第二章②
「えっ!? 店仕舞い……廃業ってこと!?」
僕の声が工房の壁へぶつかり、梁を駆け上がって、ロフトの天井まで震わせた。
さわさわ、さわさわ。休むことなく降っていた雨音が、ぴたりと止む。浅い木枠の中から、白い蚕たちがいっせいに頭をもたげて僕を見た────気がした。
「そう言えば……お金ないって言ってたよね……アイトって、靴下も穴いてるの履いてたりするしさ。家着も学校のジャージだしさ……私服もいつも同じやつ……」
「最後のはしょーがねーだろ。色がわかんねーんだから! ヨカタじゃねーんだよ!」
僕とアイトは、同じ高校に籍を置いている。
と言っても、僕が毎朝、決まった時間に校門をくぐる一方で、アイトが教室へ姿を見せるのは珍しい。たまに登校したかと思えば、ふらっといなくなるため、学校においてはかなりのレアキャラだ。
いまは春休みシーズンだから授業はないけれど(そもそもスノードーム現象真っ只中だ)。アイトは……進級できるんだろうか?
「そーじゃなくて。いや、金はないけど……とにかく他にやることがあんの!」
アイトは真空包装された顔料を木箱へ収めながら反論した。
完成した顔料は、そう時を置かずに専用の機械でパックして保存する。
彼はその作業が苦手なので(めっちゃ不器用で)、いつものように僕が勤しんでいたところ、彼が急に「今日からウチは閉店だ」と言ったのだ。
怪訝な表情そのままに、僕は使い終えた匙と乳鉢を流しへ運ぶ。会話しながらも片付けの手を緩めないのが、お互いに職人っぽくて僕は好きだ。
「やること?」
「耽二郎と一緒にな。修復の仕事っていうか。まあそんなとこ」
「え、耽二郎って……先生、スノードームの中にいるの?」
「おう。相変わらずの美少女おじさんだったわ。ありゃガチの妖怪だな」
十一代目・美耽二郎。
それは個人の名であると同時に、代々受け継がれてきた仏教美術修復師の名跡でもある。
金髪のおかっぱヘアに、白くきめ細かな肌。耳にはいくつものピアスがじゃらじゃら連なり、服装はいつだってパンクじみている。骨格も雰囲気も360度どこからどう見ても美少女なのだけれど、当人はれっきとした成人男性だ。
そんな、ちょっと変わった人だけれど。僕にとっては、顔料の基礎を教えてくれた先生。そしてアイトにとっては、祖父を亡くしたあと親権を手放した母に代わり、選任された未成年後見人でもある。
敬うべき師であり、頼るべき大人なのだ。見た目はこの際、大した問題ではない……はずだ。
「それで、修復ってなにを?」
「壁画だよ。湖底古墳の」
アイトが言っているのは、守矢湖の底に沈んでいた古墳のことだ。
この街を覆ったスノードームは、湖から大量の水を奪い、氷の壁へと蓄えている。そのため守矢湖の水位は大きく下がり、普段ならば人の目に触れることのない湖底が、いまだけ黒々と露出していた。
その泥の下から現れたのが、石造りの古い墓室だ。水に閉ざされていた入口も、いまなら人が通れる。けれどスノードームが消え、水が湖へ戻れば、古墳はふたたび沈んでしまう。
「古墳の壁画には観音像が描かれててさ。そいつの修復を耽二郎が請け負ってんだよ」
「壁画……観音……あ、顔料!」
「そーゆーこと。しかも片倉家の顔料でしか再現できないらしいんだ。俺にとっちゃ大仕事だぜ」
最後の乳鉢を棚へ戻し、真空包装機の電源を落とす。一時は混沌としていた作業台はいまや埃すらなく、ガラス瓶に収まった素材たちもショーケースのオモチャみたいに整然と並んでいる。
ストーブの薪が、ぱちりとちいさく爆ぜた────片付けは、これで終わりだ。
「でも、アイト……」
「ん、なんだよ?」
「アイトは……色がわからないよね。ひとりで……大丈夫かな……って」
「は? ヨカタかよ、おまえ」
「えっ」
