「扉を叩いたでしょう」
「入れとは言ったが、居座れとは言っていない」
「難しい人だなあ」
宵は紙袋を机に置いた。老舗の茶舗の印が見える。
「何だ、これは」
「差し入れ。副官が替わってから、ここのお茶がまずくなったって聞いたから」
「誰から聞いた」
「軍府の人って、案外よく喋るよ」
景は紙袋を宵の側へ押し返した。
「要らん」
「じゃあ奥さんにでもあげれば」
「まだ妻ではない」
「そうだった。これからだったね」
宵は袋を押し戻しながら、机の上へ視線を巡らせた。
閉じた手帳へ目を留めたことに景は気づいたが、宵は何も尋ねない。
人の神経を逆撫ですることを趣味のようにしている男なのに、踏み込むべきでない場所だけは妙に見誤らなかった。
「そういえば」
宵が椅子の背へ身を預ける。
「結婚するらしいね。一応おめでとうって言っとく」
「一応なら要らん」
「祝ってるよ。君みたいな人と結婚してくれる女性が見つかったことを」
「喧嘩を売りに来たのか」
「褒めたつもりだけど」
「用がないなら帰れ」
「まだ相手を聞いてない」
景は報告書を手へ取った。無視して仕事を再開すれば帰るかと思ったが、宵は頬杖をついてこちらを眺めたまま動かない。
この男は、相手が折れるまで居座る。
「香坂家だ」
景が言うと、宵の顔から少しだけ戯れの色が薄れた。
「香坂?」
「ああ」
「あそこ、嫁に出せる娘がいたんだ」
景は答えなかった。宵がさらに尋ねる。
「誰?」
景は報告書へ落としていた視線を上げないまま、少し間を置いて答えた。
「……伊吹の妹だ」
宵が黙った。普段なら何かしらの皮肉を返す男が言葉を止めたため、景の方から顔を上げる。
宵は先ほどまでより真面目な顔で景を見ていた。
「伊吹って、妹いたんだ?」
「いたらしい」
「知らなかったの?」
「あいつは家の話をしなかった」
「君も聞かなかったんだ」
「軍務に関係ない」
景はそう答えた。
一年ほど前なら、何の違和感もなく口にできた言葉だった。
伊吹は副官で、自分は上官である。家族の人数も、家へ帰ったあと何をしているのかも、仕事に必要な情報ではない。軍務に関係のないことまで知る必要はないと、本気で思っていた。
「十年も一緒にいて、知らないことってあるんだね」
「誰にでもあるだろう」
「まあ、それはそうだけど」
そこで話題を終えた宵の方が、景には気になった。
十年。確かに、十年も一緒にいた。
伊吹がどの銘柄の茶を嫌うかは知っている。辛い料理を好まないことも、雨の日になると昔負った右肩の傷を気にすることも、徹夜が続けば眉間を指で押すことも知っていた。
剣を取れば左からの攻撃へ強く、騎乗すると景より馬への当たりが柔らかいことも知っている。
それでも妹がいることは知らなかった。
「会ったの?」
宵の問いで、景は先日の顔合わせを思い出す。
藤鼠の着物。低めの声。無駄のない言葉。落ちかけた茶碗に、身体が先に反応するように伸びた手。
「ああ」
「どんな人?」
「病弱だそうだ」
「それは性格じゃないよ」
「必要な時以外は自分に関わるなと言われた」
宵は一度目を瞬かせ、それから面白そうに口角を上げた。
「いいじゃない。お似合いだよ」
「どこがだ」
「相手から距離を取ってくれるんでしょう。君にぴったりじゃない」
景は反論しなかった。
愛情を求められず、役割以外では互いに干渉せず、後継ぎが生まれれば終わる。朝霧家の事情だけを考えれば、望んだ通りの婚姻だ。
「入れとは言ったが、居座れとは言っていない」
「難しい人だなあ」
宵は紙袋を机に置いた。老舗の茶舗の印が見える。
「何だ、これは」
「差し入れ。副官が替わってから、ここのお茶がまずくなったって聞いたから」
「誰から聞いた」
「軍府の人って、案外よく喋るよ」
景は紙袋を宵の側へ押し返した。
「要らん」
「じゃあ奥さんにでもあげれば」
「まだ妻ではない」
「そうだった。これからだったね」
宵は袋を押し戻しながら、机の上へ視線を巡らせた。
閉じた手帳へ目を留めたことに景は気づいたが、宵は何も尋ねない。
人の神経を逆撫ですることを趣味のようにしている男なのに、踏み込むべきでない場所だけは妙に見誤らなかった。
「そういえば」
宵が椅子の背へ身を預ける。
「結婚するらしいね。一応おめでとうって言っとく」
「一応なら要らん」
「祝ってるよ。君みたいな人と結婚してくれる女性が見つかったことを」
「喧嘩を売りに来たのか」
「褒めたつもりだけど」
「用がないなら帰れ」
「まだ相手を聞いてない」
景は報告書を手へ取った。無視して仕事を再開すれば帰るかと思ったが、宵は頬杖をついてこちらを眺めたまま動かない。
この男は、相手が折れるまで居座る。
「香坂家だ」
景が言うと、宵の顔から少しだけ戯れの色が薄れた。
「香坂?」
「ああ」
「あそこ、嫁に出せる娘がいたんだ」
景は答えなかった。宵がさらに尋ねる。
「誰?」
景は報告書へ落としていた視線を上げないまま、少し間を置いて答えた。
「……伊吹の妹だ」
宵が黙った。普段なら何かしらの皮肉を返す男が言葉を止めたため、景の方から顔を上げる。
宵は先ほどまでより真面目な顔で景を見ていた。
「伊吹って、妹いたんだ?」
「いたらしい」
「知らなかったの?」
「あいつは家の話をしなかった」
「君も聞かなかったんだ」
「軍務に関係ない」
景はそう答えた。
一年ほど前なら、何の違和感もなく口にできた言葉だった。
伊吹は副官で、自分は上官である。家族の人数も、家へ帰ったあと何をしているのかも、仕事に必要な情報ではない。軍務に関係のないことまで知る必要はないと、本気で思っていた。
「十年も一緒にいて、知らないことってあるんだね」
「誰にでもあるだろう」
「まあ、それはそうだけど」
そこで話題を終えた宵の方が、景には気になった。
十年。確かに、十年も一緒にいた。
伊吹がどの銘柄の茶を嫌うかは知っている。辛い料理を好まないことも、雨の日になると昔負った右肩の傷を気にすることも、徹夜が続けば眉間を指で押すことも知っていた。
剣を取れば左からの攻撃へ強く、騎乗すると景より馬への当たりが柔らかいことも知っている。
それでも妹がいることは知らなかった。
「会ったの?」
宵の問いで、景は先日の顔合わせを思い出す。
藤鼠の着物。低めの声。無駄のない言葉。落ちかけた茶碗に、身体が先に反応するように伸びた手。
「ああ」
「どんな人?」
「病弱だそうだ」
「それは性格じゃないよ」
「必要な時以外は自分に関わるなと言われた」
宵は一度目を瞬かせ、それから面白そうに口角を上げた。
「いいじゃない。お似合いだよ」
「どこがだ」
「相手から距離を取ってくれるんでしょう。君にぴったりじゃない」
景は反論しなかった。
愛情を求められず、役割以外では互いに干渉せず、後継ぎが生まれれば終わる。朝霧家の事情だけを考えれば、望んだ通りの婚姻だ。



