龍脈の子

 黒金の旗は、いかなる官位の者であれ道を譲り、膝を折らねばならない存在の証だ。
「馬鹿な! 通達なんぞ来ていなかったぞ!」
「こっちに近づいてる!」
 飯場が弾けた。
「出迎えだ! 掃除しろ! 道を空けろ!」
 人夫たちが蜘蛛の子を散らすように走り出す。村人たちが何事かと家から顔を出し、街道の方を見て目を剥(む)き、慌てて衣服の泥を払い始めた。
 従者三人が朗月の傍に駆け寄る。
「紅英、殿下の御召(おめ)し替(か)えを――」
 朗月の短衣は泥と汗に塗れ、袖は捲(まく)り上げられたまま、髪も乱れている。およそ勅使を迎える姿ではなかった。
「礼服の着替えなんてあるわけないでしょ!」
 珍しく紅英が声を強張らせる。
「それもそうだな」
 対照的に、蒼嶽の抑揚の少ない低い声は、どこか間延びしている。
「仕方がない。このままお迎えしよう」
 朗月は声を落とし、乱れた髪を手で一度だけ梳(す)いた。
「せめて振る舞いは、失礼のないように」
「御顔を」
 白葉が水桶から濡らした手拭いを絞り、朗月へ差し出した。蒼嶽が膝をついて朗月の袴についた泥を手早く叩き落とし、紅英が袖や裾を整える。
「チョクシって、皇帝からの知らせってことだろ?」
 千里が朗月の袖を引いた。最近、塾で習った言葉だ。
「もしかして、朗月様が州侯になられるお達しかしら!?」
 村の女房の甲高い声が、人垣の中から飛んだ。
「きっとそうよ!」
「ほら言わんこっちゃない、秋の収穫祭りの頃だって賭けた俺の勝ちだ!」
 歓喜が次々と伝播し、飯場が沸き立つ。

「……」
 渓舟は、笑わなかった。三人の従者たちも、歓声の中にあって浮かれてはいなかった。
 人々は、急ごしらえの出迎え準備に大わらわだ。街道の泥を掃(は)き、路傍(ろばた)の資材を脇へ寄せ、井戸から水を汲み顔を洗った。作業着の上から一枚でもましな上衣を羽織り、街道の両側に並び始める。子どもたちは物珍しさに目を輝かせて、背伸びをしていた。
 人々が待ち構える道の先、旗を掲げる者たちの後方に、別の意匠――青鸞(せいらん)旗を翻す、揃いの甲冑姿も眩しい武官の一団がいる。
「殿下。禁軍(きんぐん)の翔鸞衛(しょうらんえい)もいます」
 翔鸞衛――瑞華の禁軍最上位の玉麟衛(ぎょくりんえい)に次ぐ、精鋭部隊である。村から見えるのは、二十騎を下らない規模だ。
「もしかして皇子のどなたかが殿下に会いにいらしたのか」
「それなら事前の通達があるだろう」
「伝書鳥の事故かもしれない」
 三人の従者たちのやりとりを、朗月は黙って聞いていた。街道の土煙が、もう目と鼻の先まで迫っている。

 黒地に金糸で龍と華を織り込んだ勅旗(ちょっき)の隊列が、村の入口で止まった。馬蹄の音が途絶え、馬を降りた翔鸞衛の武官たちが、一分の無駄もなく左右に展開して道を開く。
 武官の一人が、隊列の中央の一際大きな馬車の横に立ち、漆塗りの扉を開いた。薄絹の帳(とばり)が揺れ、中から深い紫紺(しこん)の官服が姿を現す。年の頃は五十ほどの男。痩身で背筋が伸び、鋭い眼光が村人たちの頭上を一薙(ひとな)ぎした。
 勅使に続いて若い官吏も一人、馬車の中から現れた。両手に捧げ持たれているのは、黒漆に金泥の龍紋を施した勅匣(ちょっこう)である。
「朗月殿下は、いずこか」
 勅使の声は、抑えた音量でありながら、村の端まで届くほどに通った。
「ここに」
 朗月が一歩、前に出た。泥を拭った跡の残る短衣、束ねただけの髪。勅使を迎えるには余りにも粗末な身なりだったが、朗月はそのまま、背筋を真っ直ぐに伸ばして勅使の前に立った。
 勅使が朗月の姿を見とめた。その目に僅かな驚きが過(よ)ぎったが、すぐに消えた。
「冊(さく)を奉(ほう)ず。跪(ひざまず)かれよ」
 朗月が膝を折った。それに倣い、渓舟が、従者たちが、村人が、人夫たちが、その場にいる全ての者が地に膝をついた。
 千里は朗月の斜め後ろ――従者たちと背後で渓舟と共に、慌てて丸まった。伏せた姿勢から、つい顔を上げて朗月の背中を見つめる。

 秋風が止んだ。鳥の声さえ遠のいた静寂の中、勅使の傍らに控えた官吏が匣(はこ)の蓋を開いた。中から黄金の絹に包まれた何かを取り上げ、絹を解き、広げる。硬いものが擦れる音がした。
 千里は伏せた睫毛の隙間から、そっと目を凝らす。勅使の手の中で光っているのは、薄い金色の板が連なったもの。金で出来た、手紙だ。
「冊して曰(いわ)く」
 乾いた声が、読み上げた。
「『朕(ちん)、瑞華祖法(ずいかそほう)に則(のっと)り、慮(おもんばか)りて定(さだ)む。第七皇子(おうじ)、朗月を皇太子(こうたいし)に冊立(さくりつ)す』」
 朗月の肩が、揺れた。
「――え……」
 伏せていた顔が、思わず上がった。勅使の顔を見上げたその目には、剥き出しの困惑があった。だがすぐ様、自分が何をしたか気づいたように、慌てて視を伏せる。

