜け、市場の脇をすり抜け、祝いの飾りを潜り、荷車の間を縫って大通りを横切る。都の東端を過ぎると家並みが途切れ、雑草の生い茂る坂道に変わる。
人の足が遠のいた先に、その丘はあった。石段を一段飛ばしで駆け上がり、最後の斜面を這うように登りきった時には、喉の奥が焼けるように熱かった。両手を膝につき、肩で息をする。
「なまっちまったかなー」
都にきてから座学ばかりの日々だ。
顔を上げると、眼下に都の全景が広がっていた。朝靄の彼方に、宮城が見える。幾重にも連なる楼閣の屋根が、連峰のようだ。
「見えるわけ、ないけどさ……」
千里は草の上に座り込んだ。間も無く朝靄が薄れ、陽が東の山際を離れた。屋根の影が西へ伸び、縮む。大路を行き交う豆粒の人影が蠢く様子を眺めていると、急に、空気が震えた。
「!?」
腹の底を揺さぶる鐘の音が、宮城の方角から響いた。千里は立ち上がる。
一つ、二つ、三つ――鐘は鳴り止まなかった。都中の寺院がそれに応えるように次々と鐘を鳴らし始め、重奏が都の空気を埋め尽くしていく。慶賀の鐘、天龍への報せ。冊立が成ったのだ。
その瞬間、千里の目は捉えた。地の底から、光が走った。都の地下を縦横に巡る龍脈が、一斉に脈動する。千里の足元から宮城へ向かって伸びる太い幹脈が青白い輝きを増し、眩いほどに明滅していた。光は枝脈から枝脈へと伝わり、都全体の龍脈がぶつかり合って波打つ。宮城の奥で、青い光の線が跳ねた。
一本、二本、三本――七本。光の筋が幾重にも空へ躍り上がり、交差し、絡み合い、弾ける。龍たちが宮城の上空で鐘の音に合わせ、舞い踊っている。
「龍が喜んでる!」
千里は蒼天を仰いだ。瑞華の龍達が、朗月を祝っている。
鐘の音に呼ばれたように、あちこちから人の歓声が上がった。灯籠に一斉に火が灯り、爆竹の音が弾ける。眼下の大通りで人々が走り回り、手を叩き合い、笑っている。皆が、朗月を祝っている。
「朗月……」
丘の上まで流れてくる祝いの音と匂いと、青い光の残照が、千里に軽い酔いをもたらした。
千里は丘を降り、祝いに沸く都の中を歩き回った。大通りでは辻々でまだ爆竹が鳴っていて、物売りが祝いの餅や飴を声を張り上げて商っている。茶楼の軒先で碁盤を囲みながら口々に瑞華の未来を語り合う人や、橋の上では楽師たちが即興の祝い曲を奏でている光景。
どこを向いても人、人、人。都がまるごと祭りのようだった。
でも誰も、本当の朗月を知らない。泥の中で笑った顔も、震える手で金冊を受けた姿も、民のための皇帝になると誓った決意も、何も知らない。
人々が朗月の噂をする様子が嬉しかったり、腹立たしかったり。不思議な気持ちに胸を高ならせながら、千里は広い都の隅々を彷徨った。
いつの間にか陽が落ちていた。通りの灯籠に明かりが点き、人々の顔が橙色に染まっている。門限はとうに、過ぎていた。
*
聚星坊の門は、閉まっていなかった。千里は懐安の叱責を覚悟して、まだ明かりがついている食堂の戸を恐る恐る開けた。片隅の卓に、懐安が座っていた。卓の上に茶碗が一つ。湯気はもう立っていない。
千里の前の席に、夕餉の膳が一人分、蓋をされて置いてあった。懐安は千里を一瞥したが、ただ茶碗に口をつけ、静かに啜った。
「毒見は必要ないでしょう。安心してお食べなさい」
千里は一瞬きょとんとして、それから、小さく笑った。途端、腹が鳴る。蓋を取ると、まだ温もりの残る汁物と、麦飯と、青菜の炒め物が並んでいた。しばらく、勢いよく箸が碗に当たる音だけが響く。
「丘まで、鐘が聞こえた」
千里が、飯を頬張りながら呟いた。今日は懐安から「口につめこみすぎない!」との注意は飛んでこなかった。
「そうですか」
懐安の声は平坦だった。
「みんな、朗月のことを祝ってた!」
興奮が醒めきれない様子の千里を見て、懐安は茶碗を卓に置いた。老爺の瞳が、遠くの光を映している。
「……朗月殿下は、幼い頃から、その優しさ故に、お辛い思いをされてきたお方です」
千里の箸も、止まった。
「御兄弟の中で唯一、龍のお印をお持ちでなかった。宮中どころか都中で、国中で、陰で何と囁かれていたか。それでも殿下は一度として、他者を恨むお言葉を口にされなかった」
懐安は茶碗の縁を指先で辿りながら、続けた。
「あの御方は、静かに耐えることを幼くして覚えてしまわれた。それが良いことかどうか。ですが」
