三年前、北部で起きた反乱の鎮圧に赴いた時にも、長い雨が続いた。
三日間ほとんど止むことのなかった雨で宿営地の土は泥へ変わり、兵の軍靴は歩くだけで重たくなる。補給路も一部寸断され、景は地図を広げた天幕で、夜更けまで進軍経路を検討していた。
「今夜のうちに東に出る」
景が決定を告げると、隣に立つ伊吹が即座に否定した。
「お勧めいたしません」
「理由は」
「この雨ですと、明朝までに川の水位がさらに上がります。渡河の最中に増水すれば、退路を失います」
「増水する前に渡る」
「兵が疲弊しています」
「敵も同じだ」
「だからこそ、こちらも動かないと考えているでしょう」
「なら好機だ」
伊吹はしばらく何も言わず、地図へ視線を落としていた。
景が顔を上げると、眉間に深い皺が寄っている。
「何だ」
「閣下は、ご自身の体力を全軍の基準になさらない方がよろしいかと存じます」
「説教なら後にしろ」
「進言です」
「言い方が違うだけだ」
景は外套を取り、立ち上がった。その動きを見て、伊吹も地図を畳む。
「どちらへ行かれますか」
「川沿いを見てくる」
「斥候を出しております」
「自分で見た方が早い」
「私が参ります」
「お前はここで報告を待て」
景が天幕を出ると、数歩遅れて伊吹も続いてきた。振り返ると、当然のように外套を着ている。
「命令を聞け」
「副官を置いて、指揮官御自ら斥候へ出られる方に言われましても、説得力に欠けます」
「お前、昔より口が悪くなったな」
「閣下に三年お仕えしておりますので」
「俺のせいか」
「影響は否定できません」
景は鼻で笑い、そのまま馬に乗った。
結局二人で宿営地を出て、雨の中を川沿いまで進んだ。水位と地形を確認し、敵の動きを遠くから探ったところで、退路に選んだ山道から数人の敵兵が現れた。
景は馬を下りながら刀を抜く。
「伊吹、右を取れ」
「承知しました」
それだけで配置は決まった。
雨で視界が悪く、泥へ足を取られれば動きは鈍る。
景は正面の敵に集中し、背後に意識を割かなかった。
伊吹がいるからだった。
何人目かを斬り伏せたところで、左手の高台から銃声がした。
景が音に反応した時には、伊吹の肩が身体にぶつかっている。
景の身体が横にずれ、銃弾は伊吹の上腕を掠めていった。
軍服が裂け、すぐに血が滲んだ。
「伊吹」
「掠っただけです」
「見れば分かる」
景は銃を撃った兵を追って斬り倒し、戻って伊吹の腕を確認する。雨で流されているせいで出血量は分かりにくかったが、傷は浅い。
「戻るぞ」
「敵の配置は確認できました。もう少し先まで見れば――」
「自分の命を軽く扱うな」
伊吹はそこで口を閉じた。雨水の流れる顔に、明らかな不満が出る。
「……閣下にだけは言われたくありません」
「俺は指揮官だ」
「だからです。閣下が死ねば、この部隊は誰が指揮するのですか」
「代わりはいる」
「では、私にもおります」
「お前の代わりを今から探すのは面倒だ」
伊吹は呆れた顔をした。
「それを仰るなら、ご自身も同じです」
「分かったから戻るぞ」
「本当にお戻りになりますか」
「俺を何だと思っている」
「前科の多い上官だと思っております」
「伊吹」
「失礼いたしました」
謝罪とは裏腹に、表情には反省の色がなかった。
後日、話を聞いた部下たちは、朝霧少佐にあれほど遠慮なく物を言えるのは香坂中尉くらいだと笑っていた。
景自身は気にしていなかった。階級だけを見て、上官の誤りに口を閉ざす副官など必要ないと思っていたからである。
三日間ほとんど止むことのなかった雨で宿営地の土は泥へ変わり、兵の軍靴は歩くだけで重たくなる。補給路も一部寸断され、景は地図を広げた天幕で、夜更けまで進軍経路を検討していた。
「今夜のうちに東に出る」
景が決定を告げると、隣に立つ伊吹が即座に否定した。
「お勧めいたしません」
「理由は」
「この雨ですと、明朝までに川の水位がさらに上がります。渡河の最中に増水すれば、退路を失います」
「増水する前に渡る」
「兵が疲弊しています」
「敵も同じだ」
「だからこそ、こちらも動かないと考えているでしょう」
「なら好機だ」
伊吹はしばらく何も言わず、地図へ視線を落としていた。
景が顔を上げると、眉間に深い皺が寄っている。
「何だ」
「閣下は、ご自身の体力を全軍の基準になさらない方がよろしいかと存じます」
「説教なら後にしろ」
「進言です」
「言い方が違うだけだ」
景は外套を取り、立ち上がった。その動きを見て、伊吹も地図を畳む。
「どちらへ行かれますか」
「川沿いを見てくる」
「斥候を出しております」
「自分で見た方が早い」
「私が参ります」
「お前はここで報告を待て」
景が天幕を出ると、数歩遅れて伊吹も続いてきた。振り返ると、当然のように外套を着ている。
「命令を聞け」
「副官を置いて、指揮官御自ら斥候へ出られる方に言われましても、説得力に欠けます」
「お前、昔より口が悪くなったな」
「閣下に三年お仕えしておりますので」
「俺のせいか」
「影響は否定できません」
景は鼻で笑い、そのまま馬に乗った。
結局二人で宿営地を出て、雨の中を川沿いまで進んだ。水位と地形を確認し、敵の動きを遠くから探ったところで、退路に選んだ山道から数人の敵兵が現れた。
景は馬を下りながら刀を抜く。
「伊吹、右を取れ」
「承知しました」
それだけで配置は決まった。
雨で視界が悪く、泥へ足を取られれば動きは鈍る。
景は正面の敵に集中し、背後に意識を割かなかった。
伊吹がいるからだった。
何人目かを斬り伏せたところで、左手の高台から銃声がした。
景が音に反応した時には、伊吹の肩が身体にぶつかっている。
景の身体が横にずれ、銃弾は伊吹の上腕を掠めていった。
軍服が裂け、すぐに血が滲んだ。
「伊吹」
「掠っただけです」
「見れば分かる」
景は銃を撃った兵を追って斬り倒し、戻って伊吹の腕を確認する。雨で流されているせいで出血量は分かりにくかったが、傷は浅い。
「戻るぞ」
「敵の配置は確認できました。もう少し先まで見れば――」
「自分の命を軽く扱うな」
伊吹はそこで口を閉じた。雨水の流れる顔に、明らかな不満が出る。
「……閣下にだけは言われたくありません」
「俺は指揮官だ」
「だからです。閣下が死ねば、この部隊は誰が指揮するのですか」
「代わりはいる」
「では、私にもおります」
「お前の代わりを今から探すのは面倒だ」
伊吹は呆れた顔をした。
「それを仰るなら、ご自身も同じです」
「分かったから戻るぞ」
「本当にお戻りになりますか」
「俺を何だと思っている」
「前科の多い上官だと思っております」
「伊吹」
「失礼いたしました」
謝罪とは裏腹に、表情には反省の色がなかった。
後日、話を聞いた部下たちは、朝霧少佐にあれほど遠慮なく物を言えるのは香坂中尉くらいだと笑っていた。
景自身は気にしていなかった。階級だけを見て、上官の誤りに口を閉ざす副官など必要ないと思っていたからである。



