香坂伊吹は、一年前に死んだ。
少なくとも、帝都で暮らす人々にとっては、それが疑いようのない事実として扱われている。
軍府には正式な死亡届が提出され、香坂家では葬儀が営まれ、先祖代々の墓所には伊吹の名を刻んだ石まで立てられた。生前に親交のあった者から弔問の書状も届き、軍で使用していた私物の一部は遺品として整理されたというから、これほど入念に死者となった人間も珍しいのかもしれない。
ただし、その香坂伊吹本人は今も生きており、鏡台の前に座って、女中に髪を結われていた。
「少しお顔を上げてくださいませ、いち様」
呼ばれるまま顎を上げると、鏡の中にいる女も同じ動きをする。
肩を越えて伸びた黒髪は一年前までの自分にはなかったもので、今日も女中の手によって丁寧に梳かれ、後頭部でゆるくまとめられている。白粉は肌の色を整える程度に抑えられ、口元にも薄い紅しか差されていないため、華やかというより端正な仕上がりだった。
それでも、一には鏡の中の人間が他人のように見えることがある。
顔そのものは、昔から毎朝見ていたものと同じである。
目も鼻も、眉の形も変わってはいない。髪が伸び、化粧を施し、女物の着物へ袖を通したところで、骨格まで別人になるはずがなかった。
変わったのは、自分を見る時に周囲が用いる言葉の方だった。
香坂家嫡男。帝国軍中尉。朝霧少将付副官。
それまで一の周囲にあった肩書きは、一年前を境にすべて失われた。
今では誰も、彼女を伊吹とは呼ばない。
女中が化粧道具を片づけている間、一は膝に置いた両手を見下ろした。
手首から掌の半ばまで、白い包帯が巻かれている。
朝霧家との縁談が決まってから、外に出る時には必ず巻くよう父に命じられたもので、表向きの理由は、幼い頃から身体が弱く、皮膚も傷みやすいためということになっていた。
本当の理由は、その下にある。
十年以上も剣を握り続けた掌には、指の付け根から掌の中央にかけて硬い皮膚が残っていた。軍刀だけでなく、木剣を握った幼少期から積み重ねてきたもので、女中がどれほど薬を塗っても短期間では消えず、右手には古い裂傷の痕まで薄く残っている。
病床で育った華族令嬢の手ではなかった。
もっとも、軍に戻ることを禁じられてから一年が経ち、以前より柔らかくなった部分もある。毎朝行っていた鍛錬も許されず、剣に触れることさえなくなれば、身体から軍人だった痕跡はいずれ消えていくのだろう。
一は包帯の端へ指を掛け、緩んでいないことを確かめた。
「本日はもう、お出掛けのご予定もございませんので、お包帯をお外しになってもよろしいのではありませんか」
女中が背後から声を掛けてきたため、一は鏡越しにその顔を見る。
「このままで構いません」
「ですが、蒸れてしまいます」
「慣れていますから」
「一様は昔から、そのように我慢ばかりなさいますね」
昔から、という言葉に、一の指が止まった。
女中は自分の失言に気づいたらしく、慌てて口を噤む。
この家で、現在の一に「昔」があってはならない。
香坂家の長女は幼少期から身体が弱く、人目を避けて遠方の別邸で療養していたことになっている。そのような娘が、本邸に長く仕える女中と過去を共有しているはずはなく、まして軍服を着ていた頃からの習慣を知っているなどという話は、誰かに聞かせられるものではなかった。
「誰もいませんから、気にしなくていいですよ」
一がそう告げると、女中は申し訳なさそうに頭を下げた。
「失礼いたしました」
「あなたまで謝ることではありません」
むしろ、この家で今も自分を以前と同じ人間として見てくれる者が残っているだけ、恵まれているのかもしれない。
鏡台の脇には、先日の顔合わせで着た藤鼠の着物が畳まれていた。
その布地を目にしただけで、向かいに座っていた男の顔が思い浮かぶ。
──朝霧景。十年間、上官として仕えた人であり、数週間後には夫となる人だった。
