峻険な山道を越えると、景色が一変する。それまでの細い街道が嘘のように、幅の広い石畳の大路が真っ直ぐに南へ伸びている。路傍には等間隔に柳が植えられ、行き交う人と荷馬車の列が途切れることがない。
その先に――
「……やっぱりでっけぇ」
千里の口から、ただそれだけが零れた。
都の北門は、それだけで青林村や黒田郷にあるどの建物よりも巨大だ。灰白色の城壁が左右に果てしなく延び、門楼は三層に積み重なって、人馬の列を蟻のように飲み込んでいく。
馬車が門に近づくにつれて、音も変わった。人の声、荷車の軋み、商人の呼び声、驢馬の嘶き、金物を打つ槌音。幾百もの音が重なり合い、押し寄せる。
門を潜ってすぐ、馬車は絢爛な大通りを避けて城壁沿いの裏路へ逸れ、高い塀に囲まれた一角に入る。駅亭だった。石畳の広場に、二台の馬車が並んで待っている。
「ここでお乗り換えをしていただきます」
燎駿に促され、朗月と千里は馬車を降ろされた。
「殿下はこちらの車に。千里少年はあちらに」
千里が目を瞬いた。
「なんで別なんだよ!」
燎駿は答えなかった代わりに、朗月を見た。
「燎駿。少し、時間をもらう」
朗月が口を開いた。
「白葉、紅英、蒼嶽、ここへ」
「はっ!」
最後尾からようやく追いついた三人は、急ぎ馬を降りる。付近の翔鸞衛たちが行く手を阻もうと、柄に手をかけ――
「控えよ」
凛とした声に足を止めた。
「朗月……?」
千里は目を丸くした。鋭く翔鸞衛を射抜いた眼差しは、これまで見たことがなかった。
「彼らは私の友である」
「殿下……」
真王の気迫を前に、屈強な近衛たちが三人へ道を空けた。
進み出て膝を折る三人の前に立ち、朗月はうって変わって柔らかく、目元を和ませた。
「白葉、紅英、蒼嶽」
一人ずつ見渡し、名を噛みしめるように呼んだ。
「都を出てからここまで――何も持たぬ私の傍にいてくれた。深く、感謝している」
「もったいないお言葉にございます……!」
白葉が目を伏せた。紅英が唇を噛んだ。蒼嶽は微動だにしなかったが、太い喉が一度だけ上下した。
「あとは、頼んだ」
「――は!」
別れの言葉は短い。朗月にも、三人にも、悲しみの色はなかった。立ち上がり、三人はぽかんとする千里の前へ。
「ボク、またね!」
紅英の両手が千里の頬を挟んだ。
「ぷきゅぅ〜〜!」
頬をむぎゅむぎゅと潰される千里の頭を、白葉と蒼嶽が一撫でしていく。
ひとしきり千里を揉みくちゃにした後、三人は燎駿へと向き直った。
「燎駿」
紅英が呼んだ。かつてそうしていたように。
「何があろうと、殿下の味方であってくれ」
「……」
燎駿の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。何か返そうと唇が動きかけた、その前に。
「では、我々はこれにて」
拱手し、三人は同時に背を向けた。馬を連れて駅亭の門を抜ける。
三人の友が裏路地の角へと消えたのを見届けてから、朗月は千里へ向き直った。
「千里」
朗月の貌は、覚悟の色に塗られていた。千里の前に膝をつき、朗月の手が千里の手を取る。
顔が近づいたかと思えば、額が、こつん、触れた。
「ろうげ、つ……っ?!」
近すぎる距離に、千里の息が止まる。朗月の睫毛の一本一本まで見えた。
「?」
袖に隠れて重なった掌の中で、朗月の指が動いた。何か小さく硬いものが、千里の手に押し込まれる。
「持っておいき。内緒だよ」
朗月の唇が、吐息のように囁いた。千里は反射的に、指を閉じた。
朗月は千里の手を包んだまま、額を離した。至近距離から、真っ直ぐに、千里の瞳を見つめる。
「千里。私は必ず、民のための皇帝になる」
その声にはもう、金冊を受けた時の震えはなかった。千里の視界の端で、待機していた燎駿ら武官たちが息を呑んだ。
「黒田郷のような景色を、瑞華の隅々にまで広げたいのだ。だから――」
朗月の瞳に、蒼光が宿る。
「いつか千里の力を、貸しておくれ」
「!」
千里は言葉を詰まらせた。胸がいっぱいになって、とにかく首をぶんぶんと縦に振る。何度も、何度も、全身で頷いた。
