龍脈の子

 龍気を含んだ瑞龍湖の土を用いた「毒見皿」の効力は、瞬く間に知れ渡ることとなり、尚食局の俎上(そじょう)に載せられる運びとなった。数多の議論と検証を経て裁可(さいか)が下りれば、宮中での生産体制が敷かれることになる。

 白葉ら三人の従者が到着してから、三日後。朗月と千里が、再び幽谷州へ戻るための旅支度が整った。宮城の北、玄武門の外には、五頭の馬が鼻息荒く蹄を鳴らして待機している。
 ちなみに千里は朗月と同じ鞍にまたがるので、残る一頭は荷物の運搬用である。
 数ヶ月前、霧に紛れて逃げるように都を後にした時とは、まるで違う光景がそこにあった。門の周囲には、別れを惜しむ多くの人々が集まっている。
 朗月が人垣の中心で、次々と送られる言葉に丁寧に頷いている。そこから少し離れた脇で、翠蓮は千里に向かい、不敵に微笑んでみせた。
「千里様。例の『舟』、首を長くしてお待ちしております」
 湿っぽい別れの言葉はない。二人は「仲間」であり、ある意味での「戦友」になったのだ。千里は鼻を鳴らして胸をドンと叩いた。
「おうよ。完成したら都まで一番に会いに来るぜ」
「でも、私がおばあちゃんになってしまったら、千里様に気づいてもらえませんね」
「もっと早く完成させてやるし!」
 童二人の様子を、陶工たちが揶揄(からか)うように、もしくは微笑ましいものを見るように、見守った。

「で、殿下……」
 ざわめいていた人垣が湖を割るが如く、左右へ開いた。ざわめきが引いた道を、偉丈夫(いじょうぶ)の影が進み出てきた。
「兄上……!」
 朗月が振り返った先に現れたのは、第一皇子、烈雲であった。武人らしく鍛え上げられた肩幅と、感情を削ぎ落とした鋭い眼光。烈雲は驚く弟――朗月の前で足を止めると、厳冬の湖面のような瞳で見下ろした。
「幽谷州の開墾(かいこん)、必ず成し遂げよ」
 短く、重い言葉が投げかけられる。命令なのか、激励なのか。朗月は姿勢を正し、深く拱手した。
「はい、兄上。必ずや、豊穣(ほうじょう)の地として蘇らせてご覧に入れます」
「……」
 弟の殊勝な返答に、烈雲は応えなかった。身じろぎせずに、朗月を正面から見下ろし続けている。
「兄上……?」
 第一皇子の意図が読み取れず、朗月含めて周囲の者たち誰も身動き一つできないまま、兄弟皇子を見守る。
「千里様」
 そんな中、千里の袖がちょいちょいと引かれた。
「見えていらっしゃいますか?」
 翠蓮が、吐息のような声で囁く。
「え」
 千里は瞬きをしたが、すぐに言葉の意味を読み取り、二人の皇子へ龍の眼を発動させた。
「ん……?」
 視界に映ったのは、不可解な光景だった。
 烈雲の全身からは変わらず、燃え盛る炎のような、攻撃的な紅蓮の気が立ち昇っている。
 対して、朗月を包むのは、深く静謐(せいひつ)な蒼い龍気。紗(うすぎぬ)の帯が烈雲へ伸び、血が滲むように紅い気が澱(よど)む首筋を撫(な)で付けている。
(なんだ、あれ……)
 しばらく動かず見つめ合っている二人を、臣下たちは固唾(かたず)を飲んで見守る。永遠にも思える沈黙の後。おもむろに、烈雲の手が上がった。無骨な指先が、朗月の頭部へと伸びる。
「――え、っ」
 鈍い音が響き、後頭部の高い位置で結われている朗月の髪が揺れた。朗月が驚愕に身を強張らせる。白葉ら従者たちが「あ」と声を漏らし、反射的に前へ踏み出しかけて、とどまった。
 烈雲の手の中にあったのは、朗月の髪を留めていた銀環から垂れ下がっていた、一粒の飾り石だ。烈雲は引きちぎった蒼玉(そうぎょく)を、感情の読めない顔で一瞥(いちべつ)した。
「もらっていく」
 それだけを言い捨て、兄は踵を返した。振り返りもせず、大きな歩幅で風のように去っていく背中を、紅い龍気と、ちぎれた蒼い残滓《ざんし》が取り巻いていた。
「殿下、髪留めの珠が……」
 一同が言葉を失くしていた中、最初に動いたのは白葉だった。
「良い。このままで――あ」
 頭上から降り注ぐような視線を感じ、朗月は顔を上げた。宮城の正門を見下ろす高楼の欄干(らんかん)に、煌(きら)びやかで重厚な二つの影――皇帝と皇后の姿があった。
「陛下! 皇后陛下!」
 見送りの人々が一斉に叩頭する。砂利を踏む音さえ消え失せ、あたりは再び水を打ったような静寂に包まれた。父帝と母后は、言葉を発することはなかった。空を渡る一羽の鳥が鋭い鳴き声を上げて蒼天を通り過ぎる。二人はどちらからともなく悠然と身を翻し、御簾(みす)の奥へと姿を消した。
「父上、母上……」
 朗月は、誰もいなくなった高楼を眩しげに見つめ続けた。もしかしたら――父と母はあの霧深い朝にもまた、言葉少なに高楼(こうろう)から不肖の息子を見守っていたのではなかったかと。
「……行こう」
 朗月は短く告げると、待ちかねて小さく嘶(いなな)く馬たちの方へと歩き出した。
 千里は出発の時を悟る。
「じゃ、またな! 翠蓮」
 千里は翠蓮の手をむんずと掴み、ぶんぶんと上下に揺すった。
「はい。またお会いしましょう」
 互いの指先が、きゅっと握られる。
「私たちは、『戦友』ですから」
「うん!」
 千里は力強く頷いた。温かく小さな手をゆっくりと離し、千里は白馬の側で待っている朗月の元へと軽やかに駆けた。