少なくとも、帝都で暮らす人々にとっては、それが疑いようのない事実として扱われている。
軍府には正式な死亡届が提出され、香坂家では葬儀が営まれ、先祖代々の墓所には伊吹の名を刻んだ石まで立てられた。生前に親交のあった者から弔問の書状も届き、軍で使用していた私物の一部は遺品として整理されたというから、これほど入念に死者となった人間も珍しいのかもしれない。
ただし、その香坂伊吹本人は今も生きており、鏡台の前に座って、女中に髪を結われていた。
「少しお顔を上げてくださいませ、いち様」
呼ばれるまま顎を上げると、鏡の中にいる女も同じ動きをする。
肩を越えて伸びた黒髪は一年前までの自分にはなかったもので、今日も女中の手によって丁寧に梳かれ、後頭部でゆるくまとめられている。白粉は肌の色を整える程度に抑えられ、口元にも薄い紅しか差されていないため、華やかというより端正な仕上がりだった。
それでも、一には鏡の中の人間が他人のように見えることがある。
顔そのものは、昔から毎朝見ていたものと同じである。
目も鼻も、眉の形も変わってはいない。髪が伸び、化粧を施し、女物の着物へ袖を通したところで、骨格まで別人になるはずがなかった。
変わったのは、自分を見る時に周囲が用いる言葉の方だった。
香坂家嫡男。帝国軍中尉。朝霧少将付副官。
それまで一の周囲にあった肩書きは、一年前を境にすべて失われた。
今では誰も、彼女を伊吹とは呼ばない。
女中が化粧道具を片づけている間、一は膝に置いた両手を見下ろした。
手首から掌の半ばまで、白い包帯が巻かれている。
朝霧家との縁談が決まってから、外に出る時には必ず巻くよう父に命じられたもので、表向きの理由は、幼い頃から身体が弱く、皮膚も傷みやすいためということになっていた。
本当の理由は、その下にある。
十年以上も剣を握り続けた掌には、指の付け根から掌の中央にかけて硬い皮膚が残っていた。軍刀だけでなく、木剣を握った幼少期から積み重ねてきたもので、女中がどれほど薬を塗っても短期間では消えず、右手には古い裂傷の痕まで薄く残っている。
病床で育った華族令嬢の手ではなかった。
もっとも、軍に戻ることを禁じられてから一年が経ち、以前より柔らかくなった部分もある。毎朝行っていた鍛錬も許されず、剣に触れることさえなくなれば、身体から軍人だった痕跡はいずれ消えていくのだろう。
一は包帯の端へ指を掛け、緩んでいないことを確かめた。
「本日はもう、お出掛けのご予定もございませんので、お包帯をお外しになってもよろしいのではありませんか」
女中が背後から声を掛けてきたため、一は鏡越しにその顔を見る。
「このままで構いません」
「ですが、蒸れてしまいます」
「慣れていますから」
「一様は昔から、そのように我慢ばかりなさいますね」
昔から、という言葉に、一の指が止まった。
女中は自分の失言に気づいたらしく、慌てて口を噤む。
この家で、現在の一に「昔」があってはならない。
香坂家の長女は幼少期から身体が弱く、人目を避けて遠方の別邸で療養していたことになっている。そのような娘が、本邸に長く仕える女中と過去を共有しているはずはなく、まして軍服を着ていた頃からの習慣を知っているなどという話は、誰かに聞かせられるものではなかった。
「誰もいませんから、気にしなくていいですよ」
一がそう告げると、女中は申し訳なさそうに頭を下げた。
「失礼いたしました」
「あなたまで謝ることではありません」
むしろ、この家で今も自分を以前と同じ人間として見てくれる者が残っているだけ、恵まれているのかもしれない。
鏡台の脇には、先日の顔合わせで着た藤鼠の着物が畳まれていた。
その布地を目にしただけで、向かいに座っていた男の顔が思い浮かぶ。
──朝霧景。十年間、上官として仕えた人であり、数週間後には夫となる人だった。



