龍脈の子

 北玄道の秋は、足が早い。季秋(きしゅう)(九月)に入ったばかりだというのに、朝の空気はすでに薄い刃のように冷たく、青林村の山々は裾野へ向かって七色に染まり始めていた。
 村の一角に据えられた塾の戸口からは、子どもたちの声が漏れてくる。
「では、問う。太祖(たいそ)が最初に手に入れた国はどこか」
 老教師が不意に指し棒を引き、教室を見渡した。子どもたちは互いに目配せし、誰かが答えるのを待っている。
「はーい!」
 飛び上がる勢いで一本の手がまっすぐに上がった。
「千里か。答えてみなさい」
「西涼。泰初(たいしょ)十二年」
「正しい。その次は」
「南嶺の三郡、泰初十四年。七州がぜんぶ揃ったのは、二十三年」
 写本に目を落とすこともなく、千里は老教師の目を見て答えていた。後ろの席から鈴が「すごいじゃない」と小声で囃(はや)す。老教師も、ゆるりと頷いた。
「ああ、大したものだ千里」
 へへ、と千里は鼻の頭を掻いた。自分の名前すら書けなかった山の子猿が今や、覚えた知識を誰よりも早く使いこなし、写本の誤りを指摘したこともある。

「老師(せんせい)、なんで太祖は国を大きくしようと思ったんだ?」
 千里の質問に、教室が少し静かになった。
「よい問いだ。これにはいくつかの説があるが――」
 老教師は、地図の中央を指で示した。
「見ての通り、瑞華は大陸の真ん中の水辺に咲く、小さな国であった。強国に囲まれ、国土は峻険(しゅんけん)な天然の城壁に守られてはいたが、花が踏み躙(にじ)られるのも時間の問題であったのだ」
 枯れた指が、瑞華を囲む山脈の線をなぞる。
「山に抱かれた瑞華は、水が豊かだ。周りの国々はその水を、喉から手が出るほど欲しがった。太祖が動かずとも、いずれ向こうから攻めてきたであろう。呑まれる前に打って出た、というのが最も広く知られている説である」
「うーむ……」
 千里は渓舟の真似をして腕を組み、眉間に皺(しわ)を寄せた。
 黒田郷では、水が多すぎて困っていたのに。世の中、うまくはまらないものである。
「太祖の志は今も受け継がれておる」
 老教師は地図の横に掛けられた、瑞華の皇族を記した系譜図を指し棒で示した。
「第一皇子、烈雲殿下は太祖の再来と巷で称えられている」
「西の方で起きた反乱を、あっという間に鎮めたって、街の人たち話してたわ」
 鈴が待ってましたとばかりに、身を乗り出した。街で仕入れた噂を披露したくて、仕方がないのだ。
「烈雲殿下はじめ皇子方がそれぞれの場所で、瑞華の未来のために力を尽くしておられる」
 好々爺の瞳が、子どもたちの顔をゆっくりと見渡した。
「だからこそ、お前たちも、よく学び、遊び、家の手伝いも怠るでない。心身、健やかに暮らすことが、国の発展と安寧(あんねい)に繋がるのだからな」
 子どもたちの背筋が、自然と伸びる。老教師が深く頷き、指し棒で教壇を一つ、軽く叩いた。
「今日はここまで」

