龍脈の子

「――はっ……」
 腹の底に響くような地鳴りが、夢の(から)を破った。

「地揺れ!?」
 少年――千里(せんり)は、身を弾ませて跳ね起きた。

 心臓が早鐘を打っている。
 びっしょりと背中を濡らした寝汗が、急速に冷えていく。
 視界が明滅する。

 また、いつもの夢だ。

 息を整えようとするが、地面の震えが止まらない。
 大地そのものが「痛い」と悲鳴を上げているような嫌な音が、起き抜けの頭に響いてくる。

「……最近、よく揺れるんだよな」

 ひとりごち、のろりと寝台から降りて千里は部屋の隅にある水瓶(みずがめ)へと歩み寄った。柄杓(ひしゃく)ですくった水は、氷のように冷たい。両手で抱えて一気に飲み干すと、ようやく身体の芯に残っていた夢の熱が冷めていく。

 瓶の波紋が静まると、水面に幼い少年の顔が浮かび上がった。
 日焼けとも汚れともつかぬ、浅黒い肌。伸び放題の黒髪は頭の後ろで無造作に結ばれて、頭頂部や前髪が鳥の巣のように跳ねている。

 それでも顔だけは子ども特有の丸い肉がついていて、爛々(らんらん)と光る幼獣のような瞳もともなって、幼く見えた。

 千里はしばらく水鏡の中の自分を(にら)みつけ、乱暴に口元を拭い、室内を見渡した。

 岩穴を利用して作られた粗末な小屋の中、壁には乾燥させた獣の皮や、煎じて薬にするための草の根が無造作に吊るされている。

 床には、変わった形をした石ころや、小動物の骨、泥で描かれた地図のようなものが散らかっていて、足の踏み場もない。

 かつて千里を拾ってくれた老夫婦は、もういない。
 流行り病であっけなく逝ってしまった。
 十歳の千里に残されたのは、粗末な森の小屋と、山で生き抜くための知恵だけ。



 瑞華国(ずいかのくに)北玄道(ほくげんどう)の冬は長い。
 鉛色の空から絶え間なく落ちる雪が、山肌を厚い灰白で塗り固めている。

 千里は寝起きの麻衣の上から、熊の毛皮から作られた分厚い胴着を頭からすっぽりと被った。獣の脂の匂いが染み付いたそれは、死んだじい様が残してくれた唯一の防寒具だ。身の丈に合わず裾を引きずりそうになるが、腰紐をきつく縛れば冷気は入ってこない。

 凍りついた扉を蹴り開け、外へ出る。
 鼻孔を突き刺す鋭い冷気。吐く息が瞬時に白く輝いた。

 膝まで埋まる雪をものともせず、千里は慣れた足取りで斜面を駆け上がる。
 小屋から少し森へ入ったところに、木々が開けた広場があった。

 一面が新雪に覆われている。
 手前で立ち止まり、深く息を吸い込む。
 ぐっと丹田に力を込めた。

――流れが、視える。

 白い雪原が透き通り、その下を走る青白い光の線が浮かび上がった。
 線は、根や葉脈のように複雑に絡み合い、太くなったり細くなったりしながら脈動している。

「……あった」
 無数に走る線の中で、光が一際明るい箇所を見つけた。
 その一点を狙って雪と土を掘り返す。
 顔を出したのは、ひっそりと春を待つフキノトウの芽だ。

「こいつは、刻んで味噌と練る」
 泥を払いながら、千里は誰に聞かせるでもなく呟いた。
 拾ってくれた老婆の、癖でもある。

 フキノトウを焼き石の上で炙って焦がしてやれば、保存食になる。
 苦味が凍えた身体には薬になるのだ。

 喉を鳴らし、摘み取った腰の袋へ放り込む。
 この作業を繰り返せば、獲物の少ない冬でも食いっぱぐれることはない。

 次に、千里は山を少し下った。
 雪上の獣道を見つけ、再び意識を集中する。

 斜面を流れる青く清浄な線の中に、異質な色が混じっていた。
 流れることなく、一箇所に留まる赤黒い点。

「……かかってるな」
 澱みを目指して雪を滑り降りると、灌木(かんぼく)の陰に、罠にかかって事切れた野兎が転がっていた。麓の村の狩人が仕掛けたものだ。千里は躊躇なく罠を外し、まだ温かい獲物を無造作に掴み上げた。