アイトは片眉を吊り上げると、髪をまとめていた紐へ手をかけた。
するり。結び目が解ける。
短く切られた表面の髪が頬へ散り、その下から、背中まで届く長い襟足が流れ落ちた。跳ねる毛先と重たい長髪とが不揃いに重なり、アイト本来のロングウルフが露わになる。
「おまえと、やるに決まってんだろ……バカタレがっ」
アイトは言い終えるより先に、僕へ背を向けた。
柿渋色のエプロンを外し、近くの丸椅子へ放り投げる。そのまま逃げるみたいな小走りで工房の奥へ向かいながら、肩越しに声だけを残した。
「もう、はやくコーヒーにしようぜ。おやつあるし」
彼の華奢な背中を見送る。白いシャツの下に隠されている刺青の観音も、いまはほのかに微笑みを浮かべている────そんな気がした。
僕は丸椅子からずり落ちたエプロンを拾い上げた。
まだアイトの体温が残っているような気がしたけれど、それを確かめるほどヨカタではない。皺を手のひらでさっと伸ばし、縦に一度、横にもう一度。きちんと畳んで作業台の端へ置く。
「よかった。アイトは……気にしてないみたいだ」
今日のアイトは機嫌がいい。
本音を言うと、工房に顔を出すのが怖くて足が竦んだ。なぜって、昨夜僕は、彼に”あんなこと“を白状してしまったからだ。
僕自身、なぜあんなことを彼に告げてしまったのかわからない。彼との会話に、性的な事柄を挟まないように細心の注意を払ってきたというのに────彼女との初夜に、こともあろうに「おまえを想いながら抱いた」なんて……ナズナっぽく言うのなら「きしょい」と避けられて然るべきだ。
けれど彼は普段通りに僕と接してくれている。
これを彼の気遣いと取るべきなのか、そもそも冗談だろといなしているとみるべきなのか────わからない。
ただひとつ確かなのは、時間は十分にあるということ。
スノードーム現象は、予報ではまだ一ヶ月続くとされている。
ならば、アイトとたくさん話しをしよう。
彼に煙たがられるくらい時間を共にして。先生の仕事がない日には、汽車に乗って行けるところまで行ってみて。街を散策したりして、目についたお店に入って。そうして、少しずつ彼と話していこう。
”あの日“のこと。
これからのこと。
この繭が破れる前に、羽化する前に、17歳のうちに。
────ピンポーン
……台無しだ。なんだって、ヒトがささやかながらも、熱っぽい決意を胸ポケットに仕舞い込んでいる時にインターホンが鳴るのか。
どうする。いや、きっとアイトは出ないだろうな。
「はぁ。僕が出るか」
作業台の上に置かれたアイトのエプロンをポンと叩いた。ほんのり、ぬくもりを感じる。それがなんだか嬉しくて、僕は口角を上げたまま玄関へと向かうのだった。
だが────この時は知る由もなかった。
この古びたインターホンの音色が、ラグナロクの角笛になろうとは。
「えっ!? 店仕舞い……廃業ってこと!?」
僕の声が工房の壁へぶつかり、梁を駆け上がって、ロフトの天井まで震わせた。
さわさわ、さわさわ。休むことなく降っていた雨音が、ぴたりと止む。浅い木枠の中から、白い蚕たちがいっせいに頭をもたげて僕を見た────気がした。
「そう言えば……お金ないって言ってたよね……アイトって、靴下も穴いてるの履いてたりするしさ。家着も学校のジャージだしさ……私服もいつも同じやつ……」
「最後のはしょーがねーだろ。色がわかんねーんだから! ヨカタじゃねーんだよ!」
僕とアイトは、同じ高校に籍を置いている。
と言っても、僕が毎朝、決まった時間に校門をくぐる一方で、アイトが教室へ姿を見せるのは珍しい。たまに登校したかと思えば、ふらっといなくなるため、学校においてはかなりのレアキャラだ。
いまは春休みシーズンだから授業はないけれど(そもそもスノードーム現象真っ只中だ)。アイトは……進級できるんだろうか?