*

 秋を迎えた黒田郷の景色は、七月(ななつき)前とは別の土地のようだ。湿地を貫く幹線水路が掘り上げられ、泥濘(ぬかるみ)に沈んでいた低地には石積みの堤(つつみ)が築かれ、氾濫の脅威はひとまず遠のいた。
 この秋、排水を終えた一画に拓かれた小さな田から、初めての稲穂が刈り取られたのだ。収穫量は、ほんの僅か。一家が冬を越すにも足りない。それでも、棄て地の泥の底から金色の穂が頭を垂れた時、畦(あぜ)に立っていた老婆が膝から崩れて泣いた。
 刈り取った稲は、その日のうちに飯場で炊かれた。渓舟が「全員に行き渡るように」と釜の番を仕切り、人夫たちが椀を手に列をなす。一人あたりは小ぶりな茶碗一杯分に過ぎなかったが、誰も不満を漏らさなかった。
「うまい!」
 飯場の一角で千里が一口頬張ると、隣に座る朗月もおもむろに箸を口へ運んだ。
「ああ。美味だな」
 紅英は渓舟と一緒に人夫たちへ飯を配り、蒼嶽は茶碗を回収、白葉は茶を淹れて廻る。飯場のあちこちで人夫たちの笑い声が上がり、外ではすっかり肉付きのよくなった子どもたちが走り回り、老人たちが目尻を拭っている。たった一握りの米が、不毛の土を沃野(よくや)へと変える、壮大な復興の嚆矢(こうし)となった。
「殿下」
 声をかけてきたのは、稲を刈った田の持ち主である老夫婦だった。遠慮がちに近づき、二人揃って深く頭を下げる。
「米は、お口に合いましたでしょうか」
 老夫婦の声は震え、日に灼(や)けた顔を強張らせている。
「とても美味であった」
 朗月は明瞭に答えた。
「粒が大きく、噛むほどに甘い。黒田の名が示す通り、この地の土の豊かさを現している」
 老夫婦の目尻に、再び涙が滲んだ。何度も腰を折りながら去っていく丸まった背中を、千里は茶碗を抱えたまま見送った。
「ここまで来れば、あとは回り始めた車輪と同じ」
 釜の番を終えた渓舟が、やってきた。
「おっちゃん、狭いって!」
「ほら、詰めろ詰めろ」
 渓舟は強引に、狭い飯場で千里と朗月の間へ割って入る。
「幹線水路は掘り上がった。堤も据わった。黒田郷は、いつでも助手に引き継げます。そろそろ次の土地で、再開拓計画を立てるのは如何でしょうか」
 渓舟は茶碗を卓に置き、芝居がかった仕草で拱手してみせた。
「その時はぜひ、この渓舟めに治水のご下命を」
 目元だけは、笑っていない。
「そうだな。もちろん、頼りにしている」
「ありがたき幸せにございます」
 朗月の応えに、渓舟は満足そうにようやく笑った。
「おれも、おれも! みんなで地図作りしようぜ!」
 千里は目を輝かせ、足をぶらぶらと揺らす。

 そんな時。飯場の入口に人影が転がり込んできた。
「渓舟さま! 街道の方から、何やら大勢がこちらへ向かってきています!」
 息を切らした若い人夫だった。
「何だと?」
 渓舟が腰を上げた。朗月と千里も続いて飯場の外へ出ると、人夫たちが既に何人か、街道の方を指差してざわめいていた。一本道の遥か向こうに、土煙が見える。
「商いの旅団か?」
 渓舟が目を細めた。
「違うと思うな。馬がいっぱいだ。すげぇ数」
 千里が、大人たちより一歩前に出て、山で鍛えた目を凝らした。
「旗が見えるぞ」
 先頭を行く騎馬の後ろに、長い竿に掲げられた旗が二本、三本と風に靡《なび》いている。
「どんな旗だ、ボウズ」
 集団が近づくにつれて、旗の意匠が明らかになる。
「えっと……龍と花みたいなやつ」
「中央府の紋だ」
 渓舟の声が、低くなった。
 先頭の馬上にいる人物の姿が、ようやく見分けられる距離まで来ていた。深い紫紺の衣に金糸の縁取り、胸元に刺繍で紋章が施されたいでたちは、明らかに地方役人の官服ではない。
「工部や戸部の役人なら、あんな……ボウズ、旗の色、龍の色は見えるか?」
「うーん」
 千里が眉を寄せ、さらに目を細めた。
「旗は黒で、龍は……金ピカだ」
 渓舟の顔色が変わる。飯場の前が、一瞬、水を打ったように静まり返った。
「勅使(ちょくし)!?」
 全員が同時に声をひっくり返した。
 勅使、すなわち皇帝の名代である。