朗月の手が離れ、ゆっくりと立ち上がる。
「また会おう。千里」
約束を残して、朗月は己の馬車へと歩を進めた。凛と伸ばした背中は、振り返らない。馬車の扉が閉じ、御簾が下げられ、馬車は燎駿の先導で駅亭を滑り出ていった。
「朗月……」
馬車が角を曲がり、石壁の向こうに消えていく。車輪の音が遠ざかり、最後には風の音だけが残った。
「千里少年。こちらへ」
「う、うん」
残った翔鸞衛に促され、千里は自分の馬車に乗り込んだ。薄暗い車内で、一人きりになる。
馬車が揺れ始めてから、千里はそっと右手を開いた。掌の中に、玉佩(根付のような装飾具)があった。白く滑らかな石に、月を抱く龍の紋章が精緻に刻まれている。小さいが、ずしりと重い。
千里はすぐに拳を閉じた。これはきっと、誰にも見せてはいけないものだ。懐の一番奥に押し込み、衣の上からそっと掌を当てる。
石があたる胸元が、じんわりと温かかった。
*
千里を乗せた馬車は裏道を縫い、やがて城壁の東寄りの一角で止まった。古びた門の前で降り立つ。
「聚星坊」と刻まれた苔むした門を潜ると、四方に建ち並ぶ二階建ての棟に囲まれた中庭に行き着いた。中央には古い槐の大木が一本、枝を広げている。
槐の下では、痩せぎすの男が地面に図形を描きながら独り言を呟いている。棟をつなぐ回廊の一つで、白髪の老人が綴じ本を片手にしきりに行ったり来たりを繰り返している。どこかの部屋からは、若い女の甲高い怒声と何かが割れる音が同時に聞こえた。別の方向からは草と土と何かを煮詰めたような、不思議な匂いが漂ってくる。
「なんだここ」
ただごとではない空気が、建物の隅々に漂っていた。
「千里少年。我々はここまでだ。達者で暮らせ」
翔鸞衛の武官が千里の荷を降ろし、さっさと立ち去ってしまった。ここまで長い旅を共にしたというのに、随分と淡白な別れだ。
「え、ちょっと、え??」
千里は急に心許なくなり、懐に隠した玉佩を衣の上から握りしめ、中庭の隅に立ち尽くした。四方からは口喧嘩じみた議論の声や、不可思議な歌なのか誦経(読経)のような旋律が響いてくる。
「おや、おや」
棟の奥、薄闇の中から、一人の男が姿を現した。痩身に糊の効いた衣の、老紳士。
どこかで見覚えが――
「あ」
千里は、固まった。
「あ、ではございません」
宮中で、朗月に仕えていた老宦官だった。
「毒見の説教じーさん!」
一瞬の間。
「――『元』宦官の徐懐安、今はこの聚星坊の管理を仰せつかっております」
穏やかな目が、千里の頭のてっぺんから爪先までを静かに辿った。
*
聚星坊の回廊を歩きながら、懐安が淡々と説明を続けた。
「四方学林への入学は来春からです。それまでの約半年、あなたはここで暮らしながら、入学に必要な教養と知識を身につけていただきます」
「半年もあるのか」
「半年しか、ありません」
懐安は足を止めず、二階へ続く階段を上がっていく。
「あなたの同級生となるのは、幼い頃から神童と謳われた子たち。素地の差を半年で埋めねばならないのです」
階段を上がりきったところで、若い男が壁に墨で数式を書き殴っていた。振り返ると窓辺では、目が据わった若い女が薬研をものすごい勢いで擂っていた。
「あいつら何……」
「気にしなくてよろしい」
懐安はけろりとした顔で、部屋の鍵を開けた。
「聚星坊は、瑞華各地から都へ学びに来た者たちの下宿です。皆、然るべき筋から推薦を受けた者ばかり。あらゆる天才や鬼才たちの集まりです」
説明している側から、どこかの部屋から甲高い笛の音が鳴り、すぐに別の部屋から「やかましい!」と怒号が飛んだ。
「……」
「あなたもすぐに慣れます」
千里の部屋は、二階の角部屋だった。小さいが清潔な室で、寝台と机と棚がある。
「食事は一階の食堂、朝は卯の刻、夕は酉の刻。門限は戌の刻。破れば閉め出します」
「モンゲン?」
千里にとって初耳の概念だ。
「今日はお休みなさい。明日から忙しくなります」
「な、なぁ、じっちゃん」
戸口へ向かいかけた懐安を、呼び止める。
「徐先生、です」
「徐先生。朗月に……いつ会えるかな」
懐安は振り返らなかった。少しの間があって、穏やかな声が返ってきた。
