墓地に棺が運ばれた頃には、雨はさらに激しさを増していた。
香坂家の墓所は屋敷から少し離れた高台にあり、踏み固められた道も今日は泥に覆われている。参列者の傘が幾重にも並ぶ中、景は葬列の後方を歩き、雨に霞む棺を見失わないよう目を向けていた。
軍にいれば、人が死ぬことは珍しくない。昨日まで同じ部隊にいた者の死亡報告書に、翌日に署名しなければならないこともある。部下の葬儀に出たことも一度や二度ではなく、死というものが例外なく誰にでも訪れることくらい、景はとうに理解している。
だから、伊吹だけが死なないと思っていたわけではない。
ただ、死に方が景の知る伊吹と繋がらなかった。一月前まで平然と軍務をこなしていた男が、誰にも知らせず重病となり、顔も見せられない状態で死んだ。その経緯のどこにも、自分が知る伊吹の姿が見つからない。
それでも、棺は墓穴へ下ろされていった。
土が棺に落ちる。乾いた音ではなく、雨を含んだ重たい音だった。
何度も繰り返されるうちに棺は見えなくなり、墓碑だけが残る。
──香坂伊吹。
刻まれた四文字を見て、景はようやく、軍府から伊吹の名前が消えた理由を実感した。
参列者は式が終わると次々に墓地を離れた。軍関係者から何人か声を掛けられたが、景は短く応じただけで、その内容のほとんどを覚えていない。
気づけば、墓前に立っているのは景だけになっていた。
少し離れたところで、香坂家の使用人が傘を手に待っている。
「朝霧少将、お車を回しております」
「ああ」
返事をしても、すぐには動かなかった。軍服はとうに雨を吸い切っており、襟元から入った水が背中を伝っている。
こんなところに長くいれば風邪を引く。それくらい分かっている。伊吹がいれば、とうに帰れと言われていただろう。
『閣下、これ以上濡れては体調を崩されます』
記憶の中の声は、驚くほど鮮明だった。
景ならきっと、『お前は俺の母親か』と返す。
すると伊吹は、真面目な顔で、『少なくとも、閣下ご本人よりは閣下の健康を気にしております』とでも言ったに違いない。
何を言うかが分かる。どんな顔をするかも想像できる。
十年間とは、そういう時間だったのだろう。
「伊吹」
景は墓碑へ向かって名を呼んだ。
雨音しか返らない。その当然の結果に、ひどい違和感があった。
これまで伊吹と呼べば、返事があった。執務室でも、軍議でも、戦場でも、遠ければ視線だけは返ってきた。名前を呼びながら、相手が答えない可能性など考えたことがない。
今後は何度呼んでも、返らない。
悲嘆というものがどういう感覚なのか、景にはよく分からなかった。
泣きたいわけではない。大声で惜しむ言葉を口にしたいとも思わない。
ただ、明日からの軍務を考えると、机の片側を無理やり切り取られたような居心地の悪さがあった。
新しい副官は来る。軍議も開かれる。部隊は景の感情など関係なく動き続ける。支障が出るようでは、指揮官として失格だった。
それでも、今すぐここを離れて日常へ戻ることに、身体が同意しなかった。
「少将」
使用人からもう一度呼ばれ、景はようやく墓碑へ背を向ける。
数歩進んだところで、理由もなく振り返った。
雨の向こうに、香坂伊吹という名だけが残っていた。
香坂家の墓所は屋敷から少し離れた高台にあり、踏み固められた道も今日は泥に覆われている。参列者の傘が幾重にも並ぶ中、景は葬列の後方を歩き、雨に霞む棺を見失わないよう目を向けていた。
軍にいれば、人が死ぬことは珍しくない。昨日まで同じ部隊にいた者の死亡報告書に、翌日に署名しなければならないこともある。部下の葬儀に出たことも一度や二度ではなく、死というものが例外なく誰にでも訪れることくらい、景はとうに理解している。
だから、伊吹だけが死なないと思っていたわけではない。
ただ、死に方が景の知る伊吹と繋がらなかった。一月前まで平然と軍務をこなしていた男が、誰にも知らせず重病となり、顔も見せられない状態で死んだ。その経緯のどこにも、自分が知る伊吹の姿が見つからない。
それでも、棺は墓穴へ下ろされていった。
土が棺に落ちる。乾いた音ではなく、雨を含んだ重たい音だった。
何度も繰り返されるうちに棺は見えなくなり、墓碑だけが残る。
──香坂伊吹。
刻まれた四文字を見て、景はようやく、軍府から伊吹の名前が消えた理由を実感した。
参列者は式が終わると次々に墓地を離れた。軍関係者から何人か声を掛けられたが、景は短く応じただけで、その内容のほとんどを覚えていない。
気づけば、墓前に立っているのは景だけになっていた。
少し離れたところで、香坂家の使用人が傘を手に待っている。
「朝霧少将、お車を回しております」
「ああ」
返事をしても、すぐには動かなかった。軍服はとうに雨を吸い切っており、襟元から入った水が背中を伝っている。
こんなところに長くいれば風邪を引く。それくらい分かっている。伊吹がいれば、とうに帰れと言われていただろう。
『閣下、これ以上濡れては体調を崩されます』
記憶の中の声は、驚くほど鮮明だった。
景ならきっと、『お前は俺の母親か』と返す。
すると伊吹は、真面目な顔で、『少なくとも、閣下ご本人よりは閣下の健康を気にしております』とでも言ったに違いない。
何を言うかが分かる。どんな顔をするかも想像できる。
十年間とは、そういう時間だったのだろう。
「伊吹」
景は墓碑へ向かって名を呼んだ。
雨音しか返らない。その当然の結果に、ひどい違和感があった。
これまで伊吹と呼べば、返事があった。執務室でも、軍議でも、戦場でも、遠ければ視線だけは返ってきた。名前を呼びながら、相手が答えない可能性など考えたことがない。
今後は何度呼んでも、返らない。
悲嘆というものがどういう感覚なのか、景にはよく分からなかった。
泣きたいわけではない。大声で惜しむ言葉を口にしたいとも思わない。
ただ、明日からの軍務を考えると、机の片側を無理やり切り取られたような居心地の悪さがあった。
新しい副官は来る。軍議も開かれる。部隊は景の感情など関係なく動き続ける。支障が出るようでは、指揮官として失格だった。
それでも、今すぐここを離れて日常へ戻ることに、身体が同意しなかった。
「少将」
使用人からもう一度呼ばれ、景はようやく墓碑へ背を向ける。
数歩進んだところで、理由もなく振り返った。
雨の向こうに、香坂伊吹という名だけが残っていた。



