巨大な石造りの繭の中で、忙しなく言葉の応酬が続いていたのを、僕は耳にしていた。
そのガキを警察に突き出せと色めき立つアルカ社の社員たち。それをなだめる和田さんの声。似たようなあれやこれやが飛び交って、僕らの介在を許さなかった。
いや、違う。僕とアイトはその最中────ふたりだけで会話をしていた。
「元カレってなんだよ」
「関係ねーだろ、おまえには」
たったこれだけ。言葉にはださない。視線と視線が結ばれて、瞬きもせぬまま、そのふたつのセリフだけが延々とラリーを続けていた。
ポイントはどちらにもつかない。テニスの八百長試合のような、無味乾燥なボールの往来に観客はやがてあくびする。
「さて、これで静かになったね」
僕らは同時にはっとして”いま“に引き戻された。だが結ばれている視線はなかなかほどけず、互いに引き際を失っていたが、根負けしたアイトがちいさくかぶりを振ってカシマさんに向き直った。
「あれ、他の連中は?」
見れば、古墳の中は僕ら3人だけになっている。
「おやおや、ふたりだけの世界にいたみたいだね。皆には退出いただいたよ。ここからはアルカ社と片倉家の戦時協定を結ぶ場だからね」
「なにいってんだ、カシマさん」
アイトは吐き捨てるように言った。
「これは片倉家の仕事だ。アルカは手ぇ引いて、とっとと出てけ」
「残念ながら、それを命令できる権利はキミにない。片倉家に関する権利は、現在アルカ社が保有している」
「俺の母親から紙切れ買っただけだろうが。色までてめえらのもんになったわけじゃねえ」
「その通りだよ」
あっさりと認められたことで、アイトの眉が動いた。
「法律は、誰が権利を所有しているかを決められる。けれど、どちらの色が本物なのかまでは決められない」
「決まってんだろ。守矢十色は、守矢でしか作れねえ」
「なぜ?」
「守矢の土と、水と、石と、蚕。それを片倉の人間が混ぜて、やっと色になるからだよ」
「では、その土地が失われたら?」
「……あ?」
「災害で土壌が変わる。採掘場が崩れる。蚕が病で死ぬ。あるいは、作り方を知る最後の職人が、誰にも伝えないまま亡くなる。その瞬間、守矢十色は世界から消える。それでも伝統を守ったと言えるのかな」
「消える前から、てめえらが別物にすり替えていい理由にはならねえだろ」
「だから、我々は消えるのを待たない」
カシマさんは穏やかな口調のまま、アイトの怒りを受け止めていた。
「インクリボンと同じだよ」
その言葉に、僕は顔を上げた。
「インクリボンは、人間の人生すべてを決めるものではない。未来にある無数の道の中から、本人や他人へ取り返しのつかない傷を残す“不正解”を、先に明示するものだ」
AとB、ふたつの道。
Aへ進めば、なにごともなく家へ帰れる。Bへ進めば事故に遭い、あるいは誰かを轢いてしまう。
和田さんが車内で話していたことを思い出す。
「我々が伝統技術に対して行っていることも、それに近い。ひとつの土地、ひとつの素材、ひとりの職人だけに依存し、やがて失われる道を不正解と定める。そして、その道を避けても同じ果実を残せる方法を探す」
「勝手に不正解にすんなよ」
アイトの声が、低くなる。
「土が変わることも、人が死ぬことも、技が消えることも。そこまで含めて、その色が生きてきたってことだろ。同じ名前を貼りつけたって……そいつはもう、別のもんだ」
ふたりの視線が衝突した。
どちらも譲らない。
同じものを未来へ残そうとしているはずなのに、残したいものが違っている。
アイトが守ろうとしているのは、色が生まれるまでの傷も、失敗も、土地も人も含めた物語。
カシマさんが守ろうとしているのは、それらが失われたあとにも、誰かの手へ渡せる果実。
「なら、証明しよう」
カシマさんが、先に視線を外した。
「アルカ社が作ったものが、名前だけを借りた別物なのか。それとも、土地と血筋から解放された守矢十色なのか」
カシマさんは天井を見上げた。
そこには中央の観音がいる。そして左右には、色を失いかけた二つの観音。
「我々の正解と、キミたちの正解。神はどちらを選ぶのか」
その口元に、静かな笑みが浮かぶ。
「御前試合。と、いこうじゃないか」
*
