龍脈の子

 季節は巡る。
 厳冬の暦(こよみ)を過ぎた頃、山麓にある青林村の小さな学び舎――村長が私財を投じて開いている塾からは、子供たちの元気な唱和が響いていた。

「太古、七柱の龍、身を横たえて大陸と為す」
「七つの御心臓(みしん)重なりし処(ところ)に龍の血集まりて、湖(うみ)と為(な)す」
「湖中(うみ)より龍血を浴びし者立ち上がる。これ瑞華(ずいか)始祖の王なり」
 子どもたちが声を揃えて暗唱しているのは、瑞華国の礎(いしずえ)たる大陸創世の神話だ。
 声の中に、少しばかりぎこちない、けれど真剣な響きが混じっている。全身に力を入れて筆を握りしめている、千里だ。
 始めこそ、筆の持ち方すら知らず、硯をひっくり返して墨を顔中にくっつけていた千里だったが、知の吸収力は周囲を驚愕させた。
「――よっし、できた」
 千里が筆を置く。半紙の上に、拙くはあるが力強く整った墨字が並ぶ。半月もしないうちに、千里は短い文章ならば独力で記せるまでになっていた。
「あら、だいぶきれいに書けるようになったわね」
 村長の孫娘である鈴(すず)は、最初こそ「山から来た子猿くん」と千里をからかっていたが、今では一番の世話焼き係になっていた。
「へへっ、まあな。おれ、テンサイだから」
「また調子に乗って」
「千里ー! 終わったら雪合戦しようぜ!」
 窓の外から、鼻水を垂らした同級生たちが手招きをする。
「おう! 今行く!」
 千里は筆を洗い、墨で汚れた手を着物で――拭こうとして鈴に睨まれ、慌てて手拭いを取り出した。
 同年代の友人たちと、当たり前のように学び、遊び、笑い合う日々。かつて孤独な山小屋で、凍えた指を擦り合わせていた冬とは、まるで違う暖かさがそこにあった。

*

 塾を終えて、朗月とともに半月ぶりに訪れた黒泥村は、様変わりしていた。
 村の入り口には、木材や石材が高く積み上げられている。総督府から派遣された役人と渓舟が指示を飛ばし、近隣から集められた人足たちが汗を流して杭を打ち込んでいる。
 季春(三月)の雪解け増水に合わせ、本格的な治水工事を開始するための準備が、着々と進められていたのだ。

「すげえ……」
 朗月の白馬から飛び降りた千里は、刮目した。何より変わったのは、村の空気だ。
 村人の誰もが顔を上げ、声を張り上げている。煮炊きをする女たちの笑い声が、竈門(かまど)が設置された広場から響いた。
 脇には、千里が考案して渓舟が設計した、浄水龍石(じょうすいりゅうせき)の濾過(ろか)装置が設置されている。濁った水が、装置を通ることで透き通った清水へと変わり、女たちがそれを汲んで汁を作っているのだ。

「殿下、お客人のようです」
 紅英が長い足で大股に歩み寄り、朗月を呼びに来た。振り返ると、泥濘(でいねい)の村には似つかわしくない豪奢な馬車が停まるところだった。近隣の有力者や豪商たちが噂を聞きつけ、朗月へ挨拶に訪れたのだ。
「朗月殿下におかせられましては、ご機嫌麗しく……」
「遠路はるばる、痛み入る」
 朗月は嫌な顔一つせず、彼らを出迎えた。
「今の州侯様は一度だっていらしたことがないのに」
「朗月様が、州を治めてくださればなぁ」
 そんな囁きが、村人たちの間で切なる願いとなっている。

「ほう、これはまた……なんと幻想的な」
 案内された湿地帯の一角で、客人の一人が感嘆の声を漏らした。湿地の上に渡された足場――丸太と板を組んだだけの簡素な橋――を歩きながら指差す先には、薄暮(はくぼ)の中に青白く揺らめく『龍気灯(りゅうきとう)』の列がある。
「あの少年が、考案したのです」
 朗月がちらと、千里を振り向いた。
「なんと、あのような童(わらべ)が」
「へへっ」
 客人たちの驚嘆へ、千里は戸惑いながら愛想笑いをしてみる。顔が引きつっていたに違いない。