*

 都を出で、旬日と数日。一行は、幽谷州の地へと帰り着いた。借り住まいのある青林村に立ち寄り、長旅の垢と旅塵をすっかり洗い落とした翌日に、黒泥村へと向かう。
 村の入り口には、作業の手を止めた村人たちがずらりと並び、治水の功労者たちの帰還を今や遅しと待ちわびていた。先頭に立ち、泥にまみれた作業着のまま待ち構えていたのは、渓舟(けいしゅう)である。
「お帰りなさいませ、殿下」
 渓舟は深く腰を折り、両手を胸の前で組む拱手の礼をとった。叩頭は朗月に禁じられている。
「いちいち額を地面につけていては仕事にならぬ」
 という厳命により、村では簡略化された挨拶が浸透していた。
「出迎えをありがとう。騒がせてすまなかった」
 朗月は馬を降り、莞爾(かんじ)として頷いて敬意に応える。
「殿下の御身に万一のことがあればと、皆、生きた心地がいたしませんでした」
 渓舟は、泥と汗にまみれた顔をほころばせ、心底からの安堵を滲ませた――ふと視線が、ちょうど馬から飛び降りた千里へと滑った。
「お? おぉ……?」
 渓舟は顎の無精髭を撫でながら、千里の頭のてっぺんから爪先までを、じろじろと眺め回す。
「な、なんだよ」
 千里が身構えると、渓舟はニヤリと片頬を歪めた。
「ちょいと、デカくなったか? 縦にもだが……」
 言いながら、無遠慮に千里の頬を両側から手のひらで挟む。
「横にもな! さては宮中で、美味いもんをたらふく食わせてもらってたな?」
「うっ、うるせぇ! 遊んできたわけじゃないぞ!」
「はいはい。こんなにツヤツヤ、もちもちになっておいて」
 渓舟は伸びてきた千里の抗議の手をさらりと躱し、おぼこい両頬を鷲掴みにした。搗(つ)きたての餅のように、ぐにぐにと揉みしだく。
「ふぎゅうー!!」
 情けない悲鳴に、村人たちの間にどっと笑いが弾けた。朗月もまた、三人の従者たちと顔を見合わせ、袖で口元を隠して笑い合った。
「おれ、あっちですげーもん作ったんだぜ!」
 ようやく硬い手のひらから逃れた千里は、赤くなった頬をさすりながら宮中での武勇伝を語って聞かせた。
 宮中でできた戦友こと翠蓮と共に、毒味皿を作ったこと。広大な宮中を歩き回って龍脈地図を作ったこと。拙い言葉と、大きな身振り手振りで、成果を語る。
「ほう。成長したのは、どうやら身体の肉だけじゃねぇみたいだな」
 渓舟の声はからかい混じりであったが、千里を見据える眼光は少しもふざけていなかった。
「あ、そうだ!」
 思い出し、千里は手を打った。
「龍脈がバクハツした場所……おれたちが流されたところがどうなってるか、見に行きたい」
「おう、そうだな。毒見の皿とやらの話も聞かせろよ」
 渓舟は短く頷き、顎で馬の方をしゃくった。
「うん! それからさ、おれ、すげーこと思いついたから、おっちゃんに聞いて欲しいんだ」
 どこか似たもの同士の二人の「技術者」は、連れ立って馬の方へ歩き出した。