────御前試合。
カシマさんが持ちかけたのは、アルカ社と片倉家による「色合わせ勝負」だった。
アルカ社はすでに、守矢十色のすべてを揃えているという。
アイトの母親から買い取った資料を解析し、守矢の土地に点在する原料の採取場所まで特定した。その上で、土地に根差した素材のすべてをあえて用いず、世界中のどこでも手に入る、安価でありふれた原料へ置き換えたのだ。
守矢十色を守矢から解き放ち、世界のどこでも、誰にでも再現できる技術にする。
それは守矢十色だけに限った話ではない。戦争や災害、少子高齢化。あるいは、たったひとりの職人の死や事故によって失われてしまう技を、土地や血筋の外側へ保存する。伝統が生み出した「果実」を未来へ残すことが、アルカ社の目的だった。
けれど、アイトに言わせれば、そんなものは守矢十色どころか、顔料ですらないらしい。
どちらの主張が正しいのか。決めるのはアイトでも、カシマさんでもない。
「タツキくん。キミにはもう話したね。審判を任される神とは、すなわち────」
微生物ですか。僕の返答に、カシマさんは満足そうに微笑んだ。
「スノードームが消えるまでに、左右の観音を完成させる。一方にはアルカ社の十色を。もう一方には、アイトくんが用意した十色を使う。彩色は取り決め通り、十一代目・美耽二郎ということで」
使用する下地も、膠も、顔料の量も、塗り重ねる回数も同じ。
実際に天井へ色を置く者も耽二郎先生に委ねる。これで左右に差が生まれない条件を整えるという。
「判定は水没後だ。スノードームが消えれば、湖水が戻り、この古墳は再び湖に飲まれる。微生物が顔料を受け入れた観音には保護層がつくられる。受け入れられなかった色は、湖へと失われていく」
そして、最後まで残った絵が正解となる。
人間の目ではなく。
片倉家の名前でも、アルカ社の技術でもなく。
湖の底に棲む、微生物に選ばれた色が。
「アイトくんの観音だけが残れば、キミの勝ちだ。その場合、アルカ社が保有する片倉家に関する権利と資料、そのすべてをキミへ譲渡する」
アイトの眉が、わずかに動いた。
「……全部だと?」
「キミのお母上がよこした全てを、ね。片倉アイト本人へ譲渡する」
「守矢十色からも手を引くんだな?」
「ああ。キミだけの色として閉じ込めてくれて構わないよ」
カシマさんは、はっきりと言い切った。
「反対に、アルカ社の観音だけが残れば、キミの敗北だ。権利も資料も、引き続き我々が保有する」
「両方残ったら?」
「引き分け。両方とも残らなかった場合も、勝者なしとする。その二つの場合は現行の法律に従い、権利関係は変更しない」
つまり、アルカ社が保持したまま。
アイトがすべてを取り戻すには、片倉家の顔料で描かれた観音だけを、湖の底へ残さなければならない。
「契約書を用意する。市にも立ち会ってもらおう」
「十色を揃えりゃいいんだな」
「期限までにね。一色でも欠ければ、その時点でキミの負けだ」
カシマさんには、焦りも迷いもなかった。
もう十色を揃えている者の余裕だ。
「では、いまより────」
「ちょっと待ってください!」
気づけば、僕はふたりの間に割って入っていた。部外者だ、門外漢だ。引っ込み思案の僕だ。
なのに、僕には確かめたいことがあった。それはどうしようもなく個人的でみっともない理由なのだが。
「カシマさん。ひとつ聞いていいですか?」
アイトが横顔を僕に向ける。その唇はきゅっと結ばれていた。
「この勝負、会社の意向ではないですよね? いいんですか? もしも負ければ、せっかく手に入れた権利を失うんですよ。お金も、かけた労力もバカにならないでしょう? なのに、カシマさんが独断で決めていいんですか?」
カシマさんは、ふっと微笑んだ。
ソファを引っ掻いた子猫に困惑しつつも、そのいじらしさに頬が緩むような。
言ってしまえば、およそ同じ種族に向ける表情ではなかった。
「キミはつまり、僕になんのメリットがあるのか。そう言いたいんだね?」
カシマさんは、アイトに歩み寄ってゆく。そして、彼の頭をそっと撫でた。
何度も、こうして可愛がってきたんだよ。と言わんばかりに。
「これが、理由だよ。キミだってそうだろ?」



