「不満はないのか」
「ございません」
「随分聞き分けがいい」
少し皮肉の混じった言い方になったが、一は顔色を変えなかった。
「私にも都合のよい縁談ですので」
「都合がいい?」
「はい」
一はそこで初めて、言葉を探すように視線を伏せた。それまで淀みなく答えていた女が黙ったことで、かえって景の意識が向く。
「私からも、二つお願いがございます」
「言ってみろ」
「一つ目は、妻として必要な場面を除き、私生活では私に関わらないでいただきたいのです」
予想していなかった条件だった。
「朝霧家の妻として果たすべき役目は果たします。公の席への同伴が必要であれば従いますし、家の行事にも出席いたします。後継ぎについても、先ほど申し上げた通り異存はございません」
一はそこで言葉を切り、景を見た。
「ですが、それ以外の時間については、互いに干渉せず過ごしたく存じます」
「理由を聞いても?」
「婚姻の目的には不要かと思います」
柔らかな言葉ながら、拒絶は明瞭だった。
景は少し意外に思ったが、腹を立てるほどのことでもない。自分が愛情を与えないと言っておきながら、相手に親しさを求める方が筋違いだろう。
「分かった。もう一つは」
今度の沈黙は長かった。
一は膝へ置いた手を見つめている。何かを口にすれば戻れなくなると知りながら、それでも言わずにはいられない者の顔に見えた。
景が催促せず待っていると、一は顔を上げた。
「この婚姻が終わりましたら、私のことはお忘れください」
景はすぐには意味を取れなかった。
「忘れる?」
「はい」
「何を」
「私を、です」
一の声は変わらない。
「子が生まれ、私が朝霧家を去った後は、消息を調べないでください。どこで何をしていても関わらず、思い出すこともなく、そのような女がいたこと自体を忘れていただきたいのです」
奇妙なことを言う女だ、と景は思った。
離縁後に接触しないという条件なら理解できる。だが、人間の記憶まで契約書へ書き込むことはできない。
「それは約束できない」
一の顔に、初めて明確な動揺が出た。
「なぜですか」
「忘れるかどうかは、俺にも分からないからだ。離縁後に君の生活へ関与しないことなら約束できる。だが、記憶から消すという条件を守れる保証はない」
「忘れていただきたいのです」
「どうして、そこまで忘れられたい」
景が問うと、一は黙り込んだ。
目元に走った感情は、すぐに消えた。何だったのかを読み取れるほど長くは残らなかったが、景は妙な引っ掛かりを覚えた。
「その方が、お互いのためです」
「俺のためでもあると?」
「はい」
「俺が何を思うかまで、君が決めるのか」
一は返答に窮したらしく、静かに目を伏せた。
「……申し訳ございません」
謝る声にも、条件を撤回する気配はない。
景はしばらく彼女を眺めた。
病弱で、長く人目を避けて育った令嬢。父親からはそう聞かされている。
それにしては、いくつかの点で妙だった。
景を前にしても怯まない。家同士の都合による婚姻を、感傷ひとつ交えず理解している。相手の出方を窺って言葉を変えるのではなく、自分の要求を端的に示す。
何より、見覚えのある沈黙をする。
「分かった」
一が顔を上げる。
「必要以上に君へ関わらない。離縁後に消息を追わないことも約束する。ただし、忘れるという部分だけは引き受けられない」
「……承知いたしました」
一はそれ以上、食い下がらなかった。
話は終わったと判断し、景が立ち上がる。一も続いて腰を上げた。その拍子に、景の袖が脇の盆へ触れた。
茶碗が傾き、縁から茶が零れかける。景が手を出すより先に、一が動いた。右手で茶碗を受け、左手では同時に盆を押さえている。
茶托が触れ合う小さな音がしただけで、床へ落ちたものは一滴もなかった。
一自身も、自分の動きへ驚いたのか、茶碗を持った姿勢のまま止まる。
景はその手を見た。
「随分、反応がいい」
「……偶然です」
「病弱だったそうだが」
「今は、以前より身体も丈夫になりましたので」
そう言って、一は茶碗を盆へ戻した。
今度の動作は意識しているせいか、ひどく慎重だった。
景には、その方が不自然に見えた。
同じ光景を以前にも見たことがある。
いつだったか、遠征先の天幕で地図を広げていた時だった。景が肘で硯を倒しかけると、隣にいた伊吹が片手で硯を取り、もう片方で書類を押さえた。
『閣下は、ご自身の周囲をもう少しご覧になった方がよろしいかと存じます』
呆れた声まで思い出した。
「朝霧様」
一に呼ばれ、景は過去から引き戻された。
「何でもない」
そう答えて襖へ向かう。
