龍脈の子

「千里様、どちらへ?」
「いいからいいから」
 翌朝、冷たい霧がまだ木々の梢に残る刻限。千里は翠蓮の手を引いて宮中を横断する回廊を抜けた。
「この気配……」
 土と木の匂いが強くなると共に、翠蓮の「視」は強い龍気を感知していた。辿り着いたのは、宮殿の裏手、山裾にある工房だ。土と炎に燻(いぶ)された太い梁(はり)が組まれた高い天井の下には、宮中で用いられるあらゆる調度が並んでいる。皇帝が腰掛ける椅子から、下働きが使う水瓶、繊細な細工の小箱に至るまで。宮中の「生活」を支える品の多くが生み出され、あるいは修繕される場所だ。
 鉋(かんな)の音が心地よく響く区画を抜け、土の匂いが色濃くなる奥へ進むと、ろくろが並ぶ区画が現れた。
「いた、おーい」
 千里が呼びかけるその一角に、外套(がいとう)を羽織った朗月の姿があった。土に塗(まみ)れた古参の陶工と、何やら親しげに言葉を交わしている。周囲の職人たちも、皇子の来訪に動じる風はなく、手を止めることなく淡々と土を練り続けている。
「ろ、朗月殿下……!」
 千里の手が離れるや否や、翠蓮はすかさず土間に膝をつこうとした。
「今日は、そのような堅苦しい挨拶は無しだ。翠蓮」
「しかし……」
 おずおずと顔を上げた翠蓮に、朗月が柔らかく微笑みかける。
「女官長には、私から正式に書状を送った。千里の『助手』として、君をしばらく借り受けたい、と」
 皇子の頼み事、加えて第一皇子の毒殺を未遂に防いだ功労も重なれば、いかに厳格な女官長といえども断れるはずがなかった。
「助手、でございますか?」
「そう。私も今日は、この子の『助手』の一人なのだ」
「え??」
 まだ状況が飲み込めず戸惑う翡翠の瞳へ、千里は正面から向かい合った。
「皿を作りたいんだ」
「お皿?」
「うん。毒見に使うやつ。おれたちみたいに、毒の気や色が見える皿だ」
「……」
 翠蓮の唇が、金柑(きんかん)の実のように丸く開いた。
 以前も配膳される直前の料理から感じた異常な龍気に気づき、取り替えるよう進言したことがあった。盲目の下働きの戯言と一蹴され、結果、料理を口にした毒見役は泡を吹いて卒倒してしまった。毒を盛ったと疑われて糾弾されるも、今度は盲目であることが幸いして疑いは晴れた。以来、周囲から「呪いの娘」だのと、気味悪がられてきた。
「そ、そんなことが本当に、可能なのですか」
 翠蓮の声が震えた。千里は、白布の下にある瞳をまっすぐに見つめ返す。
「わかんねぇけど、やるんだ。一緒にやろうぜ」
「やりたい……!」
 翠蓮は身を乗り出した。
「私の『目』が……命を救うものになるのなら!」
 薄い肩が小刻みに震えるのは、朝霧の寒さだけではないはずだ。
「翠蓮、これを」
「え……」
 突然の重みと温もりが、翠蓮の上半身を包み込む。少女の決意を見守っていた朗月が、自身の外套を羽織らせた。藍鉄(あいてつ)色の羅紗地(らしゃじ)からは伽羅(きゃら)の高貴な薫りとともに朗月の体温が立ち上り、冷え切った少女の肌を優しく抱擁(ほうよう)する。
「あ、あの、殿下……私のような者が、こんな――」
 翠蓮は弾かれたように身を縮こまらせ、慌ててその過分な温もりを肩から外そうとした。そのかじかんだ指先を、朗月の手がそっと制し、小さな肩からずり落ちそうになった外套の襟を、丁寧に直してやる。
「斯様(かよう)な薄着では、風邪をひいてしまう。それに、兄上を救ってくれた礼だ」
「!」
 優しい指先が頬を掠めると、翠蓮の顔が熟れた桃のようにぼっと赤く染まった。
「よし、まずは土探しだ!」
 可憐な乙女心など露ほども感じ取っていない千里は、腕まくりをして元気よく声を張り上げた。