茶碗に落とされていた老爺の視線が静かに上がり、千里の顔を捉えた。
「あなたをはじめ、聚星坊の皆が、あのように殿下のなされてきたことを正しく評価し、心から慕ってくださっている……。私にとって、これほど嬉しく、報われる思いのすることはございません」
言葉の端に滲んだ震えを誤魔化すように、懐安はこほんと咳払いを一つした。すっと背筋を正し、いつもの隙のない「礼儀作法説教じいさん(千里・談)」な管理人の顔に戻る。
「早くお休みなさい。明日は鹵簿です。見たいでしょう」
「ロバ?」
「ろぼ、です。皇太子殿下が東宮にお入りになる際の御行列が大路を通るのです。殿下がお通りになる様子が、ご覧になれるかもしれません」
「見に行っていいのか!?」
「遠く離れた丘の上からなら、誰にも咎められませんでしょう。ただし、御顔を見ることは叶いませんよ」
懐安はそれだけ言って、千里の前の膳に目を落とした。
「冷めないうちにお食べなさい。残すことは許しません」
「うん!」
千里は慌てて箸を取り直し、汁物をかき込んだ。青菜を頬張り、麦飯を口に押し込む。懐安は新しい茶を淹れて、千里の前に置く。飯が詰まった紅い頬が懸命に動く様子を、老爺は静かに見守り続けた。
*
翌日。千里は早朝から、丘の頂上にいた。大路の沿道に、蟻のように民衆が詰めかけていくのが見える。皇太子の鹵簿――東宮入りの行列が、民の前を通る日なのだ。
風に乗って鼓と笛の音が届いた。大路の北の端から、色彩の帯が現れた。赤と金の大旗が何十本も翻り、楽隊が連なり、儀仗兵の槍の穂先が銀の粒のように光る。翔鸞衛の騎馬が続き、文官、武官、宦官、侍女たちが、果てしなく長い列を成していた。
大路を占拠する文武百官の大行列は、一匹の巨大な龍のようだった。色鮮やかな鱗を光らせながら、大路をゆっくりと這い進んでいく。
龍の腹の中心を、豪奢な金輅が進んでいた。四方に垂らされた細かな編み目の御簾と、春霞のような薄絹の帳が風に揺れている。
「朗月か……?」
あの中に朗月がいる。どれほど目を凝らしても、織糸も重厚な絹が冷酷な壁となって、朗月の姿を遮断していた。
「朗月!」
千里は斜面の草を踏みしめ、ぐっと前のめりに身を乗り出した。
その刹那だった。大路に、青い龍気が大きな渦を巻き始めた。
瑞龍湖で見た時と同じ、いや、それ以上の凄まじい光だ。蒼煌の光帯が金輅を中心に螺旋を描き、大地の底を走る龍脈と共鳴する。地下が巨大な鼓動を打ち光の奔流となって、主の通る新たな道を導き始めた。
圧倒的な光の波が龍脈を伝い、丘上に立つ千里の足元から一気に駆け上る。肉眼では見えないはずの光景が、色彩と音を伴って千里の脳裏へ流れ込んできた。
「!?」
薄絹の向こう側に座す、金糸で四爪の蟒紋を織り込んだ深紅の礼服。頭上の冕冠から垂れ、微かな音を立てて揺れる九筋の旒(玉簾)。
膝の上で印を結ぶように重ねられている手は、かつて、千里の泥だらけの手を握ってくれたものだ。人夫たちと一緒に汗をかいて石を運んだ腕は、今は幾重もの重厚な絹の袖に覆われている。
一筋の乱れもなく結い上げられ、冠の下に収められている髪。村では無造作に結ばれて、馬の尾のように揺れていた。千里が悪戯をして引っ張ると、朗月は笑って怒ったものだ。今はあの髪の一本にすら、触れることが叶わない。
真っ直ぐ前だけを見据えた横顔は、白い玉を彫り上げたように整い、そしてひどく精悍だった。飯場で千里の頭を撫でながら笑ったやわい目元の皺も、軽口に吹き出して崩れた口元も、今は重々しい覚悟に塗り固められている。
沿道では民衆が額ずいている。誰も、目の前の圧倒的な龍の祝福を見ていない。見えない。千里にだけ見える、特別なもの。
行列は大路を南へ進み、やがて宮城の壁に沿って東宮の門へ向かった。翔鸞衛の騎馬が門の左右に展開し、儀仗兵が道を開く。金輅が、ゆっくりと門に近づいていく。一歩、また一歩。重厚な車輪が軋むたび、灰白色の門壁が巨大な口を開けて待ち構える。
千里は瞬きすら惜しんだ。朗月の横顔を、光の帯に包まれた輪郭を、一つ残らず頭へ具に焼き付ける。
金輅が、門の敷居を越えた瞬間――朗月の顔が、動いた。ほんの僅か。玉簾の向こうで、横顔がこちらへ傾いだ。揺れる薄絹の帳が、門の深い暗がりに呑まれていく。視界から金輅の影が消え、同時に、龍脈を伝っていた光の像がふっと途切れた。
