17歳のスノードーム


 ピンポーン。
 工房に響いた間の抜けた電子音に急かされて、僕は玄関へ向かった。

「はい。どちらさまですか?」

 引き戸を開けると、雪の匂いをまとった老人が立っていた。
 守矢市の紋章が入った紺色の防寒着。薄くなった白髪の上には、粉砂糖をまぶしたみたいに雪が積もっている。脇に抱えているのは、くたびれた革鞄だった。

「和田さん?」
「おや、有賀くん。ずいぶん身長が伸びたね」

 守矢市役所に勤める和田さんだ。
 以前は教育課や芸術振興課にいて、いまではずいぶん偉い立場にいると聞いている。
 アイトのお祖父さんとは、古馴染みだということも。
 和田さんが工房を訪ねてくる日だけは、お祖父さんが戸棚の奥から上等な茶葉を出していたという。アイトが勝手に飲まないよう、いちばん高いところへ隠していたのだとか。

「アイトにご用、ですよね」
「うん……実は湖底古墳のことでね」

 その言葉に反応したのだろう。
 工房の奥から、ぱたぱたと足音が近づいてきた。

「誰だよ、タツキ」

 姿を現したアイトは、玄関に立つ和田さんを見るなり、わずかに眉を寄せた。

「……あれ、和田さん?」
「やあ、アイトくん。久しぶりだね」
「どもっす。んで、古墳がどうとかって」
「うん……修復に向けた現地調査が、今日から始まった。耽二郎先生も、おそらくは現場におられると思うが」
「……今日から?」

 さっきまで上機嫌だったアイトの声から、すっと温度が失われた。

「俺、なんも聞いてねえけど」
「やはりか。芸術振興課からなにか電話とか」
「来てないです。いつ修復に入るかも、材料を搬入するかも。なんにも」

 和田さんは、困ったように眉尻を下げた。
 それから革鞄を開き、中に詰め込まれた書類を探りはじめる。何枚か引き抜いては戻し、また別の束を取り出して。

「実はね。私も、今朝になって知ったことがある」

 和田さんが書類を折り曲げて言った。

「今回の修復には、アルカ社が関与している」

 アイトの顔から、さっと血の気が引くのが見えた。
 アルカ社。といえば、あのインクリボンを運営している、巨大企業のアルカ社のことだろうか?

「芸術振興課との間で、すでに合意が成立していた。アルカ社が顔料を提供し、それを使って壁画を修復する予定になっている」

 アイトは震えていた。そして掠れた声でようやく感情を吐露した。

「あの女……やりやがったな……!」

 アイトは着の身着のまま、雪の降る屋外へとびだした。見れば、靴すらも履いていない。

「アイト!」

 僕もまた追いかけて飛び出そうとすると、和田さんが僕の腕を掴んだ。

「車を出そう。片倉くんを連れ戻してくれ」

 
 *

 
 市役所の公用車は、白いワゴン車だった。和田さんが運転席、アイトと僕は後部座席に座った。
 フロントガラスへ落ちてくる雪を、ワイパーがせわしなく左右へ追いやっている。
 けれど、拭ったそばから新しい雪が貼りついた。まるで、世界が隠し事に耽っているようだ。

「悪かった」

 ハンドルを握る和田さんが、前を向いたまま言った。

「私も、耽二郎先生と片倉家の顔料で修復を進めるものだと思っていた。アルカ社との合意を知ったのは、つい今朝だ」

 赤信号で車が止まる。
 和田さんは、白く曇ったフロントガラスの向こうを見つめていた。

「役職が上がってからは、現場へ顔を出す機会がなくなったんだ。報告書は山ほど届くが、その山の下で何が起きているのかまでは見えない。今回の合意も、担当者同士で話が進んでいたらしい」

 アイトは余計に苛立ちを隠せないようだ。
 膝を小刻みに揺らしながら、流れていく雪景色を睨みつけている。

「あの……和田さん」
「ん、なんだね有賀くん」
「壁画は片倉家の顔料でしか再現できないのはご存知ですよね。それなのにどうして……アルカ社は片倉家と同じ顔料を持ってるってことですか?」

 僕が尋ねると、和田さんはバックミラー越しにこちらを見た。

「顔料そのものを所持しているかは不明だが。正式に買い取ったのは確かだ、片倉家が保有していた資料と権利を」
「誰から?」

 質問した僕ではなく、アイトが答えた。

「あのクソ女……俺の母親だよ」

 吐き捨てるような声だった。

「じいちゃんが死んだあと、あの女がちょくちょく現れるようになって。家も工房もどこかしこもひっくり返してめぼしいものを持ってきやがった。そん時も嬉しそうにこぼしてたよ、アルカ社がどうとかって」