*

「殿下自らのご入御(じゅぎょ)とあらば、止める道理などございませぬ」
 朗月が礼部(れいぶ)の詰め所を訪ねると、白髭(ひげ)を蓄えた高位の神官が、待ち構えていたかのように出迎えた。
「祭主様、しかし……!」
 背後に控えていた若年の神官たちが色めき立った。いかに皇子といえど聖域への立ち入りは安易に許可できるものではなく、皇帝か、さもなくば立太子(りったいし)された正統なる継承者にしか許されていないのが原則である。
「その荒ぶる湖をお鎮めになられたのは、どなたであったか」
 祭主は静かに首を振った。神官たちは口を噤(つぐ)む。誰もが顔を見合わせ、やがて無言のまま深く道を譲った。
「こちらへ」
 白髭の神官に先導され、三人は宮殿の奥深くから長く伸びる回廊を渡った。朱塗りの柱が途切れ、石畳が苔むした自然石へと変わり、視界が開けた先に広がるは、聖域――瑞龍湖(ずいりゅうこ)。 龍気を蓄えた土や砂といえば、この場所である。

「なんて……静か……」
 翠蓮は無意識に吸い込んだままの息を止めた。大気との境界が曖昧なほどに透明度の高い水の清冽(せいれつ)さが、肌に伝わってくる。これが、絶え間ない祈りを必要としていた荒れ湖であったとは。翠蓮には信じ難いほどだった。
「どうだ、感じるか?」
 千里が短く問うと、翠蓮は震える手で胸元を抑え、深く頷いた。
「……はい。分かります。とてつもない……大いなる龍気が、ここに」
 幼い二人の異能の「目」に映るのは、あたたかな白光に満たされた世界だ。正円の湖を抱く峻険な山々から奔る、無数の龍脈が一点に集い、大気を通じて光の慈雨(じう)を辺りに注いでいる。ここは、天龍が初めて降り立った地とも謳われている。
「ここなら、極上の土が手に入るぞ!」
 千里は確信を持って頷く。

 湖底には雪のように白く輝く砂が敷き詰められていた。大陸を成した七柱の龍が身を捩(よじ)り、その身体から剥がれ落ちた鱗が降り注ぎ、億万の時を経て砕け、積もったものと伝えられている。
「どの辺が良いだろうか。今日の私は、ただの助手だからな。仰(おお)せのままに」
 朗月はそう言って、楽しげに手桶と円匙(えんぴ)を顔の高さに掲げてみせる。千里と翠蓮は、思わず吹き出した。
「あっちだ」
「あちらから」
 二人の指先が、示し合わせたように同じ一点を指した。岸から少し離れた浅瀬。水面から顔を出す水草が、そこだけ翡翠(ひすい)を溶かしたように鮮やかに、青々と茂っている。
「よし」
 朗月は裾をたくし上げると、躊躇(ためら)いなくざぶざぶと水の中へ足を踏み入れた。
 千里の目には、湖面から立ち昇る龍気の霧が朗月へ集う様子が映っている。湖が、悦んでいるようだ。巨大な掌(たなごろ)が、まるで我が子の帰還を祝すように、朗月を優しく包もうとしているのだ。

「あぁ……あのように濡れてしまわれて……」
 水遊びに興じる童たちのような三人を、朱塗りの欄干から神官たちが、困惑の声を漏らして見守っている。
 千里が水を蹴立(けた)てても、朗月の円匙が砂を掘り起こしても、翠蓮が水草の隙間に咲く花に触れていても、湖はただ静かに三人がなすがまま、その身を委(ゆだ)ねて凪(な)いでいる。
 つい先日までの荒れ湖としての姿が、幻のようだ。
 もはや誰一人として、祈祷(きとう)や数多(あまた)の貢ぎ物がこの閑(しず)けさをもたらしたなどと、のたまう者はいない。
「……解(げ)せぬのう」
 白髭の神官長が、吐息と共に独りごちた。白い眉毛の影が、深い哀惜(あいせき)の色に沈む瞳を隠している。
「なぜ天龍はあの御方に、祝福(印)をお与えにならなかったのであろうか……」
 風にちぎれた老神官の呟きは、ただ静寂な湖上へと吸い込まれて消えた。

