【長編版】偽りの花嫁ー帝都婚姻録ー

 一年が経った。
 新しい副官は、十分に優秀な男だった。
 軍歴も長く、判断も早い。必要な報告を忘れることもなく、書類の誤りも少ない。景の命令に口答えすることもないから、副官としては、むしろ伊吹より扱いやすいと言えるのかもしれなかった。

 それでも景は、机に置かれた報告書を三頁目まで読んだところで手を止めた。

「この数字は、どこから取った」
「第三師団より提出された月報です。原表は末尾に添付しております」
「昨年度との比較は」
「別紙にまとめております」

 差し出された紙へ目を通す。
 必要なものは揃っているし、内容にも問題はない。
 それでも読みにくい理由は分かっていた。

 伊吹なら比較値を本文の横に書いた。変動の大きい項目だけを囲み、考えられる理由を余白へ二、三行で記していたはずである。軍の正式な書式ではないが、景が一枚ずつ別紙を捲ることを嫌うと知っていたから、その形になった。

 新しい副官が悪いのではない。景の方が、一人の人間の仕事に馴染みすぎただけだった。

「下がっていい」
「はっ」

 副官が出ていくと、景は椅子に深く座り直した。
 机の右側に、未処理の書類が積まれている。
 以前ならこの高さになる前に、伊吹が勝手に分けていた。
 急ぐもの。後でいいもの。景へ届く前に担当部署へ戻すべきもの。それを頼んだ覚えなどないが、いつの間にかそうなっていた。

『勝手に机へ触るな』

 何年か前、一度だけ言ったことがある。

『では、閣下ご自身で締切を管理していただけますか』
『俺を何だと思っている』
『期限の異なる書類を同じ山に積まれる方だと思っております』
『……好きにしろ』
『承知しました』

 翌日から、伊吹はまた勝手に整理していた。
 景は眉間を押さえた。自分がどれほど副官に仕事を預けていたのか、生前には意識していなかった。

 副官が替わったせいで仕事が増えたのではない。伊吹が景の手に届く前に処理していた仕事が、今になって見えるようになっただけである。人ひとりに依存しすぎたのだと、認めざるを得なかった。

 窓の外には細い雨が降っている。
 葬儀の日とは違う、街路樹の新しい葉を濡らす程度の春雨だった。
 それでも窓硝子を伝う水を見ていると、墓地へ降り続いていた雨の音を思い出す。

 景は机の引き出しを開け、中から一冊の軍務手帳を取り出す。
 伊吹が最後に使っていたものだった。軍府の机に残されていたため、遺品として香坂家へ返すか迷った末、そのまま景が保管している。
 頁を開けば、細かな字で予定が記されていた。

 午前九時、軍議。
 補給部へ確認。
 参謀本部へ返答。
 第三師団報告書。
 朝霧少将、昼食。

 景は最後の一行で指を止めた。

「余計なことまで書いている」

 返事を期待したわけではない。それでも、誰も答えない執務室に声を落とした自分が、少し馬鹿らしかった。
 ふいに、扉を叩く音がした。

「入れ」

 手帳を閉じるより先に、扉が開いた。現れた人物を見て、景は眉を寄せる。

「何の用だ」
「歓迎が雑だね」

 南雲宵は、呼ばれてもいないのに平然と執務室へ入ってきた。

 黒い軍服に身を包み、片手には紙袋を提げている。陰陽寮を束ねる南雲家の当主でありながら、格式や礼儀というものを必要に応じて自在に無視する男だった。

 景が座るよう勧める前に、宵は客用の椅子に腰を下ろした。