【長編版】偽りの花嫁ー帝都婚姻録ー

 葬儀の日、帝都には朝から強い雨が降っていた。
 軍用車が香坂家の門前に着く頃には、黒い雲が昼間とは思えないほど辺りを暗くし、長い土塀も、門前へ並んだ車列も、雨煙の向こうで輪郭を失っていた。石畳を流れる水は靴底を越えるほどに増え、屋根から落ちる雨水が絶え間なく地面を打っている。

 車を降りた景に従兵が傘を差し出したが、玄関までは数十歩しかないからと受け取らなかった。

 その判断を、歩き始めてすぐに後悔したわけではない。軍帽の庇を叩いた雨が頬を伝い、黒い軍服は短い距離で肩から色を変えたが、濡れることなど気にならなかった。

 玄関をくぐると、香の匂いと人の湿った衣服の匂いが混ざった空気に迎えられた。

 武門の家らしい、騒がしさのない葬儀だった。
 親族、軍関係者、家同士の付き合いのある者たちが広間で整然と並び、祭壇の前では僧侶が低い声で経を読んでいる。香坂家当主は参列者へ一人ずつ礼を述べ、その妻も少し後ろで控えていたが、深く伏せた顔を上げることはほとんどなかった。

 景は焼香の順番を待ちながら、中央に置かれた棺を見ていた。
 蓋は開いている。しかし故人の顔には白布が掛けられており、首から上を確認することができない。身体も胸元まで布で覆われているため、軍服を着せられているのか、どのような姿で納められているのかさえ分からなかった。

 景だけが気にしたわけではないらしく、軍府から参列した将校の幾人かも棺へ視線を送り、その後で互いの顔を見ている。
 焼香を終えたところで、景は香坂家当主の前に立った。

「顔を見せないのか」

 当主の目元に疲労が滲んだ。

「長く病床におりましたため、最期には生前の面影をかなり損なっておりました。本人の尊厳を思い、家族で相談した上、このような形にしております」
「何の病だった」

 当主は病名を口にした。景にも聞き覚えはあったが、医術の知識があるわけではないため、そこから何かを判断することはできない。

「軍府に知らせなかった理由は」
「伊吹本人の希望です。長くはないと分かってからも、軍の方々に余計な心配を掛けたくないと申しておりました」

 いかにも伊吹の言いそうなことだ。そこまで他人に気を遣う男ではなかったが、自分の問題を周囲に持ち込むことは嫌った。多少の怪我なら黙って仕事を続け、景に見つかって初めて医務室に行くようなところもあった。

 それでも景は、納得できなかった。自分の死期を知った伊吹が、引き継ぎも何も残さず軍を去るだろうか。あの男なら、死ぬ間際まで仕事の整理をしそうなものだというのに。

「布を取ってくれ」

 景の言葉に、香坂家当主の顔が硬くなった。

「朝霧少将、それはどうかご容赦を」
「最後に確認するだけだ」
「家として、故人の姿をこれ以上人目へ晒さないと決めております」
「伊吹自身が望んだのか」

 当主は少しだけ黙った。

「……家の判断です」

 その場で白布を外すことは、景の腕力なら簡単だった。
 けれど、死者の家族が拒んでいる葬儀の席で、軍の階級を盾に強引な真似をすれば、伊吹自身が誰より嫌がるだろう。

 何より、布を外したところで、死んでいるという事実が変わるわけではない。

「分かった」

 景はそれ以上言わなかった。当主に一礼し、棺へもう一度目を向ける。
 白布の端から、肌は一切見えなかった。手まで覆われていることが、景には妙に気になった。