 その時だった。足元の泥水が、小さく泡立った。

「?」
 耳ざとく千里は振り返り、水面を睨む。濁って何も見えない。
 千里は奥歯に力を込める。濁り水の下を幾重にも巡る龍脈の青い線が浮かび上がる。
 異変は視界の端で起きていた。
 穏やかに流れていたはずの青い光が激しく乱れ、渦を巻いている、かと思うと矢のような速さで朗月が立つ足場へ向かってきた。
 叫ぶより早く、千里の体は動いていた。
「朗月!!」
 藍衣の横っ腹に全速力で体当たりを食らわせる。
「うわっ!?」
 不意を突かれた朗月の体が宙に浮き、千里ともども足場の外へと放り出された。派手な水音を立てて、二人は沼の中へ転がり落ちる。

 直後――凄まじい破壊音が轟いた。

 足場の板張りが、下から突き上げられて粉々に粉砕された。水飛沫と共に宙へ躍り出たのは、子牛を丸呑みにできそうな巨大な顎《あぎと》。凶悪な牙が並んだ口が、空気を食(は)んだ。
「ひぃいい!?」
 客人たちは滑稽にも聞こえる歪(いびつ)な悲鳴をあげ、足場の上で腰を抜かす。
 ぬらりと光る黒い鱗、鋭い背鰭(せびれ)。妖魚は空中高く身をくねらせ、二人へぎょろりと目を向けた。
「伏せろ!」
「っ!」
 絶叫に突き動かされて朗月は、千里の体を抱き込んで伏す。すぐ頭上を銀閃(ぎんせん)が薙(な)いだ。白葉の術だ。
 鋭い風切と肉を断つ音が続き、妖魚が空中で鱗を散らして裂ける。二つに別れた魚体が水面を叩き、赤黒い血液が泥水と混ざり合った。
「殿下!?」
 運んでいた物資を放り出して紅英と蒼嶽が、騒ぎを聞きつけた人足や村人たちが、慌てて駆け寄ってくる。
「ご無事ですか!?」
 術を放った腕を振り切った勢いのまま、白葉も朗月の元へ駆け寄った。
「あ、ああ……」
 湿地と川の浅瀬の境で、朗月は千里をしっかりと抱きしめていた。
「大丈夫かい、千里――」
「ブクブクブク……」
「わ! わ! す、すまない!」
 慌てて朗月は伏した水から体を起こす。朗月にしがみついたまま沈んでいた千里を、蒼嶽が片手で引き上げた。

*

「こいつは……岩喰《いわぐら》いだな」
「深い大河《かわ》の底にしかいないはずなんだがな」
 集まった村人たちが、半壊した足場から、水面に浮いた妖魚の死骸を囲んでいた。
「すげぇ……硬い」
 千里は木の棒で、恐る恐る魚の胴体をつついた。まるで黒鉄(くろがね)の塊だ。そして何より、丸太の足場を軽々とへし折った、凶悪な顎。冬眠明けの飢えた熊を彷彿とさせる。

「『鉄咬魚(てっこうぎょ)』だな」
 人混みをかき分けて現れた渓舟が、魚の口元を覗き込みながら言った。本来は人の踏み入らぬ渓谷の深淵で、眠っているはずの妖魚だ。
「川と繋がったせいで、奴らの行動範囲が広がっちまったんだろう」
 渓舟が、泥で汚れた懐から一枚の図面を広げた。黒田郷の詳細な地形図、そこに鮮やかな岩群青(いわぐんじょう)の顔料で、幾筋もの線が重ねて描かれている。千里の「眼」が捉えた龍脈の流れを、渓舟が聞き取って書き加えた特製――名付けて、龍脈地図である。
「たっぷり龍気を浴びて、あそこまで巨大に変異しちまったんだ」
 それらを人々は「妖獣」と総称した。
「……こんな浅瀬で見たことなんて一度もなかったのにな」
「流されてきたのか」
「大雨でもないのにか?」
 などと、村の皆が珍しい妖魚を前に騒がしい中、一人、沈痛な面持ちの男がいた。