「こら、またお前か!」
 下の方から、怒声が響いた。
 枯れ木の間から、毛皮を着込んだ村の男たちが指差して喚いているのが見える。

「この泥棒猿め!」
「山の恵みは早い者勝ちだ!」
 千里は悪びれもせず言い返すと、獲物を懐にねじ込み、身を翻した。

 麓の連中に、追いつけるはずもない。
 十歳の体躯は、言葉通り木々の間を飛び回る猿のように軽く、あっという間に白い斜面を駆け上がり、その姿を森の奥深くへと消した。

 物心がついた頃から、千里の目には、他人には見えぬ景色が映っていた。
 世界には、無数の「線」が走っている。
 川や、根とも違う、それは薄闇に浮かぶ蛍火のように青白く発光し、うねりながら、ありとあらゆる場所を貫いている。

 分厚い岩盤の下も、凍てつく川の底も、巨木の幹の中も、小屋の下でさえも。
 絡み合い、離れ、また交わりながら、尽きることなく脈動を続けているのだ。

 干し肉の蓄えをもう少し増やしておきたい。
 千里は、さらに深く山を分け入ることにした。
 罠にかかった獲物のおこぼれでもいいし、雪の深さに足を奪われ、峠を越えられずに力尽きた獣の屍肉でも構わない。

 凍てつく急斜面を這い上がり、峠へと向かう途中、立ち止まって目の奥に力を入れる。

 ――ドクン

 視界の奥で、脈打つ音がした。

「……何だ、あれ」
 千里は思わず息を呑んだ。

 峠の中腹あたりに、これまで見たこともない凄まじい光の溜まり場が見えたのだ。
 地中から噴出した青白い光が池を作っているかのように、濃密な輝きが渦巻いている。

 千里は雪を蹴って駆け出した。
 途中、足取りを緩める。

 もし、あの中に冬眠中の熊のような大物が潜んでいたら――?
 恐怖と好奇心に葛藤しながら、千里は足音を殺し、慎重に光の池へと滲り寄る。

 光の中心には、新雪がこんもりと、小さなかまくらのように盛り上がっていた。
 獣の形ではない。

「……人、か!?」
 駆け寄り、雪を払いのけた。
 そこに、男が倒れていた。
 見上げれば、雪崩れたような痕跡が斜面に残っている。
 ずいぶんと高い場所から滑落してきたようだ。

「生きてるか」
 死体なら身包みを剥ぐだけだが、生存者なら厄介だ。

 脈を見る。
 生きている。
 それどころか、あちこちの衣が裂けているものの、目立つ外傷は擦り傷程度だ。
 これだけの高さから落ちて、五体満足なのが信じられない。
 意識はないようだ。

「……ったく」
 大人の男を、小屋まで引きずり上げるのは不可能だ。
 かといって、このまま雪に埋もれさせるのも寝覚めが悪い。

 千里は舌打ちし、青年の襟首を掴むと、どうにか近くの岩場にある風除けの横穴まで引きずっていき、雪のない乾いた地面へと転がした。

「面倒なやつ」
 愚痴で息を整えながら、改めて拾った男を見る。
 若く、端正な顔立ちをしている。

 何より目を引くのはその身なりだ。
 破れてはいるが、見たこともないほど上等な衣に包まれている。

 濡れたような艶を持つ布地は、おそらく絹だ。
 襟元には複雑な模様が光る糸で刺繍されており、その精緻な仕事ぶりは、山育ちの千里でさえも、ただならぬ価値があるものだと理解できた。

「よく生きてるな」
 新雪が被るほど長時間倒れていたのなら、一晩は経過しているはずだ。
 だけど青年の呼吸は穏やかで、肌に触れても死人のような冷たさがない。

「……あの光の、おかげ?」
 千里は眉をひそめ、再び「視」た。

 岩場に横たわる青年の身体に、光が集まっていた。
 正確には、青白い線が慈しむように手を伸ばし、青年の四肢や胴へと柔らかく絡みついているのだ。青年を凍えさせまいと守り、温めているかのように。

「山神様が、守ってくれてるのか」
 千里は、懐から火打ち石を取り出した。
 手早く枯れ枝を集めて火を熾し、暖を取らせる。
 腰に下げていた竹筒の水筒を焚き火にかざして少し温め、青年の乾いた唇に少しずつ流し込んだ。

「う……」
 微かな呻き声と共に、長い睫毛が震えた。
 ゆっくりと、瞼が開かれる。
 露わになった瞳が、揺れる焚き火の炎と、覗き込む薄汚れた少年――千里を捉えた。

 これが、後に帝国の新たな時代の礎を築くことになる二人の、運命の邂逅(かいこう)であった。