 アイトが、まだ顔料の跡が残る左の手首に爪を立てた。そこに、じんわりと血が滲んでいた。
 
「アルカ社による取得には法的な問題がない。少なくとも、書類の上ではね」

 和田さんが補足する。

「だから、アイトが反対しても……止められないんですか?」
「アルカ社が片倉家の資料を研究し、再現顔料を作ること自体は止められない。市と芸術振興課が、その顔料を修復に採用することもだ」

 アイトが窓ガラスへ額を預けた。

「じいちゃんの色を見たこともねえ連中が。触ったことも、匂いを嗅いだこともねえ連中が……ふざけんな」

 その言葉を最後に、車内から会話が消えた。
 
 ワイパーだけが、右へ左へと動いている。
 暖房は効いているはずなのに、車内には工房よりも冷たい空気が沈んでいた。

「有賀くん」

 しばらくして、和田さんが僕を呼んだ。

「君は、どうしてスノードームの中へ残ったんだ?」
「えっ?」
「残留者名簿で名前を見た。御厨さんのところのお嬢さんと一緒にね」
「妹は彼氏と旅行気分です。僕は……アイトの仕事を手伝うために」
「そうか。もしかして、インクリボンに、顔料師の適性が出ていたのかな?」
「いいえ。そういうのじゃありません」
「そうか。では、自分で決めたんだね」
「はい」
「……キミは、自分のインクリボンは知っているんだろう?」
「いえ、僕はまだ。両親が開示してくれなくて」

 どうしていま、そんなことを聞くのだろう。
 訝しんでいると、和田さんは小さく息を吐いた。

「アルカ社といえば……インクリボンだからね」

 あぁ、やはりあの「アルカ社」なのか。
 エストニアに本社を置く、インクリボンを手掛ける巨大企業・アルカ社。その全貌は決してオープンにされないというが、芸術分野にも進出していたとは。

「インクリボンが普及して、もう十年ほどになる。民間企業のサービスとはいえ、私が教育課にいた頃は子ども本人よりも、親からの相談が多かった。予報されたとおりに育てるには、どの学校へ通わせればいいのか。どんな習い事をさせればいいのか。逆に、なにをさせてはいけないのか」

 遠くで、クラクションが鳴った。一瞬、視線が音を探して彷徨う。

「だが、インクリボンには、人生におけるすべてが予報されているわけじゃない。主にふたつだ」

 ワイパーの勢いが一段下がった。

「ひとつは、生まれ持ったデザイン。肉体的な特徴、性格の特性、セクシュアリティ。家系図から遺伝的要因まで。人によっては、そうしたものを鑑みた上で示される、職業的な適性も明示されてる。そしてもうひとつは……」

 信号が青に変わり、車がゆっくりと走り出す。

「不正解の予報だよ」

 不正解。
 その言葉は、すぐには意味を結ばず、車内をしばらく漂っていた。

「たとえば、ある人が自動車の運転を好きになるとしよう。その人は車を買い、休日にはドライブを楽しむようになる。やがて目の前に、ふたつの道が現れる。AとBだ」

 和田さんが、フロントガラスの先を指した。
 ちょうど前方で、道路が左右に分かれている。

「Aへ進めば、なにごともなく快適なドライブを楽しみ、無事に家へ帰ることができる。だがBへ進めば、事故に遭う。あるいは、人を轢いてしまうかもしれない。それによって、自分や誰かの人生に大きな傷を残すことになる」

 公用車は、左側の道へ入った。

「インクリボンにおける予報とは、そういったものだ。Bは不正解だから選ばない方がいいと、あらかじめ教えてくれる」

 事故を起こさなければ。
 誰かを傷つけなければ。自分も傷つかずに済めば。

「じゃあ、Bを選ばなければ……その人は、幸せになれるんですか?」

 和田さんは、すぐには答えなかった。
 ワイパーが一度。もう一度、雪を押し退ける。

「事故には、遭わずに済むだろうね」

 返ってきたのは、それだけだった。

 やがて家々が途切れ、視界が開けた。
 水を失った守矢湖の底に、仮設照明がいくつも灯っている。その中心には、土中から掘り起こされた古墳の入口と、白い作業用テントが見えた。

 テントのそばに停められた車には、見覚えのない社名が記されていた。

 ────ALCA。