「殿下……申し訳ございません」
 白葉が朗月の前に膝をついた。
「殿下をお護りするべき身でありながら、妖魚の接近を許すとは……」
 白葉の拳が、悔しさに震えている。朗月は手拭いで身体中の汚れを拭き取りながら、気に病む忠臣を慰めた。
「白葉、私は大丈夫だ」
「あのガキ……いえ、少年に遅れを取るなど――」
「仕方ねーよ」
 濡れた髪を絞りながら、千里が主従に口を挟んだ。
「四六時中、気ぃ張ってるなんて無理だもん。おれだってさっきは、たまたま……」
 言いかけて、千里は口をつぐんだ。
 そう、本当に「たまたま」だったのだ。背筋に冷気が走る。

「……」
 傍らの朗月を見上げる。泥に汚れながらも、常に春風のような空気を漂わせる皇子。周りを、従者や村人たちが「殿下」「朗月様」と慕い囲んでいる。
 この光景が、ほんの一瞬で、無惨に食いちぎられていたかもしれないのだ。
(……あっぶねえ)
 千里は、肺の底に溜まっていた恐怖を吐き出すように、心からの深い息を吐いた。
「なんか……なんか無ぇかな……」
 千里の脳裏に、渓舟の図面や、龍気灯の仕組みが駆け巡る。
 龍脈の動き。気の乱れ。それを、誰にでもわかるように知らせる道具は作れないのか。

*

 青林村の屋敷に戻ってからも、千里の思考は止まらなかった。
 食事もそこそこに庭へ飛び出すと、木の枝を拾って地面にガリガリと図を描きまくる。図といっても、線と丸を組み合わせただけの、一見して子どもの落書きだ。
「線が、ぐにゃってなった時に、釣り糸がびくびくってなるみたいな……どうやって……?」
 ​​理論とも呼べぬ、己の生活の知恵の範囲で思いつくことと、実現したい道具の仕組みを色々と組み合わせてみるが、どれもピンとこない。
 土に書いては足で消し、消しては書き、ぶつぶつと独り言を呟きながら、千里は真剣な眼差しで「見えない敵」と戦っていた。

「……どうしちゃったんでしょう、あの子」
 縁側から、朗月と三人の従者たちがその様子を眺めている。
「ずいぶんと頭を使っているようだから、あとで甘味でも差し入れてやろうか」
「いいですね! 先日頂いた吊るし柿がございますから、胡桃(くるみ)を挟んでお出ししましょう」
 紅英が弾むような声を上げて、立ち上がった。
「では、私が茶を淹れましょう」
 白葉もそれに続く。その傍らでは、巨漢の蒼嶽が何も言わず、油を引いた布を手に黙々と愛用の戦斧(せんぷ)や鎧の手入れに余念がない。
 朗月は、地面に這いつくばって一心不乱に手を動かす千里の小さな背中を、楽しげに、春の日溜まりのような眼差しで見守っていた。

 しばらくして、香ばしい茶の香りが漂ってきた。紅英が漆塗りの盆に菓子を載せ、白葉が湯気の立つ茶器を運んでくる。
 二人が縁側に足をかけた、その時だった。足元から地鳴りが響き、家屋がミシリと軋んだ。
「おっと……」
 白葉の手元で茶器が触れ合い、硬質な音を立てる。
「……またか」
 紅英が、天井の梁を見上げる。揺れはすぐに収まった。
「最近、地揺れが多いですね」
 白葉が盆を慎重に、朗月の側の卓へ置く。
「治水工事に影響が出なければ良いが……」
 朗月の視線は、無意識に黒田郷の方向へふれた。
「地盤が緩んでいる時期だ。明日また、様子を見に行こう」
 深刻な顔を見合わせる大人たちを余所に、庭の隅では相変わらず、土を削る音が続いている。

 千里は揺れなど気付かなかった様子で、地面に木の枝で様々な模様を描き殴り、小石を並べ替え、時おり首を捻ってはまた崩すを繰り返していた。