古墳という建築物は墓地である性質上、装飾に神話のモチーフを盛り込むことが多い。
とりわけ描かれるのは、女神の類が多いだろうけど。女神というのは、ほぼほぼ気性が荒いものだ。
それは”うちの女神“も同様なようで……。
「ヨカタじゃ話にならねえよ! 責任者だせ!」
アイトは、アルカ社の職員らしき男の胸ぐらを掴んでいた。
周囲の職員たちが両脇から引き離そうとするが、あんな細っこい身体のどこにそんな力があるのか。ひとりを振り払い、もうひとりの足を踏みつけ、なおも古墳の入口へ進もうとする。
「アイト! ちょっと落ち着こうよ!」
「触んなよ!」
背後から肩を掴んだ、その瞬間だった。
振り払われたアイトの指先が、僕の頬を走った。
「痛っ……!」
熱い。
遅れて、ひりつくような痛みが追いついてくる。
指で触れてみると、腹にうっすら血がついた。
アイトも気づいたのだろう。藍色の瞳がわずかに見開かれた。けれど、それも一瞬。アルカ社の職員が古墳へ資材を運び込もうとしたのを見て、すぐにそちらへ噛みついていった。
また近づけば、今度は爪だけでは済まないかもしれない。
僕は頬を押さえたまま、十歩ほど退散した。
古墳のそばに積まれた土嚢へ腰を下ろす。
アイトはまだ荒ぶっている。和田さんが割って入っても、職員が三人がかりで押さえても、収まる気配はない。
どうしたものか。その場にうずくまっていると、頭上から声が降ってきた。
「災難だったね。これを使って」
目の前に、白いハンカチが差し出されていた。雪よりも白く、きれいにアイロンの折り目がついている。
僕は礼を言って受け取り、頬へ当てながら立ち上がって振りむく。
そこには、スーツの上に、膝丈のロングコートを羽織った男が立っていた。
二十代半ばくらいだろうか。背は高く、肩から腰へ落ちるコートの線がすっきりとしている。灰色がかった淡い茶髪を後ろへ流し、彫りの深い目元には、青とも緑ともつかない色の瞳。
鼻筋の通った端正な顔立ちだけれど、冷たい印象はない。
騒ぎの渦中にいるというのに、彼の周囲だけ時間がゆっくり流れているようだった。
「うん。当分収まりそうにないな」
男は、アルカ社の職員を引きずり回すアイトを眺めると、困ったように微笑んだ。
それから僕へ視線を戻し、親しい相手を散歩へ誘うような調子で言った。
「古墳の中、興味ない?」
*
男は入口脇に置かれていたヘルメットをふたつ手に取り、そのひとつを僕へ渡した。
あまりにも自然な仕草だったので、この時点で彼がここに出入りする人間なのだと気づいてもよかったはずだ。
古墳へ入ると、外の喧騒は急速に遠ざかった。
通路は狭く、天井も低い。仮設照明に照らされた石壁は黒く濡れ、土と苔、それに長い年月を閉じ込めた水の匂いがした。
男は一度も足を止めない。
段差の位置も、天井が低くなる場所も知っているようで、振り返ることなく僕を奥へ導いていく。
やがて通路の先に、白い光が見えた。
最後の段差を越えた途端、視界が開ける。
「わァ……」
思わず、声が漏れた。
古墳の内部は、外から想像していたよりもはるかに広かった。
学校の小ぶりな体育館ほどもある石室。その天井は高く、仮設照明の光が届かない場所は、夜空のような暗がりに沈んでいる。
背後から、ガシャーン! と派手な音が聞こえた。
アイトだろうか。今度はなにを倒したのだろう。
気になって入口を振り返る僕に、男は頭上を指し示した。
促されるまま、顔を上げる。
────息を呑んだ。
緩やかな弧を描く天井一面に、巨大な三体の観音像が描かれていたのだ。
中央の観音が、伏せた瞼で地上を見下ろしている。
わずかに持ち上がった口元。胸元で重ねられた両手。幾重にも重なる衣が雲のように広がり、天井そのものを覆い尽くしていた。
その左右にも、同じほど大きな二体の観音がいる。
ただし、こちらはほとんど色を失っていた。顔も、衣も、手にしたものも。薄い輪郭だけを残し、白い幽霊のように中央の観音へ寄り添っている。
絵を見上げているという感覚ではなかった。
僕らのいる石室ごと、三体の観音の手のひらに乗せられているようだった。
ただただ圧倒されていた僕に、隣の彼は自分の家の一室でも案内するように、天井画について説明してくれた。
中央の観音が描かれたのは、左右の二尊よりもずっと古い時代であること。