「殿下は今、とてもお忙しいのです」
それだけだった。扉が静かに閉まった。その日、千里は泥のように眠りに落ちた。
*
翌朝から、懐安の洗礼が始まった。
「箸の持ち方。親指がそこでは粗野に見えます。直しなさい」
朝食の卓で、懐安の指摘が飛ぶ。千里が持ち直すと、今度は碗を持つ手に目が移った。
「碗を鷲掴みにしない。底に指を添えて、こう――違います。やり直し」
食事だけでは終わらなかった。
「目上の者の前で腕を組まない。敷居を踏まない。跨ぎなさい。呼ばれたら『はい』。『うん』は禁止。『なんだよ』は論外。座る時に足を投げ出さない。人前で頭を掻かない」
「文句ばっか!」
「『ご指導』です。改めなさい」
「……ご指導」
「よろしい。で、爪先が外を向いています。真っ直ぐ前に出しなさい」
「むぃ〜〜〜っ!!」
朗月と離れた寂しさに浸る暇もなかった。朝から晩まで懐安の指摘についていくだけで一日が溶け、夜には指先まで疲れ果てて寝台に倒れ込む、その繰り返しだった。
毎日の「ご指導」に千里が疲れ始めていた、ある日の朝。
「千里。お客様ですよ」
「おれに??」
懐安に呼ばれて食堂を出ると、中庭の槐の下に三つの影が立っていた。
「白葉! 紅英! 蒼嶽?!」
千里は履き物を突っかけるのももどかしく、中庭に飛び出した。見慣れぬ都風の衣姿の三人が、並んで手を振っている。
「ボクったら。またちょっと背が伸びた?!」
紅英が身を屈め、例によって千里の頬をむぎゅりと掴んだ。
「ぐきゅ〜〜〜!」
「背じゃなくて顔が伸びてしまうぞ」
白葉が苦笑しながら紅英の手を外してやると、千里は赤くなった頬をさすりつつ、三人を見上げた。
「なんでここにいるんだ!?」
「殿下にガキのお守りを頼まれてな」
白葉は、鼻先で小さく笑う。
「たまにだが、顔を見に来てやるよ」
「……ほんとに?」
千里の目が潤みかけたのを、紅英が見逃さなかった。
「やだぁ、ボク。泣くほど嬉しい?」
「泣いてねぇし!」
千里は袖で乱暴に目元を拭う。
「お庭ではお静かに」
そこへ、四人分の茶を乗せた盆を手に、懐安が戻ってきたのであった。
その先に――
「……やっぱりでっけぇ」
千里の口から、ただそれだけが零れた。
都の北門は、それだけで青林村や黒田郷にあるどの建物よりも巨大だ。灰白色の城壁が左右に果てしなく延び、門楼は三層に積み重なって、人馬の列を蟻のように飲み込んでいく。
馬車が門に近づくにつれて、音も変わった。人の声、荷車の軋み、商人の呼び声、驢馬の嘶き、金物を打つ槌音。幾百もの音が重なり合い、押し寄せる。
門を潜ってすぐ、馬車は絢爛な大通りを避けて城壁沿いの裏路へ逸れ、高い塀に囲まれた一角に入る。駅亭だった。石畳の広場に、二台の馬車が並んで待っている。
「ここでお乗り換えをしていただきます」
燎駿に促され、朗月と千里は馬車を降ろされた。
「殿下はこちらの車に。千里少年はあちらに」
千里が目を瞬いた。
「なんで別なんだよ!」
燎駿は答えなかった代わりに、朗月を見た。
「燎駿。少し、時間をもらう」
朗月が口を開いた。
「白葉、紅英、蒼嶽、ここへ」
「はっ!」
最後尾からようやく追いついた三人は、急ぎ馬を降りる。付近の翔鸞衛たちが行く手を阻もうと、柄に手をかけ――
「控えよ」
凛とした声に足を止めた。
「朗月……?」
千里は目を丸くした。鋭く翔鸞衛を射抜いた眼差しは、これまで見たことがなかった。
「彼らは私の友である」
「殿下……」
真王の気迫を前に、屈強な近衛たちが三人へ道を空けた。
進み出て膝を折る三人の前に立ち、朗月はうって変わって柔らかく、目元を和ませた。
「白葉、紅英、蒼嶽」
一人ずつ見渡し、名を噛みしめるように呼んだ。
「都を出てからここまで――何も持たぬ私の傍にいてくれた。深く、感謝している」
「もったいないお言葉にございます……!」
白葉が目を伏せた。紅英が唇を噛んだ。蒼嶽は微動だにしなかったが、太い喉が一度だけ上下した。
「あとは、頼んだ」
「――は!」