 村人たちの間で、堰が切れた。
「皇太子って、次の帝……ってこと?」
「わたしらの殿下が!?」
 ざわめきが波のように広がりかけたが、翔鸞衛の武官たちに睨まれて空気が凍る。一斉に再び身を縮めた。
「……殿下が……」
 三人の従者は、顔を伏せたまま動かなかった。紅英、白葉、蒼嶽、誰もが地面に押しつけた拳が、白くなっていた。渓舟は深く、長く、音を殺して息を吐いた。

 千里は、伏せたまま目だけを動かしていた。
「こう、たい、し……?」
 その三文字が、頭の中で転がっている。塾で習った。先生が地図を指し棒で叩きながら教えてくれた、歴代皇帝の系譜。皇帝の息子は皇子。その中で、次の皇帝になると定められた者が――皇太子。皇帝候補の「一番手」、継承の第一位ということも、習った。
 いま勅使は、確かに言った。皇太子。
 朗月が。朗月が、次の皇帝になる?
 一つずつ、積み木を重ねて意味を組み立てていくにつれて、千里の胸がドクリと疼いた。地面につけた膝や掌が冷たい。指先の感覚が薄れていく。背中に汗が滲んで、ひどく冷たかった。

 人々の困惑と混乱を他所(よそ)に、勅使は淡々と続けた。
「『期日までに帝都に参じ、東宮に入るべし』」
 天上人の威を示す荘厳な文句は、ひどく事務的な言葉で締めくくられる。冊立の理由となる徳目(とくもく)も功績も、一切記されていなかった。金冊を閉じる硬く乾いた音が、重い沈黙の中に鳴った。
「……あ、の……」
 朗月の声だった。伏せたままの姿勢の下から、切迫した声が震える。勅使の目が、僅かに見開かれ、翔鸞衛の武官たちの間で空気が揺れた。
「ち、父上や兄上たちに、何か……何かあったのですか……」
 少し間があって、勅使が一歩前に出た。
「冊命である。――拝受されよ」
 発せられたのは、返答以外の一切を拒む、鉄の一言だった。
「っ……」
 朗月の目が、さっと周囲の村人や人夫らを辿り、そして何かを諦めたように、閉じられた。唇から、色が消える。
「つ……謹んで」
 朗月は噛み締めるように、面をゆっくりと伏せた。
「お受け……いたします」
 声がひどく掠れ、震えていた。

「お立ちください、殿下」
 勅使の声に、朗月が再度、顔を上げた。顔色は白を通り越して、青い。
 ふらりと、立ち上がる。いつもなら若竹のように真っ直ぐな背が、今は風に揺れる糸のように頼りなかった。
 勅使が金冊を両手で差し出した。朗月が、震える両手を伸ばす。震える指先に触れた冊を胸の前に抱く。
 重たい。
 朗月は腕に重く冷たい運命を抱え、ぎこちなく深く頭を垂れた。
「殿下の御栄達(ごえいたつ)、誠に慶賀(けいが)に存じます」
 勅使が一歩退き、拳を左手で包んで胸元に掲げ、深く、腰を折る。官吏もその場に両膝をつき、深々と地に伏せた。

「金宝の授与をはじめ、冊立に伴う諸々の典礼は、殿下が帝都に参じられた後、改めて正式の儀を以て執り行われます。此度はやむなく略式にて相済ませますこと、何卒ご容赦のほどを」
「……」
 朗月は、手中の宝物の重さに沈んでいく面持ちで微動だにせず、勅使の事務的な声を聞いていた。
「今後、殿下の御身辺の警護は、翔鸞衛がお務めいたします」
 勅使が右手で示すと隊列の中から、均整の取れた長身の武官が進み出た。功臣図(こうしんず)から抜け出してきたような精悍な面差しに、場数を踏んだ者だけが放つ凄みがある。
「燎駿(りょうしゅん)……っ」
 青ざめていた朗月の顔に、困惑とも懐かしさともつかない色が走る。武官は朗月の前に片膝をつき、拳を左手で包んで頭を垂れた。
「翔鸞衛副将、燎駿(りょうしゅん)。身命を賭(と)して殿下をお守りいたしましょう」
 続いて四名の武官が、燎駿の後ろに並んで同じように片膝をついた。いずれも、一騎当千の気を漂わす。
「燎駿……久しいな……」
 名を呼ばれた武官が、僅かに顔を上げた。
「再び殿下の御前にお仕えできますこと、身に余る光栄に存じます」
 一分の隙もない、完璧な臣下の言葉だった。朗月の唇が微かに動き、何かを返そうとして、やめた。

「燎駿、あいつ……」
 息を詰めていた紅英が、小さく呟く。白葉、蒼嶽は、低い位置で、ちらと視線を交わし合った。
「朗月……」
 荘厳な儀式を前に唾を呑むしかなかった千里は、顔を伏せたまま、そっと目だけを動かした。
 睫毛の隙間から見える光景は、奇妙だった。全ての大人たちが地に伏せている。その中でただ一人、朗月だけが立っていた。

――おれは、おまえが皇帝になれば、民たちみんなが助かるって、思う。

 己の声が、脳裏に浮かぶ。嘘ではなかった。今でも、そう思っている。
 なのに――鼻の奥が痛くて、視界が滲んだ。千里は唇を噛み、地に強く額を押しつけた。