「そーじゃなくて。いや、金はないけど……とにかく他にやることがあんの!」
アイトは真空包装された顔料を木箱へ収めながら反論した。
完成した顔料は、そう時を置かずに専用の機械でパックして保存する。
彼はその作業が苦手なので(めっちゃ不器用で)、いつものように僕が勤しんでいたところ、彼が急に「今日からウチは閉店だ」と言ったのだ。
怪訝な表情そのままに、僕は使い終えた匙と乳鉢を流しへ運ぶ。会話しながらも片付けの手を緩めないのが、お互いに職人っぽくて僕は好きだ。
「やること?」
「耽二郎と一緒にな。修復の仕事っていうか。まあそんなとこ」
「え、耽二郎って……先生、スノードームの中にいるの?」
「おう。相変わらずの美少女おじさんだったわ。ありゃガチの妖怪だな」
十一代目・美耽二郎。
それは個人の名であると同時に、代々受け継がれてきた仏教美術修復師の名跡でもある。
金髪のおかっぱヘアに、白くきめ細かな肌。耳にはいくつものピアスがじゃらじゃら連なり、服装はいつだってパンクじみている。骨格も雰囲気も360度どこからどう見ても美少女なのだけれど、当人はれっきとした成人男性だ。
そんな、ちょっと変わった人だけれど。僕にとっては、顔料の基礎を教えてくれた先生。そしてアイトにとっては、祖父を亡くしたあと親権を手放した母に代わり、選任された未成年後見人でもある。
敬うべき師であり、頼るべき大人なのだ。見た目はこの際、大した問題ではない……はずだ。
「それで、修復ってなにを?」
「壁画だよ。湖底古墳の」
アイトが言っているのは、守矢湖の底に沈んでいた古墳のことだ。
この街を覆ったスノードームは、湖から大量の水を奪い、氷の壁へと蓄えている。そのため守矢湖の水位は大きく下がり、普段ならば人の目に触れることのない湖底が、いまだけ黒々と露出していた。
その泥の下から現れたのが、石造りの古い墓室だ。水に閉ざされていた入口も、いまなら人が通れる。けれどスノードームが消え、水が湖へ戻れば、古墳はふたたび沈んでしまう。
「古墳の壁画には観音像が描かれててさ。そいつの修復を耽二郎が請け負ってんだよ」
「壁画……観音……あ、顔料!」
「そーゆーこと。しかも片倉家の顔料でしか再現できないらしいんだ。俺にとっちゃ大仕事だぜ」
最後の乳鉢を棚へ戻し、真空包装機の電源を落とす。一時は混沌としていた作業台はいまや埃すらなく、ガラス瓶に収まった素材たちもショーケースのオモチャみたいに整然と並んでいる。
ストーブの薪が、ぱちりとちいさく爆ぜた────片付けは、これで終わりだ。
「でも、アイト……」
「ん、なんだよ?」
「アイトは……色がわからないよね。ひとりで……大丈夫かな……って」
「は? ヨカタかよ、おまえ」
「えっ」
アイトは片眉を吊り上げると、髪をまとめていた紐へ手をかけた。
するり。結び目が解ける。
短く切られた表面の髪が頬へ散り、その下から、背中まで届く長い襟足が流れ落ちた。跳ねる毛先と重たい長髪とが不揃いに重なり、アイト本来のロングウルフが露わになる。
「おまえと、やるに決まってんだろ……バカタレがっ」
アイトは言い終えるより先に、僕へ背を向けた。
柿渋色のエプロンを外し、近くの丸椅子へ放り投げる。そのまま逃げるみたいな小走りで工房の奥へ向かいながら、肩越しに声だけを残した。
「もう、はやくコーヒーにしようぜ。おやつあるし」
彼の華奢な背中を見送る。白いシャツの下に隠されている刺青の観音も、いまはほのかに微笑みを浮かべている────そんな気がした。
僕は丸椅子からずり落ちたエプロンを拾い上げた。
まだアイトの体温が残っているような気がしたけれど、それを確かめるほどヨカタではない。皺を手のひらでさっと伸ばし、縦に一度、横にもう一度。きちんと畳んで作業台の端へ置く。
「よかった。アイトは……気にしてないみたいだ」
今日のアイトは機嫌がいい。
本音を言うと、工房に顔を出すのが怖くて足が竦んだ。なぜって、昨夜僕は、彼に”あんなこと“を白状してしまったからだ。
僕自身、なぜあんなことを彼に告げてしまったのかわからない。彼との会話に、性的な事柄を挟まないように細心の注意を払ってきたというのに────彼女との初夜に、こともあろうに「おまえを想いながら抱いた」なんて……ナズナっぽく言うのなら「きしょい」と避けられて然るべきだ。
けれど彼は普段通りに僕と接してくれている。
これを彼の気遣いと取るべきなのか、そもそも冗談だろといなしているとみるべきなのか────わからない。
ただひとつ確かなのは、時間は十分にあるということ。
スノードーム現象は、予報ではまだ一ヶ月続くとされている。
ならば、アイトとたくさん話しをしよう。
彼に煙たがられるくらい時間を共にして。先生の仕事がない日には、汽車に乗って行けるところまで行ってみて。街を散策したりして、目についたお店に入って。そうして、少しずつ彼と話していこう。
”あの日“のこと。
これからのこと。
この繭が破れる前に、羽化する前に、17歳のうちに。
────ピンポーン
……台無しだ。なんだって、ヒトがささやかながらも、熱っぽい決意を胸ポケットに仕舞い込んでいる時にインターホンが鳴るのか。
どうする。いや、きっとアイトは出ないだろうな。
「はぁ。僕が出るか」
作業台の上に置かれたアイトのエプロンをポンと叩いた。ほんのり、ぬくもりを感じる。それがなんだか嬉しくて、僕は口角を上げたまま玄関へと向かうのだった。
だが────この時は知る由もなかった。
この古びたインターホンの音色が、ラグナロクの角笛になろうとは。