兄妹なのだから、似ていて当然なのだろう。
仕草が似ることもある。声の調子が似ることもある。そう考えれば済む話だった。
香坂伊吹は死んでいる。景自身が葬儀に出たうえ、墓まである。死人が女の姿で妹を名乗り、自分の前に座っているなどという馬鹿げた話を、考える理由はどこにもない。
襖を開けると、廊下の先から香坂家当主夫妻と仲人が戻ってくるのが見えた。
この縁談は成立するだろう。
愛情を求めない男と、関わられることを望まない女。子を得れば終わる婚姻としては、むしろ都合がいい。
余計な期待をせず、余計な情も持たず、定められた役目だけを果たせばよい。
そういう結婚になるはずだった。
座敷を出て廊下を進みながら、景は先ほど一から告げられた条件を思い返した。
――私のことはお忘れください。
人ひとりを忘れることなど、かつての景なら難しいとは思わなかった。
軍人は人を失う。戦場へ出れば、昨日まで言葉を交わしていた人間が翌日にはいなくなることも珍しくない。別れを一つ一つ抱えていては前へ進めないから、死者は記憶の中へ送り、生者は自分の仕事へ戻る。
そうしてきたつもりだった。
ところが伊吹についてだけは、一年経っても日常から消えなかった。
新しい副官が書類を机に置けば、その順番が違うと思う。茶を飲めば、伊吹の淹れ方より濃いと気づく。廊下の向こうで軍靴の音がすれば、一瞬だけ聞き慣れた足取りを探す。
悲嘆に暮れているわけではない。死者を恋しがっているわけでもない。
ただ、十年かけて身体に馴染んだ仕事の呼吸が、ひとつ欠けたまま戻らない。
香坂伊吹とは、景にとってそういう男だった。
忘れるつもりなどなかった。だが、忘れられないとも思っていなかった。
時間が経てば、人の不在くらいは日常へ馴染むものだと考えていた。
だが、現実は少し違ったらしい。
廊下の途中で、景は一度だけ足を止めた。
振り返れば、閉じた襖の向こうに、死んだ副官によく似た女がいる。子を産めば去り、その後は自分を忘れてくれと言った女が。
「……妙な話だ」
独り言は、開け放たれた廊下から庭へ流れていった。
一年かけても片腕の不在に慣れることのできない男を相手に、記憶から消えてくれと言う。
香坂一という花嫁は、ずいぶん難しい条件を持ち込んだものだった。
「ございません」
「随分聞き分けがいい」
少し皮肉の混じった言い方になったが、一は顔色を変えなかった。
「私にも都合のよい縁談ですので」
「都合がいい?」
「はい」
一はそこで初めて、言葉を探すように視線を伏せた。それまで淀みなく答えていた女が黙ったことで、かえって景の意識が向く。
「私からも、二つお願いがございます」
「言ってみろ」
「一つ目は、妻として必要な場面を除き、私生活では私に関わらないでいただきたいのです」
予想していなかった条件だった。
「朝霧家の妻として果たすべき役目は果たします。公の席への同伴が必要であれば従いますし、家の行事にも出席いたします。後継ぎについても、先ほど申し上げた通り異存はございません」
一はそこで言葉を切り、景を見た。
「ですが、それ以外の時間については、互いに干渉せず過ごしたく存じます」
「理由を聞いても?」
「婚姻の目的には不要かと思います」
柔らかな言葉ながら、拒絶は明瞭だった。
景は少し意外に思ったが、腹を立てるほどのことでもない。自分が愛情を与えないと言っておきながら、相手に親しさを求める方が筋違いだろう。
「分かった。もう一つは」
今度の沈黙は長かった。
一は膝へ置いた手を見つめている。何かを口にすれば戻れなくなると知りながら、それでも言わずにはいられない者の顔に見えた。
景が催促せず待っていると、一は顔を上げた。
「この婚姻が終わりましたら、私のことはお忘れください」
景はすぐには意味を取れなかった。
「忘れる?」
「はい」
「何を」
「私を、です」
一の声は変わらない。
「子が生まれ、私が朝霧家を去った後は、消息を調べないでください。どこで何をしていても関わらず、思い出すこともなく、そのような女がいたこと自体を忘れていただきたいのです」
奇妙なことを言う女だ、と景は思った。
離縁後に接触しないという条件なら理解できる。だが、人間の記憶まで契約書へ書き込むことはできない。
「それは約束できない」
一の顔に、初めて明確な動揺が出た。
「なぜですか」
「忘れるかどうかは、俺にも分からないからだ。離縁後に君の生活へ関与しないことなら約束できる。だが、記憶から消すという条件を守れる保証はない」
「忘れていただきたいのです」