*

 工房に戻った千里は、重たい袋を作業台にどさりと置いた。中から現れたのは、瑞龍湖の底から掬(すく)い上げた、雪のように白く、しっとりと重い極上の粘土だ。
「おっ、こりゃあ……手触りがまるで違う」
 古参の陶工が、指先で土を捻(ひね)りながら目を見張った。千里は作業台に乗り出した。
「龍気をたっぷり吸い込んだ土だ。龍気の力で、効果がでっかくなるんだ」
「ん?」
 首を捻った陶工へ、朗月が補足を継いだ。
「つまり、この土には万物の性質を強める力が宿っている、と言いたいのだ」
「効果を増幅ってことですかい……そんな素材、聞いたことが――いや、さすが聖域の土と言うべきか……」
 周囲の職人たちも続々と手を止めて集まる。誰もが眉唾(まゆつば)なと疑念を露(あらわ)にするも、みな一様に土の手触りを確かめるうちに同じ結論に至る。
 とにかく、試してみよう、と。
「黄色い帯が毒で黒くなったみたいに、毒に反応するもんを土に混ぜたら、毒で色が変わる皿が作れると思うんだ」
 千里の幼い言葉を、陶工たちは真剣に聞き取ろうと顔を近づける。
「一口に毒と言ってもな。砒素(ひそ)に鴆毒(ちんどく)、あるいは草根木皮(そうこんもくひ)から抽出した毒……色々あるんだ」
 一人の陶工が、土のこびりついた指を折りながら語り出した。
「銀や鬱金(うこん)は確かに特定の毒物に反応を示すが、万能じゃあない」
「……ふむ。では、皿の意匠(いしょう)を、大輪の菊花に見立ててはどうだ」
 古参の職人が空中に指で円を描き、それを放射状に切り分ける仕草をした。
「花弁の一枚には銀砂を、隣には鬱金を、さらにその隣には真珠の粉を……と、場所ごとに異なる薬石を練り込んだ釉薬《ゆうやく》を塗り分ける」
 若手の職人が「なるほど」と膝を打った。
「どの花弁が変色したかで、毒の『正体』まで見抜けるという寸法か。北の花弁が黒ずめば鉱毒、東が赤らめば獣毒、といった具合に」
「そいつは粋だな。面白い、やってやろうではないか」

「おっちゃんたち、すげぇ……!」
 あれよあれよと、匠たちが具体的な製法の議論へと雪崩れ込んでいく様子を、千里は顔を輝かせて見つめる。
「何言ってんだボウズ、お前さんが頭領になるんだぞ」
「え、え?!」
 屈強な腕が伸びてきて、千里の小さな肩をぐいと引き寄せた。
「さあ、こっちへ来な!」
 気の良い匠(たくみ)たちは有無を言わさず千里の手を引き、熱気の篭(こも)る工房の奥へと連れ立っていく。
「殿下、このボウズ、お借りしますぜ!」
 快活な声に朗月は、ひらりと手を振って応えた。
 嵐のように去っていった職人たちの背中を、入り口に残された二人は呆気にとられて見送った。
「千里様、楽しそうで何よりです」
「そうだね。良い師匠たちに恵まれたようだ。得難(えがた)い勉強になるだろう」
 工房の奥からは、さっそく賑(にぎ)やかな声が響いてくる。
「無事に皿ができたなら、そこからが私の仕事だ。実際に使ってもらわねば、意味がないのだから」
 得体の知れぬ「龍気の土を使った毒見皿」などという代物を受け入れさせるには、相当な骨折りが必要になるだろう。
「私も……女官長様に、一生懸命お願いしてみます」
 翠蓮が凛と背筋を伸ばした。
「女官長様でしたら、きっと、聞いて下さると思うのです」
 朗月は、おや、という顔で翠蓮を見た。
「女官長様は大切なお方を……先代の女官長様をお毒見で亡くされていて、しかも下手人だとお疑われにもなったといいます」
「ああ……そんな話も、あったな」
 朗月も記憶の片隅にある。
「あの方は、誰よりも先代様を敬愛しておられたのです。ですから、千里様の毒見皿の意義を分かってくださると信じています」
 朗月は、驚いたように翠蓮の横顔を見つめた。
「君は……よく宮中のことを『視』ているのだね」
「見えないからこそ、視えることも多いのでございます」
 翠蓮は少しだけ得意げに答え、胸を張ってみせた――直後、
「はっ……!」
 我に返ってあとずさった。
「も、申し訳ございませぬ! 生意気なことを……お許しください……!」
 慌てて腰を折ろうとする翠蓮の体を、朗月が優しく支えた。
「よしてくれ」
 朗月は、工房の奥で奮闘する千里の方を振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「私たちは千里の『助手仲間』であろう?」
 外から差す陽光に煌(きら)めく土埃や木屑が、まるで春風に飛ばされた連翹(れんぎょう)のように、二人の「助手」の間を舞っていた。