そこは、魔法使いの隠れ家だった。
いや、錬金術師の秘密のアトリエというべきか。
10歳に満たなかった僕は、空想にばかり逃げていた僕は、いつか絵本の中で見たような光景に、心躍らせていた。
壁一面を埋め尽くす棚には、大小さまざまな硝子瓶が並んでいた。海の底を砕いたような青。こぼれた夕陽のオレンジ。夜そのものを閉じ込めた黒……瓶の底で眠っている石の欠片は、どれもまだ何かに化ける前の赤ん坊だった。
使い込まれた乳鉢。毛先の長い筆。天井から逆さに吊るされた草の根。ぐつぐつと湯気を立てる鍋。そのさらに上、太い梁へ板を渡して造られたロフトから、さわ、さわ、と遠い雨のような音が降ってくる。
────そこは、顔料師・片倉家の工房
本来、部外者は立ち入りを赦されない。だから、招かれたとはいえ、僕にとっては人生ではじめての”いけないこと“に思えて。子どもながらに、僕は昂っていた。
「ほら、タツキ。よく見てろよ」
粉城になるまですり潰した鉱物を数種類ミックスしたものが、白磁の器に乗せられていた。
一見すると、青一色だ。
でも、目の前にいる幼い”魔法使い“の手にかかれば────
「この色は、おまえを想ってつくったんだ」
粉になった素材を溶かすのは、膠と呼ばれるトロっとした透明な液体だ。
それを、指で混ぜるのである。ゆっくりと、船を漕ぐように。
道具は用いない。だからこそ、僕はアイトの指には魔法が込められているのだと信じていたのだろう。
女みたいな顔だ。女みたいな体つきだ。女みたいな髪だ。
そうやって周囲から笑いものにされていた、この白くて小さい魔法使いを。
僕はこの世の何よりも、愛おしいと思った。
「できた」
白磁の器には────「玉虫色の顔料」が仰向けで僕を見上げていた。
*
「タツキ。おーい、タツキ」
魔法使いが僕を呼ぶ。あの頃と違い、その声の揺らぎは拗ねた野良猫のようだ。
「……寝てんのか? 目ぇ開けたまま」
けれど変わらず、性の境目が曖昧で、なんとまぁ可愛らしい容姿だろうか。
頬のあたりで不揃いに跳ねる髪と、背中へ流れる長い襟足。段をつけて切られたロングウルフを、いまはうなじの少し上でひとつに結んでいる。髪の隙間から覗く耳も、ちょこんと上向いた鼻も、肌へ落ちるまつ毛の影も。17歳であることを忘れた時計仕掛けの人形みたいに危うい。
工房に立つ時のアイトは、白いワイシャツの袖を肘まで捲り、その上から柿渋色のエプロンを締める。僕も同じ格好だ。
一度、違う色のエプロンを持参した際、アイトは超絶不機嫌になった。正確に認識できる色が限られるアイトにとって、どうやら「お揃い」であることにはこだわりがあるようで。
「あ、あぁ……ごめん。見惚れてた」
「きっしょ。仕事しろや。ヨカタじゃねんだよ」
ヨカタ。とは「ど素人」とか「一般ピープル」といった意味の言葉だ。
どこかの業界用語らしいが、いつからかアイトは多用するようになった。個人的にはもっと容姿に見合った可愛らしい言葉遣いをお願いしたいところだが。
「青いやつ取ってきて。いや、取ってこい」
アイトは作業台へ向いたまま、こちらを見ようともしなかった。左手で乳鉢の縁を押さえ、右手の乳棒を一定の速さで巡らせている。ごり、ごり、と。粒の潰れる音へ耳を澄ませながら、両手の代わりに顎だけをしゃくり、背後の棚を示した。
「青いやつ……ラピスラズリかな……ちがうな、マヤブルーにしよう」
「アズライトだよ。アズライトよこせ」
「……そう言えばいいじゃん」
鉱物、植物、土。果ては動物の死骸まで。ありとあらゆる物を、とにかくなんでも砕いて粉末にして、膠で溶かせば、それは絵の具として使われる。