「朗月……!」
気づけば千里は駆け出していた。丘の斜面を二歩、三歩、宮城に向かって。体が前のめりに傾き、転げ落ちかけて、足を踏ん張って思いとどまる。身を乗り出して、千里は食い入るように門の方角を見つめ続けた。
東宮の門が、ゆっくりと閉じていく。鉄と石の分厚い二枚の巨大な扉が、左右から押し寄せるように近づき、壁となる。行列の色彩が宮城の壁の内側に飲み込まれ、楽の音が途絶え、旗が消える。
やがて解蹕の命が下り、大路には叩頭を解いた民衆のさざめきだけが残った。きっと誰もが、新たな皇太子の噂をしているだろう。
「ご立派ではないか」
と讃える声もあれば、
「負け犬皇子であろう」
と裏で顰めた声もあるだろう。
「……ふぅ……」
千里は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。眼下に伸びる灰白色の城壁が、どこまでも高く、厚く、都の中心を囲んでいる。壁の向こうに、朗月は確かにいる。膨大な儀礼と規律で作られた囲いの向こうに。
「起居の全てに宮中の規範が適用される」とは懐安の説明によれば――朝は何刻に起き、何を着て、何を食べ、何を学び、誰に会うのか、いつ就寝するのか。一挙手一投足の全てが決められ、全てが監視される世界だという。
面会には明確な理由と、複雑な手続きと、許可が要る。それでも会える者は一握り。千里が朗月に会いに行くには、どれだけの距離を越えなければならないのか。
学がなければ話を聞いてももらえない。官位がなければ、宮中に足を踏み入れることが叶わない。それどころか礼儀がなっていなければ、首が飛ぶかもしれない。
千里は懐からそっと、羊脂玉の玉佩を取り出した。白い石に、行列で見た朗月の白い頬が重なった。
掌の上の玉佩を見つめたまま、しばし千里は不動だった。不意に、背中を突き飛ばされた。
「うわっ――!」
丘の背後から吹きつけた烈風が、千里の体を宮城の方角へ押し出す。たたらを踏み、咄嗟に傍らの枝に掴まって体を支えた。髪と衣の裾が旗のように激しくはためく。青白い光の粒が風に乗って千里の横を駆け抜け、丘を越え、都の屋根を飛び越えて、宮城の方角へ真っ直ぐに翔んでいった。
「龍気が……」
まるで千里の背中を押して、「行け」と言わんばかりに。
風が止んだ。
青い光の尾が、宮城の上空で溶けるように消える。
千里は枝を掴んだまま、呆然とその軌跡を目で追っていた。
「――やってやる」
千里は目の縁に残っていた湿り気を袖の裏で一度だけ乱暴に拭い、白い玉を握りしめた。
最後に見た村の景色が、頭に流れ込む。出口に立つ渓舟に向けられた言葉が、蘇った。
都には、底知れない化け物たちが集まってくる。瑞華全土から選び抜かれた「一番」だけが、朗月の側へ近づけるのだ。
渓舟はこうも言った。重ねた努力の量が、己と、守りたい誰かを救う盾と矛の強さになる。
勉強する。
聚星坊の皆みたいに、世の中のいろんなことを知りたい。
四方学林に入ったら、絶対に一番になる。どんな神童にも、どんな貴族の子女にも、負けない。太学にも行く。太学でだって、一番になってやる。
礼儀作法も、ちゃんとする。懐安の厳しい作法指導には、すべて意味があるのだ。礼を知らなければ、門の前で追い返される。言葉遣い一つ、指先の動き一つ、座り方一つ。その全てが、いずれ皇帝となる朗月に会うための、最初の階段だ。
渓舟のように、図面を引き、計画書を書けるようになる。
懐安のように、どんな場でも臆さず振る舞えるようになる。
朗月のように、相手を想って、きちんと言葉にできるようになる。
そして。必ず、龍脈の船を造る。朗月のために。
そして朗月はそれを、民のために使うだろう。
千里は玉佩を懐の奥に押し込み、衣の上からぎゅっと掌を当てた。鼓動が玉と重なって、力強く打っている。
――いつか千里の力を、貸しておくれ
――また、会おう
朗月の声が、耳の奥で鳴った。
「うん。絶対だ」
千里は宮城を望み、手を伸ばした。足元で大地が微かに脈打ち、淡い青の光を灯していた。
*
龍脈の子、中天に起つ。
望月丘より龍の祝福を目す。
万里の業、ここに興る。
――『瑞華正史』 巻十 朗月帝本紀 序文より
龍脈の子 完

