香坂伊吹の死を知らせる書状が軍府に届いたのは、朝から冷たい雨の降り続く日だった。
三月も半ばを過ぎたというのに、その年の帝都には冬の気配がしつこく残っており、空を覆う雲は低く、演習場の土も朝から重たく濡れていた。
午前の訓練を終えて執務室に戻った景は、軍服の肩についた雨粒を手袋で払いながら机へ向かい、留守の間に届いた書類へ順に目を通していった。
軍務に関する報告が四通、朝廷からの通達が二通、その下に、香坂家の紋を封蝋へ刻んだ私信が一通置かれている。その名を見ても、景は特別な予感を覚えなかった。
香坂伊吹が休職してから、すでにひと月近くになる。
家の事情でしばらく軍府を離れる、と本人から聞いたのが最後で、その後、香坂家から退役の手続きが提出された。景は理由を尋ねる使いを一度だけ出したが、返ってきたのは「療養を要するため」という簡潔な回答であり、それ以上追及することはしなかった。
伊吹は私人として自分の部下なのではない。軍籍を離れた以上、家の事情に上官が立ち入るべきではないと考えたからだった。
封を切り、折り畳まれた紙を広げる。そこに書かれていた文章は、景が拍子抜けするほど短いものだった。
——香坂家嫡男、香坂伊吹。病により死去。
葬儀の日取りと場所、その下に当主の署名が続いており、故人の病状や最期については何ひとつ触れられていなかった。
景は一度読み終えたあと、文面の最初に戻った。
文字は変わらない。読み誤ったのでもない。
香坂伊吹は死んだ。その事実だけが簡潔に記されている。
「……どういうことだ」
誰に尋ねるでもなく漏らした声は、雨音の響く執務室へ吸い込まれていった。
伊吹が病を得ていたという話を、景は聞いた覚えがない。十年もの間副官として傍に置いてきたが、体調を理由に休んだことなど数えるほどしかなく、多少熱があっても平然と出仕する男だった。医務官から休養を命じられた日でさえ、書類を抱えて景の執務室に現れ、「任務に支障はありません」と言い張ったため、景が自ら追い返したことさえある。
最後に見た日も、顔色が悪いとは思わなかった。
朝から二つの会議へ付き添い、午後には南方駐屯軍の報告書を読み上げ、その内容について景と意見を交わした。日が傾いた頃になって「明日からしばらく休みをいただきます」と告げたものの、理由を訊けば「家の都合です」と答えただけで、本人から病について口にしたことはない。
景も、数日で戻るものと考えていた。
それが退役となり、次には死去の知らせである。
書状を机に置いた時、廊下から軍靴の音が近づいてきた。規則正しい歩調が耳へ届き、景は反射的に扉へ顔を向ける。
その動きをした後になって、自分が誰を待ったのかを理解した。
伊吹が副官だった頃、午前の巡回から戻る時間とほぼ同じだった。
扉を叩いて入ってきたのは、当然ながら別の将校である。
「閣下、午後の会議についてですが、参謀本部より時間変更の打診が――」
「今日は延期しろ」
景の返答に、若い将校は目を上げた。
私事によって軍務を動かすことの少ない上官から、理由もなく予定変更を命じられたことに戸惑ったのだろう。それでも余計な質問はせず、承知しましたと姿勢を正した。
「それから香坂家に使いを出せ。葬儀に参列すると伝えておけ」
「香坂中尉の、でありますか」
「そうだ」
将校の顔にも驚きが出た。伊吹の退役を知る者はいても、死を知る者はまだ少ないらしい。
景は書状を折り畳んで机に戻した。
「他には」
「ございません」
「なら下がれ」
若い将校が扉を閉めると、執務室には再び雨の音だけが残った。
景は椅子に深く座り直し、机の右側へ目を向ける。
以前は、そこが伊吹の位置だった。副官が一日中机の横に立っていたわけではないが、報告や指示の確認が必要な時には自然とそこへ来て、景の視界の端に収まっていた。必要な時に呼び、名前を口にすれば返事が返る。そのことを意識したことなどなかった。
その名が、今は書状の中で死者として記されている。