別れの言葉は短い。朗月にも、三人にも、悲しみの色はなかった。立ち上がり、三人はぽかんとする千里の前へ。
「ボク、またね!」
紅英の両手が千里の頬を挟んだ。
「ぷきゅぅ〜〜!」
頬をむぎゅむぎゅと潰される千里の頭を、白葉と蒼嶽が一撫でしていく。
ひとしきり千里を揉みくちゃにした後、三人は燎駿へと向き直った。
「燎駿」
紅英が呼んだ。かつてそうしていたように。
「何があろうと、殿下の味方であってくれ」
「……」
燎駿の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。何か返そうと唇が動きかけた、その前に。
「では、我々はこれにて」
拱手し、三人は同時に背を向けた。馬を連れて駅亭の門を抜ける。
三人の友が裏路地の角へと消えたのを見届けてから、朗月は千里へ向き直った。
「千里」
朗月の貌は、覚悟の色に塗られていた。千里の前に膝をつき、朗月の手が千里の手を取る。
顔が近づいたかと思えば、額が、こつん、触れた。
「ろうげ、つ……っ?!」
近すぎる距離に、千里の息が止まる。朗月の睫毛の一本一本まで見えた。
「?」
袖に隠れて重なった掌の中で、朗月の指が動いた。何か小さく硬いものが、千里の手に押し込まれる。
「持っておいき。内緒だよ」
朗月の唇が、吐息のように囁いた。千里は反射的に、指を閉じた。
朗月は千里の手を包んだまま、額を離した。至近距離から、真っ直ぐに、千里の瞳を見つめる。
「千里。私は必ず、民のための皇帝になる」
その声にはもう、金冊を受けた時の震えはなかった。千里の視界の端で、待機していた燎駿ら武官たちが息を呑んだ。
「黒田郷のような景色を、瑞華の隅々にまで広げたいのだ。だから――」
朗月の瞳に、蒼光が宿る。
「いつか千里の力を、貸しておくれ」
「!」
千里は言葉を詰まらせた。胸がいっぱいになって、とにかく首をぶんぶんと縦に振る。何度も、何度も、全身で頷いた。
朗月の手が離れ、ゆっくりと立ち上がる。
「また会おう。千里」
約束を残して、朗月は己の馬車へと歩を進めた。凛と伸ばした背中は、振り返らない。馬車の扉が閉じ、御簾が下げられ、馬車は燎駿の先導で駅亭を滑り出ていった。
「朗月……」
馬車が角を曲がり、石壁の向こうに消えていく。車輪の音が遠ざかり、最後には風の音だけが残った。
「千里少年。こちらへ」
「う、うん」
残った翔鸞衛に促され、千里は自分の馬車に乗り込んだ。薄暗い車内で、一人きりになる。
馬車が揺れ始めてから、千里はそっと右手を開いた。掌の中に、玉佩(根付のような装飾具)があった。白く滑らかな石に、月を抱く龍の紋章が精緻に刻まれている。小さいが、ずしりと重い。
千里はすぐに拳を閉じた。これはきっと、誰にも見せてはいけないものだ。懐の一番奥に押し込み、衣の上からそっと掌を当てる。
石があたる胸元が、じんわりと温かかった。
*
千里を乗せた馬車は裏道を縫い、やがて城壁の東寄りの一角で止まった。古びた門の前で降り立つ。
「聚星坊」と刻まれた苔むした門を潜ると、四方に建ち並ぶ二階建ての棟に囲まれた中庭に行き着いた。中央には古い槐の大木が一本、枝を広げている。
槐の下では、痩せぎすの男が地面に図形を描きながら独り言を呟いている。棟をつなぐ回廊の一つで、白髪の老人が綴じ本を片手にしきりに行ったり来たりを繰り返している。どこかの部屋からは、若い女の甲高い怒声と何かが割れる音が同時に聞こえた。別の方向からは草と土と何かを煮詰めたような、不思議な匂いが漂ってくる。
「なんだここ」
ただごとではない空気が、建物の隅々に漂っていた。
「千里少年。我々はここまでだ。達者で暮らせ」
翔鸞衛の武官が千里の荷を降ろし、さっさと立ち去ってしまった。ここまで長い旅を共にしたというのに、随分と淡白な別れだ。
「え、ちょっと、え??」
千里は急に心許なくなり、懐に隠した玉佩を衣の上から握りしめ、中庭の隅に立ち尽くした。四方からは口喧嘩じみた議論の声や、不可思議な歌なのか誦経(読経)のような旋律が響いてくる。
「おや、おや」
棟の奥、薄闇の中から、一人の男が姿を現した。痩身に糊の効いた衣の、老紳士。
