龍脈の子

 月の帝、北天に降り立つ。
 万里侯(ばんりこう)、その影となりて、万世(ばんせい)安寧(あんねい)(ひら)くものとす。

――『瑞華正史(ずいかせいし)』 巻九 朗月帝(ろうげつてい)本紀(ほんぎ) 序文より



 熱気。
 何かが焦げ付く不快な臭い。
 世界は、すべてを焼き尽くす紅蓮の炎に埋め尽くされていた。

 その只中を、小さな命を抱いた影が駆けていく。
 早鐘のように打つ心臓の音が、腕の中の幼子へと伝播する。
 壊れたふいごのような喘鳴は、呼吸すらままならぬ苦しさを訴えていた。
 降り注ぐ火の粉と炎の波が、逃げ惑う背中を容赦なく(あぶ)っていく。

「あっちだ! 逃がすな!」
「男とガキは殺せ! 女は生け捕りにしろ!」

 怒号。
 悲鳴。
 肉を切り裂く鈍い音。
 獲物を追い立てる飢えた獣のような殺気が、すぐ背後にまで迫っていた。

 幼子を抱く腕に、悲痛な力が籠もる。
 影は炎を抜け、森を抜け、開けた場所へと飛び出した。

 行き止まりだった。
 足元には、大地が裂けた巨大な谷が口を開けている。

 底の見えぬ深淵からは、青白い光の濁流(だくりゅう)が、地鳴りのように吹き上がっていた。

 追っ手の足音が止まる。
 行き場を失った獲物をあざ笑う気配が、背中に迫る。

 だが――その「誰か」は、迷わなかった。
 震える唇を、幼子の額に押し当てる。
 ふわりと、一瞬の浮遊感。
 影は幼子を抱いたまま、空っぽの(そら)へと身を投げた。

 天地がひっくり返るような衝撃と、鼓膜を圧する轟音。
 谷底を流れる青い光の奔流が、二人を飲み込んだ。

 熱いのか、冷たいのかも分からぬ混沌。
 人智を超えた力が、柔らかな身体を押し潰そうと迫り来る。

「――生きて」
 光の渦の中で、その声だけがはっきりと響いた。
「愛しい子……」

 幼子を抱きしめていた腕が、ほどける。
 視界いっぱいに広がる青白い光の中で、その人の姿は、水に落ちた雪のように溶け、奔流の一部となって消えていった。

 残されたのは、柔らかな光の膜に(まゆ)のように包まれた、幼い命だけ。  
 光は濁流に揉まれながら、地の底深くへと流されていく。

 深く、遠く。
 命は青い闇へと呑まれていった。



 やがて、どこからともなく鳥の声がした。

 轟音も、焼けつくような熱さも、無い。
 土と、枯れ葉と、干し草の匂い。

 ザッ、ザッ、と草を踏む音が近づいた。

「……ここだ、光ったのは」
「おやまあ……こりゃあ」

 しわがれた声が、二つ。
 驚きと、困惑と、そして深い慈愛を含んだ響き。

「赤子じゃないか」
「なんと……山神様の落とし子かねえ」

 節くれだった、しわくちゃの手が、幼子をそっと抱き上げる。

 薄暗い森の冷たい空気が、火がついたように泣き出した赤子の声を、木々の隙間から空へと吸い上げていった。