何百年か前、この地で大規模なスノードーム現象が起き、湖底の古墳が現れたこと。その時、十七歳の顔料師と、同じく十七歳の絵師が古墳へ入り、中央の観音を挟むように二尊を描き足したこと。
「そういった経緯もあり、文化財に指定されているのは中央の観音のみなんだ。言い方は悪いけれど、横の二尊は落書きという扱いでね。だから修復対象も本来なら中央のみでいい。けれど、そもそもその中央観音は修復すら必要とせず、永遠にその色を保つと言われている」
「永遠……?」
「そう。秘密は顔料と微生物だ」
観音を彩る、片倉家に伝わりし十種類の秘伝の顔料。
それは────守矢十色。
はじめて耳にする名前だった。アイトからも聞いたことがない。
「だが、守矢十色は中央観音の顔料を模したものなんだ。つまり、左右の観音に使われる色はレプリカということだね。だが、総称して守矢十色と呼んでいるわけだ」
さらに、この天井画には特殊な微生物が棲んでいるのだという。
微生物は顔料を餌として絵の上に集い、食べ尽くすより先に起こるスノードームの崩壊とともに眠りにつく。その際、彼らが身を守るために発生させるバイオフィルムが幾重にも重なり、水や泥から顔料を守る透明なバリアになる。
「不思議なことに、微生物たちは色を判別する能力を持っていてね。しかも相当なグルメで、守矢十色しか食べないときてる。この習性を利用して、スノードームが終われば湖に沈み、消えゆくはずの壁画を維持している。というわけさ」
男の説明には淀みがなかった。
足場の位置から、天井画の傷み、照明の当て方に至るまで。まるで、この古墳のすべてが彼の頭の中に収められているようだ。
「あの……ずいぶん詳しいですね。えっと……」
「あぁ、僕はこういう者だよ」
男はコートの内側へ手を入れ、名刺を一枚取り出した。
アルカ社文化財標準化プロジェクト。
カシマ・ジェイムズ・スチュアート。
名刺に記された社名を見て、僕は反射的に半歩退いた。
頬へ当てたままのハンカチにも、つい力が入る。
アルカ社。
いま、アイトが外で揉めている相手だ。
カシマさんは僕の警戒に気づいたはずだ。
けれど、距離を詰めることも、アルカ社を弁護することもしなかった。ただ、僕が名刺を読み終えるまで静かに待っている。
────大人の余裕。だろうか。
穏やかな声。物事をわかりやすく伝える知性。相手を急かさず、それでいて場の中心に立っていられる佇まい。
怒鳴らなければ自分の気持ちを伝えられない僕らとは、まるで違う。
なんか……カッコいいな。僕もこういう人になりたい。
「キミは、タツキくんだね?」
一瞬、心臓が跳ね、やがてその不可解さに脳が追いつき鼓動がうるさくなってゆく。
「え……?」
名刺を渡したのは彼の方で、僕はまだ自分の名前を告げていない。
どうして僕のことを────そう尋ねかけた時、石造りの通路から複数の足音が響いてきた。
「俺にやらせねえってんなら、壁画なんぞぶっ壊してやる!」
アイトが、アルカ社の職員をふたり引きずるようにして石室へ入ってきた。
両腕を掴まれているというのに、足取りは止まらない。
しかも、いつの間に手に入れたのか。右手には工事用のバールらしきものが握られている。
僕は慌ててアイトへ駆け寄った。
その身体と職員たちの間へ割って入り、掴んでいる手をひとつずつ退けていく。これでも格闘技を嗜む身だ。相手が大人であっても人体をいなす術は心得ている。
「タツキ、なにして……えっ」
自由になったアイトが、僕の背後を見た。
バールを握っていた手が、力なく下がる。
さっきまで燃え上がっていた怒りも、一瞬でどこかへ消えてしまった。
「カシマ……さん」
カシマさんもまた、懐かしい相手を迎えるように微笑んだ。
「久しぶりだね、アイトくん。最後に会ったのは、夏の終わりだったかな?」
「海外に行ったはずじゃ……日本に帰ってたんですか?」
「あぁ。これのためにね」
カシマさんは、頭上の三尊像を見上げた。
アイトが敬語を使っている。
先生や大人にだって、平気で「ヨカタ」と吐き捨てるアイトが。
夏の終わり……海外……。
僕の知らない言葉ばかりが、ふたりの間で当たり前のように交わされていく。
「アイト、カシマさんと知り合いなの?」
アイトはカシマさんから目を逸らした。
それから、僕をちらりと見る。
ほんの少しだけ唇を尖らせ、聞き取れないほどの声で答えた。
「……元カレ」



