香坂伊吹が景の副官となったのは、十年前の秋だった。
その頃の景は、若くして一個大隊の指揮を任され、上官から降りてくる命令と現場の事情の折り合いをつけるだけで一日の大半を使っていた。副官が替わると聞かされても、仕事の足を引っ張らない人間であれば誰でも構わない、としか思わなかった。
着任初日、執務室へ現れた青年は細身だった。
軍服は規定通り整えられており、磨かれた靴にも、きっちり留めた襟元にも乱れはない。香坂家の嫡男という肩書きから華美な青年を想像していた景は、表情の乏しい顔を見て、むしろ拍子抜けした。
「香坂伊吹です。本日付で朝霧少佐付を拝命いたしました」
景は書類から顔を上げた。
「仕事は速いか」
初対面の人間へ尋ねることとしては、相当愛想がない。
伊吹は驚くでもなく、少し考えてから答えた。
「遅いと言われたことはございません」
「なら、明朝までにこれへ目を通せ」
景が机の端に積んでいた資料を示すと、伊吹は十数冊ある冊子と報告書の束へ視線を向けた。
「必要な事項をまとめておきますか」
「読めと言っただけだ」
「承知しました」
翌朝、景が執務室へ来ると、資料は読み終えた順に整理され、問題のある箇所には薄い紙片が挟まれていた。その横には数枚の紙が置かれ、各部隊の兵数、補給状況、前月からの変化が簡潔にまとめられている。
「誰がこれを作れと言った」
景が尋ねると、伊吹は表情を変えなかった。
「不要でしたでしょうか」
「そうは言っていない」
「でしたら、次回からも同様にいたします」
「勝手に決めるな」
「では、次回は指示をいただけますか」
景は数秒黙り、「……好きにしろ」と答えた。
「承知しました」
そこから十年が始まった。
いつの間にか伊吹は、景が書類を読む順序まで覚えていた。
急ぎのものを右上へ、確認だけで済むものを左へ、景自身が考える必要のある案件は中央へ置く。明文化した決まりではなく、一つ一つ説明した覚えもない。それでも数年が経つ頃には、その配置が当然になった。
景も次第に命令を最後まで言わなくなった。
「伊吹」
名前を呼び、地図の一点へ指を置けば、伊吹はそこへ目を落とした。
「北側の街道でしたら、昨夜の雨で一部崩落しています。迂回路は確保されていますが、通常より一刻ほど掛かります」
「補給は」
「昨日のうちに東回りへ切り替えました」
「誰が命じた」
「閣下が本日、そちらをお尋ねになると思いましたので」
景は文句を言いかけてやめた。 問題なく回っているなら、余計な口を挟む理由はなかった。
親友と呼ぶほど私生活を共有したわけではなく、互いの家族について語り合うこともなかった。酒を酌み交わした記憶さえ、軍の宴席を除けば数えるほどしかない。
それでも、戦場では一度も伊吹のいる側を確認する必要がなかった。
背後にいると分かっているから、前だけを見ていられた。
景にとって香坂伊吹とは、そういう男だった。
その頃の景は、若くして一個大隊の指揮を任され、上官から降りてくる命令と現場の事情の折り合いをつけるだけで一日の大半を使っていた。副官が替わると聞かされても、仕事の足を引っ張らない人間であれば誰でも構わない、としか思わなかった。
着任初日、執務室へ現れた青年は細身だった。
軍服は規定通り整えられており、磨かれた靴にも、きっちり留めた襟元にも乱れはない。香坂家の嫡男という肩書きから華美な青年を想像していた景は、表情の乏しい顔を見て、むしろ拍子抜けした。
「香坂伊吹です。本日付で朝霧少佐付を拝命いたしました」
景は書類から顔を上げた。
「仕事は速いか」
初対面の人間へ尋ねることとしては、相当愛想がない。
伊吹は驚くでもなく、少し考えてから答えた。
「遅いと言われたことはございません」
「なら、明朝までにこれへ目を通せ」
景が机の端に積んでいた資料を示すと、伊吹は十数冊ある冊子と報告書の束へ視線を向けた。
「必要な事項をまとめておきますか」
「読めと言っただけだ」
「承知しました」
翌朝、景が執務室へ来ると、資料は読み終えた順に整理され、問題のある箇所には薄い紙片が挟まれていた。その横には数枚の紙が置かれ、各部隊の兵数、補給状況、前月からの変化が簡潔にまとめられている。
「誰がこれを作れと言った」
景が尋ねると、伊吹は表情を変えなかった。
「不要でしたでしょうか」
「そうは言っていない」
「でしたら、次回からも同様にいたします」
「勝手に決めるな」
「では、次回は指示をいただけますか」
景は数秒黙り、「……好きにしろ」と答えた。
「承知しました」
そこから十年が始まった。
いつの間にか伊吹は、景が書類を読む順序まで覚えていた。
急ぎのものを右上へ、確認だけで済むものを左へ、景自身が考える必要のある案件は中央へ置く。明文化した決まりではなく、一つ一つ説明した覚えもない。それでも数年が経つ頃には、その配置が当然になった。
景も次第に命令を最後まで言わなくなった。
「伊吹」
名前を呼び、地図の一点へ指を置けば、伊吹はそこへ目を落とした。
「北側の街道でしたら、昨夜の雨で一部崩落しています。迂回路は確保されていますが、通常より一刻ほど掛かります」
「補給は」
「昨日のうちに東回りへ切り替えました」
「誰が命じた」
「閣下が本日、そちらをお尋ねになると思いましたので」
景は文句を言いかけてやめた。 問題なく回っているなら、余計な口を挟む理由はなかった。
親友と呼ぶほど私生活を共有したわけではなく、互いの家族について語り合うこともなかった。酒を酌み交わした記憶さえ、軍の宴席を除けば数えるほどしかない。
それでも、戦場では一度も伊吹のいる側を確認する必要がなかった。
背後にいると分かっているから、前だけを見ていられた。
景にとって香坂伊吹とは、そういう男だった。