「どうして、そこまで忘れられたい」
景が問うと、一は黙り込んだ。
目元に走った感情は、すぐに消えた。何だったのかを読み取れるほど長くは残らなかったが、景は妙な引っ掛かりを覚えた。
「その方が、お互いのためです」
「俺のためでもあると?」
「はい」
「俺が何を思うかまで、君が決めるのか」
一は返答に窮したらしく、静かに目を伏せた。
「……申し訳ございません」
謝る声にも、条件を撤回する気配はない。
景はしばらく彼女を眺めた。
病弱で、長く人目を避けて育った令嬢。父親からはそう聞かされている。
それにしては、いくつかの点で妙だった。
景を前にしても怯まない。家同士の都合による婚姻を、感傷ひとつ交えず理解している。相手の出方を窺って言葉を変えるのではなく、自分の要求を端的に示す。
何より、見覚えのある沈黙をする。
「分かった」
一が顔を上げる。
「必要以上に君へ関わらない。離縁後に消息を追わないことも約束する。ただし、忘れるという部分だけは引き受けられない」
「……承知いたしました」
一はそれ以上、食い下がらなかった。
話は終わったと判断し、景が立ち上がる。一も続いて腰を上げた。その拍子に、景の袖が脇の盆へ触れた。
茶碗が傾き、縁から茶が零れかける。景が手を出すより先に、一が動いた。右手で茶碗を受け、左手では同時に盆を押さえている。
茶托が触れ合う小さな音がしただけで、床へ落ちたものは一滴もなかった。
一自身も、自分の動きへ驚いたのか、茶碗を持った姿勢のまま止まる。
景はその手を見た。
「随分、反応がいい」
「……偶然です」
「病弱だったそうだが」
「今は、以前より身体も丈夫になりましたので」
そう言って、一は茶碗を盆へ戻した。
今度の動作は意識しているせいか、ひどく慎重だった。
景には、その方が不自然に見えた。
同じ光景を以前にも見たことがある。
いつだったか、遠征先の天幕で地図を広げていた時だった。景が肘で硯を倒しかけると、隣にいた伊吹が片手で硯を取り、もう片方で書類を押さえた。
『閣下は、ご自身の周囲をもう少しご覧になった方がよろしいかと存じます』
呆れた声まで思い出した。
「朝霧様」
一に呼ばれ、景は過去から引き戻された。
「何でもない」
そう答えて襖へ向かう。
兄妹なのだから、似ていて当然なのだろう。
仕草が似ることもある。声の調子が似ることもある。そう考えれば済む話だった。
香坂伊吹は死んでいる。景自身が葬儀に出たうえ、墓まである。死人が女の姿で妹を名乗り、自分の前に座っているなどという馬鹿げた話を、考える理由はどこにもない。
襖を開けると、廊下の先から香坂家当主夫妻と仲人が戻ってくるのが見えた。
この縁談は成立するだろう。
愛情を求めない男と、関わられることを望まない女。子を得れば終わる婚姻としては、むしろ都合がいい。
余計な期待をせず、余計な情も持たず、定められた役目だけを果たせばよい。
そういう結婚になるはずだった。
座敷を出て廊下を進みながら、景は先ほど一から告げられた条件を思い返した。
――私のことはお忘れください。
人ひとりを忘れることなど、かつての景なら難しいとは思わなかった。
軍人は人を失う。戦場へ出れば、昨日まで言葉を交わしていた人間が翌日にはいなくなることも珍しくない。別れを一つ一つ抱えていては前へ進めないから、死者は記憶の中へ送り、生者は自分の仕事へ戻る。
そうしてきたつもりだった。
ところが伊吹についてだけは、一年経っても日常から消えなかった。
新しい副官が書類を机に置けば、その順番が違うと思う。茶を飲めば、伊吹の淹れ方より濃いと気づく。廊下の向こうで軍靴の音がすれば、一瞬だけ聞き慣れた足取りを探す。
悲嘆に暮れているわけではない。死者を恋しがっているわけでもない。
ただ、十年かけて身体に馴染んだ仕事の呼吸が、ひとつ欠けたまま戻らない。
香坂伊吹とは、景にとってそういう男だった。
忘れるつもりなどなかった。だが、忘れられないとも思っていなかった。
時間が経てば、人の不在くらいは日常へ馴染むものだと考えていた。
だが、現実は少し違ったらしい。
廊下の途中で、景は一度だけ足を止めた。
振り返れば、閉じた襖の向こうに、死んだ副官によく似た女がいる。子を産めば去り、その後は自分を忘れてくれと言った女が。
「……妙な話だ」
独り言は、開け放たれた廊下から庭へ流れていった。
一年かけても片腕の不在に慣れることのできない男を相手に、記憶から消えてくれと言う。
香坂一という花嫁は、ずいぶん難しい条件を持ち込んだものだった。



