龍脈の子

 龍脈の暴発現場では、細い谷底を澄明(ちょうめい)な水流が穏やかに岩肌を縫い続けていた。
「あれ〜? もっとすごいことになってんのかと思った」
 千里の気が抜けた言葉の通り、谷を埋め尽くすような崩落は見当たらない。岸辺に鎮座していたいくつかの巨岩が、匙(さじ)で掬(すく)い取られたかのように抉(えぐ)れ、砂地に所々に痘痕のように小さな穴が穿(うが)たれて、水面を少しだけ不自然に広げている程度であった。
 だが、ひとたび千里が龍脈視を発動させると、状況は一変する。穏やかな細い流れの真ん中に、ぽっかりと青い光の穴が空いているのだ。噴泉(ふんせん)の如き爆発は起きておらず、距離をとった場所から穴を覗き込めば、密度の高い青の奔流が確認できた。崖の上から谷底の川を覗いているように。
「お前は、近寄んなよ」
 細い手を広げて朗月を制し、千里自身も距離を取った。穴から微(かす)かに漏れ出す龍気が、甘い蜜の香りで誘うかのように、朗月へと手を伸ばしているのが視えたからだ。
 白葉が前に進み出て、瞼(まぶた)を閉じた。
「千里、お前にはどう視えているのだ。私には、妙な圧を肌に感じるのだが……どのような状態なのかまでは視えん」
「でっかい穴が空いてるんだ」
「巨大な龍穴ということか」
 千里の回答に、白葉が納得して頷く。その脇で、渓舟がジャブジャブと川へ足を踏み入れた。
「俺は何ともないけどな」
 無造作に龍穴の上を通り抜け、小さな流れを往復してみせる。
「アタシらも、何ともないねぇ」
「うむ。人を選ぶのだろうか」
 紅英と蒼嶽も真似てみるが、何事も起こらなかった。
「その、私たちを飲み込むほどに大きな龍穴が空いたのは、天変地異なのか、それとも人為的なものなのか」
 朗月から提示された疑問へ、白葉が首を横に振った。
「事変の直後、我らは直ちに周辺を草の根分けて探索いたしました。怪しい人影や、何らかの仕掛けが施された痕跡は見当たりませんでした」
 渓舟が続く。
「後から検分に加わりましたが、火薬や爆薬の類が使われた形跡も皆無でございました」
「では、自然現象ということになるか……」
「水脈も、チョロチョロと湧く大人しいものがあれば、間欠泉のごとく暴れる大物もございます。龍脈も同様なのかもしれません」
「おっちゃん、説明が上手だな」
「うるせぇ」
 渓舟の手が、千里の頭を掻き回す。
「そうだ、朗月」
 渓舟の手から逃れ、千里は朗月の裾にしがみついた。
「ここ、人が近づかないように囲いを作ろうぜ」
「祠を建ててはどうだろうか」
 朗月の指先が、川のほとりの虚空に四角形を描く。
「治水に向けて土地神を鎮めるという名目で、禁足地としてしまった方が安心だ」
「すぐに木工師を手配いたします!」
 紅英が明るく挙手をする。

「おっちゃん」
 再び、千里は渓舟へ向き直った。
「というわけで工事の時は、ここを避けてほしいんだ。舟の『渡し場』になるかもしれねぇから」
「こんなちっこい川にか?」
 渓舟の目には、数歩で越えられる浅い流れしか見えていない。
「川じゃないんだ」
 千里は、宮中で翠蓮にも明かした構想――龍脈の流れに乗り、風よりも速く移動する舟を作りたいと語ってみせた。
「龍脈を渡る舟、だと」
 子どもの夢物語を、誰も笑わなかった。まさに、この場所から流され、遥か彼方の瑞龍湖まで辿り着いた二人が、ここにいるのだから。
 しばしの間、壮大すぎる着想を前に誰もが瞬きを忘れた。頭上の低い岩棚を一匹の小獣が駆け抜け、弾かれた小石が、しんと静まり返った谷底に響いた。
「……面白そうじゃねぇか……」
 乾いた音に続いて、重たい沈黙を破ったのは、渓舟の低い唸り声だった。
「だがな」
 言葉と裏腹に、眼差しからは一切の笑意(しょうい)が消え失せている。
「ボウズ。そいつは、ここだけの話にしておくんだ」
「えぇ?? なんでだよ」
 いちゃもんでも付ける気か。千里は唇を尖(とが)らせかけたが、渓舟の真剣な表情に引っ込めた。
「実現すれば、そいつは世の中の形を引っくり返しちまうシロモノになる」
「何がいけないんだ?」
「その船が、戦の火種を瞬きする間に大陸中に広げちまうってことでもある。敵将の喉元に、一瞬で刃を突きつけられるようにもなるんだからな」
 千里の喉に、かっと火が着いた。
「おれは、戦がしたいんじゃねえよ!」

 まただ。どうしてこの舟が、武器になるというのか。

「便利な道具ってのは、往々にして悪事によってあっという間に広められるもんだ」
「そんな勝手なことさせねえ!」
「そうだ。勝手なことをさせちゃならない」
 癇癪のように頬を赤くする千里の肩に、渓舟が重く、手を置いた。
「そんな大それたもんは、選ばれた人間しか使っちゃならないんだ。だから……この話は、殿下の御前だけにしろよ」
「!」
 千里は雷に打たれたように、首を上げた。
 同じだ。翠蓮が言っていたことと。
 傍を見上げると、当の朗月は少しだけ困ったように目尻を下げていた。

*

 朗月と千里が幽谷州に帰還を果たして以降、棄(す)て地であったはずの黒田郷(こくでんきょう)の復興は、ますます熱気が高まった。
 千里は紅英が手配した陶工たちと共に、工房に籠もる日々を過ごした。手がけていたのは、宮中で作った毒見皿を応用した食器類の製作――毒ではなく、食べ物の傷みや腐敗に反応して色が変わるものだ。
 湿気が濃く、暖かな季節に向かえば食物の傷みが一層早くなる黒田郷において、民や人夫が腹を下すことを予防できれば、疫病蔓延の阻止にもつながる。
 一方、朗月が都で蒔(ま)いた種もまた、着実に芽吹き始めていた。宮中で工部や戸部の役人たちと根気強く折衝(せっしょう)を重ねた「農地復活計画」が、動き出したのである。
 朗月の帰還から間も無く、泥濘(ぬかる)むあぜ道には似つかわしくない、雅(みやび)な官服姿の中央の高官たちが、相次いで視察に訪れるようになっていた。

 この頃、幽谷州の各地で、ある噂が酒の肴になっていた。
「次の州侯さま候補は、若いがとんでもない名君らしい」
 と、あっという間に州の隅々まで広がった。
 噂話は、願望へと変わっていく。いつ、あの皇子が正式に州侯の印綬(いんじゅ)を帯びるのか。気の早い者たちは、その時期を巡る賭けまで始めていた。
 飯場の人夫たちの間では「次の秋の収穫祭までに」が一番人気で、「いやいや夏前だ」と強気に張る者もいる。
 幽谷州の風は、すでに変わり始めていた。