【長編版】偽りの花嫁ー帝都婚姻録ー

 女が顔を上げた時、朝霧景(あさぎりけい)は、目の前にある光景を正しく理解するまでに少し時間を要した。

 庭に面した座敷には午後の光が入り、障子の桟が畳の上へ淡い影を落としている。床の間には白い桔梗が活けられ、香坂家の当主夫妻と仲人を務める老伯爵が、縁談の席にふさわしい慎ましさで言葉を交わしていた。

 どこにも異変などない。景自身も、この場に足を運ぶまで、今日という日を特別なものだとは考えていなかった。

 朝霧家には後継ぎが要る。そのために妻を迎える。必要なのはそれだけで、相手の容姿にも人柄にも、格別の期待を抱いてはいなかった。

 だから、香坂家の長女だという女が顔を上げた瞬間、死者の名が脳裏に浮かんだことの方が異常だった。

 ――伊吹。

 口には出さなかった。出すはずもない。
 香坂伊吹は一年前に死んだ。
 軍府に届けられた死亡届にも、香坂家から寄越された書簡にも、病没と明記されていた。葬儀にも参列したし、雨に濡れた墓碑に刻まれた名も自分の目で確かめている。
 今この瞬間、景の向かいに座っているのは、その妹だった。

「こちらが長女の(いち)にございます」

 香坂家当主が紹介すると、女は両手を畳についた。

「香坂一と申します。本日は、このような席を設けていただき、ありがとうございます」

 顔立ちそのものが、伊吹と酷似しているわけではない。
 伊吹は男としては細身で、骨格にもどこか中性的なところがあったが、目の前の女は髪を後ろに流し、淡い藤鼠の着物を身につけている。薄く化粧を施した面差しにも、男と見誤るようなところはなかった。

 それでも景の視線は、しばらく彼女から離れなかった。
 声の高さではない。目鼻立ちでもない。もっと説明のつかない部分が似ている。

 相手を正面から見ながらも、必要以上に感情を見せない目つき。挨拶を終えて言葉を待つ間の取り方。背筋を伸ばして座り、手を膝の上で揃えた姿勢にも、妙な既視感があった。

 十年という歳月の間、景は伊吹をすぐ傍に置いていた。
 副官として仕えるようになった当初から、愛想のある男ではなかった。必要なことだけを言い、余計な口を利かず、命じた仕事は期日より前に片づけてくる。景が無茶をすれば眉を顰め、軍議が長引けば何も言わず茶を置き、戦場では一度も確認せず背を預けられた。

 親友という言葉は似合わない。兄弟とも違う。
 だが、伊吹がいれば仕事が滞らなかった。命令の半分まで口にすれば残りを理解し、景自身が忘れていた案件まで拾い上げておく。長年使い込んだ利き手と同じで、そこにあることを意識する必要すらない存在だった。
 失ってから初めて、それがどれほど稀有なことだったのかを知った。

「景殿」

 香坂家当主に呼ばれ、景はようやく女から目を外した。

「娘は幼少の頃より身体が弱く、長く別邸にて療養しておりました。社交の経験にも乏しく、朝霧家へ嫁ぐ者として至らぬところもございましょうが――」
「それは問題ありません」

 相手が言い終える前に、景は答えた。社交界でどの程度うまく立ち回れるかなど、婚姻を決める材料にはならない。朝霧家が求めているものは別にある。

「本人と話をしてもよろしいでしょうか」

 香坂家当主の視線が娘に向いた。ほんの一瞬ではあったが、その目には父親が娘の意思を確かめる以上のものがあった。言葉を選べ、余計なことを話すな。そう念を押しているようにも見えたが、景は深く考えなかった。
 一は父親を見返すことなく、静かに頭を下げた。

「もちろんにございます。では、しばらく席を外しましょう」

 仲人と夫妻が座敷を出ると、襖の閉じる音だけが残った。
 庭から水音が聞こえている。敷石の脇を流れる細い遣水に陽が射し、反射した光が障子で揺れている。縁談の席にしては、奇妙なほど落ち着いた静けさだった。

 一は姿勢を崩さなかった。景もすぐには口を開かず、改めてその姿を見る。視線に気づいているはずなのに、居心地悪そうにする様子もない。

「話はどこまで聞いている」
「この縁談についてでしょうか」
「そうだ」
「朝霧家に後継ぎが必要であり、そのための婚姻であることは父より伺っております」

 景は眉を寄せた。
 答え方まで妙に簡潔だ。香坂家の娘なのだから兄に似ることくらいはある。そう考えれば済む話なのに、伊吹を知る者にしか分からない細部ばかりが、いちいち記憶に引っ掛かる。

「承知しているなら話は早い。俺は、妻との間に一般的な夫婦関係を築くことを望んでいない」

 一の表情には変化がなかった。

「朝霧家を継ぐ子が必要だ。そのために結婚する。子が生まれれば、婚姻関係を続ける理由もなくなる」
「離縁なさる、ということですか」
「ああ」

 景はことさら柔らかく言うつもりもなかった。

「離縁後の生活については朝霧家が保証する。実家へ戻りたくないのであれば住まいを用意するし、生活に困らないだけの財も渡す。ただし、子は朝霧家に残してもらう」

 そこで、一の手が止まった。膝の上で置かれていた指先が、着物の生地を僅かに押さえる。
 景は気づいたものの、問いはしなかった。

「それから、愛情を求められても応えることはできない。俺も君に、それを求めない」

 言ってしまえば、ずいぶん身勝手な契約である。
 相手の家格を考えれば、もっと条件の良い縁談はいくらでもあったはずだ。それでも香坂家が娘を差し出した理由について、景は詮索する気になれなかった。

 家同士の婚姻など、多くは似たようなものだ。
 利益があるから結ぶ。用が済めば形を変える。人の感情など、最初から勘定に入っていない。

「以上を受け入れられるなら、この話を進める」

 一は黙っていた。
 庭を渡る風が障子を鳴らし、床の間の花が微かに揺れる。
 断るのなら、それで構わない。朝霧家には別の候補もいる。景自身、この女でなければならない理由など持っていなかった。
 そう考えていたところで、穏やかな声が返ってきた。

「承知いたしました」

 景は弾かれたように一を見た。

「本当に分かっているのか」
「はい。私は朝霧家へ嫁ぎ、後継ぎとなる子を産む。子が生まれれば離縁し、その後の生活については朝霧家から保証を受ける。ただし子は朝霧家に残す。朝霧様は私に愛情を求めず、ご自身もそれを与えるおつもりはない。それが条件ですね」

 まるで軍議の席で命令内容を復唱する副官のようだった。
 不意にそんな考えが浮かび、景は自分でも不愉快になる。死んだ人間を、その妹にいちいち重ねて何になるというのか。