「それから、契約が終わったら自分を忘れろと言われた」
宵の指が机の上で止まった。
「忘れろ?」
「ああ」
「変わった人だね」
「俺もそう思う」
「約束したの?」
「していない」
宵が目を細める。
「どうして」
「離縁後に関わらないことなら約束できる。記憶まで相手に決められる筋合いはない」
「正論だね」
宵は笑いながら椅子から立った。紙袋は机に残したままである。
「帰るのか」
「帰れって三回くらい言われたからね」
「茶を持っていけ」
「結婚祝いだから置いていく」
「要らん」
「奥さんに飲ませればいいでしょう」
扉へ向かった宵は、取っ手へ手を掛けたところで振り返った。
「朝霧」
「何だ」
「今度、会わせてよ。伊吹の妹」
「なぜ」
「少し興味がある」
景が眉を寄せると、宵はいつもの掴みどころのない笑みに戻った。
「君に忘れてほしいって頼んだ女性なんて、面白そうだから」
「余計なことを言うな」
「何も言わないよ。たぶん」
「その一言で信用できなくなった」
「ひどいなあ」
扉が閉じる。執務室に静けさが戻ったあとも、景はしばらく報告書へ目を落とさずにいた。
手帳を引き出しへ戻す。閉めたあとで、先日の女の顔が思い浮かんだ。
似ている。顔立ちが同じなのではない。声も違う。女と男を見間違えるような容姿でもない。
それでも、十年間傍に置いた人間にしか分からない何かが、一の中にはあった。
兄妹なのだから似ることもある。その程度の話なのだろう。
香坂伊吹は死んでいる。景自身が葬儀に出て、墓へ下ろされる棺を見届けた。
死者が姿を変えて自分の前へ現れるなどという話を疑う理由は、今のところ何ひとつない。
それよりも景には、答えの出ない別の疑問が残っていた。
妹がいることさえ知らなかった。あれほど毎日傍にいながら、伊吹がどんな家で暮らし、何を考えて軍府を出ていったのかも知らない。
相手の能力も癖も、剣の間合いまで知っていた自分が、香坂伊吹という人間について、実際にはどれほどのことを知っていたのだろう。
景は積まれた書類から一通を抜き取り、最初の頁へ目を落とした。
答えを考えたところで、死者は何も教えてくれない。
それでも、その問いだけは、雨の日の墓前から一年を経ても消えずに残っていた。
宵の指が机の上で止まった。
「忘れろ?」
「ああ」
「変わった人だね」
「俺もそう思う」
「約束したの?」
「していない」
宵が目を細める。
「どうして」
「離縁後に関わらないことなら約束できる。記憶まで相手に決められる筋合いはない」
「正論だね」
宵は笑いながら椅子から立った。紙袋は机に残したままである。
「帰るのか」
「帰れって三回くらい言われたからね」
「茶を持っていけ」
「結婚祝いだから置いていく」
「要らん」
「奥さんに飲ませればいいでしょう」
扉へ向かった宵は、取っ手へ手を掛けたところで振り返った。
「朝霧」
「何だ」
「今度、会わせてよ。伊吹の妹」
「なぜ」
「少し興味がある」
景が眉を寄せると、宵はいつもの掴みどころのない笑みに戻った。
「君に忘れてほしいって頼んだ女性なんて、面白そうだから」
「余計なことを言うな」
「何も言わないよ。たぶん」
「その一言で信用できなくなった」
「ひどいなあ」
扉が閉じる。執務室に静けさが戻ったあとも、景はしばらく報告書へ目を落とさずにいた。
手帳を引き出しへ戻す。閉めたあとで、先日の女の顔が思い浮かんだ。
似ている。顔立ちが同じなのではない。声も違う。女と男を見間違えるような容姿でもない。
それでも、十年間傍に置いた人間にしか分からない何かが、一の中にはあった。
兄妹なのだから似ることもある。その程度の話なのだろう。
香坂伊吹は死んでいる。景自身が葬儀に出て、墓へ下ろされる棺を見届けた。
死者が姿を変えて自分の前へ現れるなどという話を疑う理由は、今のところ何ひとつない。
それよりも景には、答えの出ない別の疑問が残っていた。
妹がいることさえ知らなかった。あれほど毎日傍にいながら、伊吹がどんな家で暮らし、何を考えて軍府を出ていったのかも知らない。
相手の能力も癖も、剣の間合いまで知っていた自分が、香坂伊吹という人間について、実際にはどれほどのことを知っていたのだろう。
景は積まれた書類から一通を抜き取り、最初の頁へ目を落とした。
答えを考えたところで、死者は何も教えてくれない。
それでも、その問いだけは、雨の日の墓前から一年を経ても消えずに残っていた。