景はもう一度紙に触れかけ、結局その手を戻した。
三月も半ばを過ぎたというのに、その年の帝都には冬の気配がしつこく残っており、空を覆う雲は低く、演習場の土も朝から重たく濡れていた。
午前の訓練を終えて執務室に戻った景は、軍服の肩についた雨粒を手袋で払いながら机へ向かい、留守の間に届いた書類へ順に目を通していった。
軍務に関する報告が四通、朝廷からの通達が二通、その下に、香坂家の紋を封蝋へ刻んだ私信が一通置かれている。その名を見ても、景は特別な予感を覚えなかった。
香坂伊吹が休職してから、すでにひと月近くになる。
家の事情でしばらく軍府を離れる、と本人から聞いたのが最後で、その後、香坂家から退役の手続きが提出された。景は理由を尋ねる使いを一度だけ出したが、返ってきたのは「療養を要するため」という簡潔な回答であり、それ以上追及することはしなかった。
伊吹は私人として自分の部下なのではない。軍籍を離れた以上、家の事情に上官が立ち入るべきではないと考えたからだった。
封を切り、折り畳まれた紙を広げる。そこに書かれていた文章は、景が拍子抜けするほど短いものだった。
——香坂家嫡男、香坂伊吹。病により死去。
葬儀の日取りと場所、その下に当主の署名が続いており、故人の病状や最期については何ひとつ触れられていなかった。
景は一度読み終えたあと、文面の最初に戻った。
文字は変わらない。読み誤ったのでもない。
香坂伊吹は死んだ。その事実だけが簡潔に記されている。
「……どういうことだ」
誰に尋ねるでもなく漏らした声は、雨音の響く執務室へ吸い込まれていった。
伊吹が病を得ていたという話を、景は聞いた覚えがない。十年もの間副官として傍に置いてきたが、体調を理由に休んだことなど数えるほどしかなく、多少熱があっても平然と出仕する男だった。医務官から休養を命じられた日でさえ、書類を抱えて景の執務室に現れ、「任務に支障はありません」と言い張ったため、景が自ら追い返したことさえある。
最後に見た日も、顔色が悪いとは思わなかった。
朝から二つの会議へ付き添い、午後には南方駐屯軍の報告書を読み上げ、その内容について景と意見を交わした。日が傾いた頃になって「明日からしばらく休みをいただきます」と告げたものの、理由を訊けば「家の都合です」と答えただけで、本人から病について口にしたことはない。
景も、数日で戻るものと考えていた。
それが退役となり、次には死去の知らせである。
書状を机に置いた時、廊下から軍靴の音が近づいてきた。規則正しい歩調が耳へ届き、景は反射的に扉へ顔を向ける。
その動きをした後になって、自分が誰を待ったのかを理解した。
伊吹が副官だった頃、午前の巡回から戻る時間とほぼ同じだった。
扉を叩いて入ってきたのは、当然ながら別の将校である。
「閣下、午後の会議についてですが、参謀本部より時間変更の打診が――」
「今日は延期しろ」
景の返答に、若い将校は目を上げた。
私事によって軍務を動かすことの少ない上官から、理由もなく予定変更を命じられたことに戸惑ったのだろう。それでも余計な質問はせず、承知しましたと姿勢を正した。
「それから香坂家に使いを出せ。葬儀に参列すると伝えておけ」
「香坂中尉の、でありますか」
「そうだ」
将校の顔にも驚きが出た。伊吹の退役を知る者はいても、死を知る者はまだ少ないらしい。
景は書状を折り畳んで机に戻した。
「他には」
「ございません」
「なら下がれ」
若い将校が扉を閉めると、執務室には再び雨の音だけが残った。
景は椅子に深く座り直し、机の右側へ目を向ける。
以前は、そこが伊吹の位置だった。副官が一日中机の横に立っていたわけではないが、報告や指示の確認が必要な時には自然とそこへ来て、景の視界の端に収まっていた。必要な時に呼び、名前を口にすれば返事が返る。そのことを意識したことなどなかった。
その名が、今は書状の中で死者として記されている。
景はもう一度紙に触れかけ、結局その手を戻した。