どこかで見覚えが――
「あ」
千里は、固まった。
「あ、ではございません」
宮中で、朗月に仕えていた老宦官だった。
「毒見の説教じーさん!」
一瞬の間。
「――『元』宦官の徐懐安、今はこの聚星坊の管理を仰せつかっております」
穏やかな目が、千里の頭のてっぺんから爪先までを静かに辿った。
*
聚星坊の回廊を歩きながら、懐安が淡々と説明を続けた。
「四方学林への入学は来春からです。それまでの約半年、あなたはここで暮らしながら、入学に必要な教養と知識を身につけていただきます」
「半年もあるのか」
「半年しか、ありません」
懐安は足を止めず、二階へ続く階段を上がっていく。
「あなたの同級生となるのは、幼い頃から神童と謳われた子たち。素地の差を半年で埋めねばならないのです」
階段を上がりきったところで、若い男が壁に墨で数式を書き殴っていた。振り返ると窓辺では、目が据わった若い女が薬研をものすごい勢いで擂っていた。
「あいつら何……」
「気にしなくてよろしい」
懐安はけろりとした顔で、部屋の鍵を開けた。
「聚星坊は、瑞華各地から都へ学びに来た者たちの下宿です。皆、然るべき筋から推薦を受けた者ばかり。あらゆる天才や鬼才たちの集まりです」
説明している側から、どこかの部屋から甲高い笛の音が鳴り、すぐに別の部屋から「やかましい!」と怒号が飛んだ。
「……」
「あなたもすぐに慣れます」
千里の部屋は、二階の角部屋だった。小さいが清潔な室で、寝台と机と棚がある。
「食事は一階の食堂、朝は卯の刻、夕は酉の刻。門限は戌の刻。破れば閉め出します」
「モンゲン?」
千里にとって初耳の概念だ。
「今日はお休みなさい。明日から忙しくなります」
「な、なぁ、じっちゃん」
戸口へ向かいかけた懐安を、呼び止める。
「徐先生、です」
「徐先生。朗月に……いつ会えるかな」
懐安は振り返らなかった。少しの間があって、穏やかな声が返ってきた。
「殿下は今、とてもお忙しいのです」
それだけだった。扉が静かに閉まった。その日、千里は泥のように眠りに落ちた。
*
翌朝から、懐安の洗礼が始まった。
「箸の持ち方。親指がそこでは粗野に見えます。直しなさい」
朝食の卓で、懐安の指摘が飛ぶ。千里が持ち直すと、今度は碗を持つ手に目が移った。
「碗を鷲掴みにしない。底に指を添えて、こう――違います。やり直し」
食事だけでは終わらなかった。
「目上の者の前で腕を組まない。敷居を踏まない。跨ぎなさい。呼ばれたら『はい』。『うん』は禁止。『なんだよ』は論外。座る時に足を投げ出さない。人前で頭を掻かない」
「文句ばっか!」
「『ご指導』です。改めなさい」
「……ご指導」
「よろしい。で、爪先が外を向いています。真っ直ぐ前に出しなさい」
「むぃ〜〜〜っ!!」
朗月と離れた寂しさに浸る暇もなかった。朝から晩まで懐安の指摘についていくだけで一日が溶け、夜には指先まで疲れ果てて寝台に倒れ込む、その繰り返しだった。
毎日の「ご指導」に千里が疲れ始めていた、ある日の朝。
「千里。お客様ですよ」
「おれに??」
懐安に呼ばれて食堂を出ると、中庭の槐の下に三つの影が立っていた。
「白葉! 紅英! 蒼嶽?!」
千里は履き物を突っかけるのももどかしく、中庭に飛び出した。見慣れぬ都風の衣姿の三人が、並んで手を振っている。
「ボクったら。またちょっと背が伸びた?!」
紅英が身を屈め、例によって千里の頬をむぎゅりと掴んだ。
「ぐきゅ〜〜〜!」
「背じゃなくて顔が伸びてしまうぞ」
白葉が苦笑しながら紅英の手を外してやると、千里は赤くなった頬をさすりつつ、三人を見上げた。
「なんでここにいるんだ!?」
「殿下にガキのお守りを頼まれてな」
白葉は、鼻先で小さく笑う。
「たまにだが、顔を見に来てやるよ」
「……ほんとに?」
千里の目が潤みかけたのを、紅英が見逃さなかった。
「やだぁ、ボク。泣くほど嬉しい?」
「泣いてねぇし!」
千里は袖で乱暴に目元を拭う。
「お庭ではお静かに」
そこへ、四人分の茶を乗せた盆を手に、懐安が戻ってきたのであった。