つまるところ、べらぼうに高い絵の具のことを「顔料」と呼ぶのである(そう言うとアイトは怒るが。うちは絵の具屋じゃねーよ。と)。
アイトの家・片倉家は古くから守矢の地で顔料師を生業としてきた一族だ。
一族。と言っても、その技を継ぐ者はいまやアイトただひとり。先代の祖父は数年前に他界。アイトの母は奔放な女性で、アイトを産んですぐに初乳すらあげないまま、子どもを捨てて男に奔った。そんなことだから、父親が誰なのかもわからないという。
彼だけだ。
彼だけが、この数百年変わらぬ姿の工房を守り続けている。
でも変わったことも……ある。特に……彼は色盲になってしまった。顔料師という職にあっては致命的な欠損だ。
だからこそ、僕はここに、彼の側に居られるのだが。
「アズライト。向こうの棚か」
僕が見上げたのは、ロフトのいちばん奥にある棚だった。
壁へ立てかけられた木梯子に足を掛け、一段、また一段と上ってゆく。頭が天井へ近づくにつれ、さわ、さわ、と降っていた音が輪郭を持ちはじめた。
浅い木枠を埋め尽くしているのは、白い蚕たちだ。
桑の葉へ頭を寄せ、無数のちいさな口を休みなく動かしている。子供のころ雨だと思っていた音は、この子たちが餌を食べる音だったのである。
「お前たちは変わらないな」
蚕が吐いた糸からできる繭は、片倉家の顔料作りに欠かせない。
選別した繭を煮て、余分なものを取り除き、乾かす。そこから取り出した成分へさらに片倉家独自の処理を施し、ほんのわずかだけ顔料へ混ぜるのである。そうすることで、片倉家の顔料は驚くほどの長期間、その水分を保持し続けるという。
「さて、アズライト……アズライト」
蚕棚のさらに奥。硝子瓶の列から、アズライトを見つけた。
いまのアイトは色盲だ。ならば瓶にラベルでも貼り付ければ……と僕も当初は思ったが、それは「教え」に反するのだ。
亡くなったアイトのお爺さんは常々言っていたという。
色になる前の素材に名前をつけてはいけない。名付けた瞬間から、それは命になってしまう。すり潰し、かき混ぜてしまえば、即ち死ぬのだ。死んだ色を使えば、絵もまた死ぬのだ────と。
だから、僕の“目”が必要なのだ。彼には僕が。
アイトから色を奪ったのは、他ならぬ僕だというのに。彼の一部になることができているという現実に、いつかの罪すら忘れて、僕は────
ふと、ロフトの手すりにもたれかかり、階下のアイトを見やった。
日本刀の切先のように整った横顔に、柳のような伏せったまつ毛が揺れていて。この場所からだといつも以上に美しく見える。
彼の左の手のひらには、絵の具皿。青い顔料が乗っている。それを右手の薬指で少量掬い上げ、アイトは自らの左の手首にすっと塗った。横一文字に、切り裂くように。
────僕は、息を呑んだ。
アイトは出来上がった顔料の”体温を見る“ために、唇を使う。
体温とは、すなわち色だ。色盲のアイトが、完成した顔料の出来栄えを知るために、己の経験知を引き出すべく、身体においてもっとも敏感な部位である唇を用いるのである。
具体的には、左手の手首に顔料をすっと横一文字に塗る。そして、己の唇を顔料に重ねるのだ。
艶かしく、妖しげで。どこか神聖さすらある。
それを僕はいつも……見ていた。見ないフリをしながら、アイトの視線が伏せっているのをいいことに。
瞼に、焼き付けるようにして。
けれど。僕の視線があまりにも熱っぽかったのか。
アイトは手首の顔料に唇が触れんとした刹那、ふと顔を横に逸らし、ロフトにいる僕を見たのだ。
立ち尽くしてしまった。このまま射殺されそうだ。
そうして目と目が結ばれたまま、アイトはそっと手首に唇を重ねた────



