17歳のスノードーム


 あの夜に見た久世さんの顔が、瞼から消えない。

 ────証明してよ。
 
 なにも難しくはないはずだった。僕は普通であるはずで、久世さんをちゃんと愛することができて。それなのに……あの夜を越すために、僕はアイトを“利用”してしまった。
 許されることじゃない。久世さんに対してもだけれど、何よりもアイトを僕はそんな目で────
 
「かくして、余(よ)はオトナになりにけりぃ〜って感じかぁ」

 向いに座る少女が僕に言った。宮廷道化師かの如く演技がかってはいるが、その声はあくびした猫みたいだった。

 ガタン。と足元が跳ねる。
 次いで、ゴトン。ゴトン。一定の間隔で床板が軋み、窓枠が細かく震えた。ここはあの薄汚いホテルでもなければ、目の前にいるのは久世さんでもない。
 
 僕はいま、湖畔を走る“蒸気機関車”のボックス席に座っているのだ。

「あのさ、ナズナ。僕の話聞いてたか?」

 向かいの席でニタニタしているのが“あくび猫”の少女────御厨(みくりや)ナズナ。
 髪は長く、頭の高いところでひとつに結ばれている。汽車が揺れるたび、結び目から逃げた髪が頬を撫でるのだけれど、本人はまるで気にしていない。化粧っ気のない顔に、意志の強そうな眉。笑うと片方だけ覗く犬歯。

 年齢は17歳。僕と同い年だ。
 座って黙っていれば、それなりに利発そうな女の子に見える。黙っていれば、の話だけれど。
 
「聞いてたよ〜。彼女との初エッチの最中だってのに、こともあろうに親友の美少年をオカズに使ったんでしょ?」
「エッ……や、やめろよ、そんな。下品な言葉……使うな」
「んふふ。お兄ちゃん、バリきしょい」

 ナズナは僕の妹だ。母親の違う、腹違いの妹。

 僕らの父親である御厨礼二には、東京に妻と家庭がある。ナズナは、その家庭の中で生まれた子供だ。
 対して僕は、父の愛人の子供で。いまは母とふたり、この長野県・守矢(もりや)市で暮らしている(母はいま現在、スノードームの外にいるが)。
 だから、妹とはいっても毎朝顔を合わせるわけではない。食卓を囲んだことも、同じ屋根の下で喧嘩したこともない。
 それでも、彼女は僕に対して妙なシンパシーを感じているようで、しょっちゅうビデオ通話で長電話しているし、お互いの「エグい話」も打ち明ける仲である。
 そういった経緯(いきさつ)もあり。ナズナは、会えば当たり前のように僕を「お兄ちゃん」と呼ぶのだ。

「でもさー、あたしが居てよかったねぇ。お兄ちゃん、秘密を打ち明けたいタイプだもんね。黙ってられないもんねぇ」
「……誰にも言うなよ?」
「今更それ言うんだ? うちら兄妹の誓いじゃんね。お互いの毒親からサバイブするために、助けてあっていこうってさー! ゆえに秘密は口外しないじゃんねぇー!」
「声でかっ」
「お兄ちゃんこそ、あたし以外に言っちゃダメだよ。まあツムギちゃんはスノードームの向こうだけどさ、例の美少年はこっちにいるわけでしょ?」
「あぁ、えっと。その……もう……」
「……おい。マジか、おまえ」

 汽車は大きく身を傾けて、湖岸のカーブへ入った。

 守矢市は、街の真ん中に県内随一の広大な湖を抱いている。
 線路もまた、その形に従うようにして守矢湖をぐるりと囲んでいるものだから、窓際に座っていれば、街と湖が交互に現れる。古い酒蔵。瓦屋根の家々。葉を落とした街路樹。そして、冬の空を映す湖。

 ────いつもなら、の話だ。

 3つの県に跨るほどのスケールを誇る守矢湖はいま、切なくなるほどに小さくなっていた。水際はずっと沖へ退き、湖底が黒い帯のように露出している。奪われた水の行方を探す必要はない。顔を上げれば、街をすっぽり覆う氷の壁が、見上げても終わりのわからない高さまで聳えているのだから。

 空は、薄い墨を何度も水で溶いたような色をしている。
 太陽がどこにあるのかもわからない。氷を通り抜けた光は影という影を薄めて、山も、湖も、建物も、人の顔さえも、まるで水墨画の中を泳いでいるかのように淡く滲ませていた。
 細かな雪が、風に巻かれて横へ走る。落ちたかと思えば空へ舞い戻り、積もることも、溶けることも忘れてしまったようにさえ思う。

 それでも、街は動いている。
 分厚いコートを着た人々が歩道を行き交い、紙袋を積んだ自転車が、不安定な信号の前でいったん止まる。商店は戸口に手書きの営業時間を貼り、警官たちは交差点に立って、旗を振りながら車を通していた。母親に引かれた子供だけが、ただの大雪の日と勘違いしているみたいに、はしゃぎながら雪を追いかけている。

 60年ぶりとされるスノードーム現象の中の日常。
 不便ではある。けれど、人の営みは確かにそこにある。

「彼女さんには間違っても言っちゃダメよ? そりゃ、お父さんに押し付けられた恋人かもしれないけどさ」
「な、そんな……僕は久世さんのこと、そんな風には……」
「はいはい、ごめんね。とにかく、ツムギちゃんには言わないこと。いい?」
「わかってるよ。絶対それはありえない」
「じゃあ、今すぐツムギちゃんに、ご機嫌取りのメッセージを……あ、そうか。電波が……」

 スノードームの中では、電気がすべて使えなくなったわけではない。
 発電所は動いている。照明も点く。暖房も、水道も、単純な電動機ならば問題なく働く。スマートフォンだって充電できるし、カメラくらいなら使えた。
 ただし、外と繋がるための機能は軒並み死んでいる。
 通話。メッセージ。インターネット。GPS。電子決済。
 氷壁と雪の粒子が電波を乱し、高度な電子制御まで不安定にするらしい。最新式の自動車も、通常の鉄道も、賢すぎるがゆえに動けなくなった。
 そこで百年選手の蒸気機関車が表舞台に。というわけだ。

「久世さんには、手紙を出すよ。明日にでも」
「ふつう、すぐにでもって言うけどな。ま、いいや。んで、手紙なんてどうやって出すのよ?」
「天井のあたりに、小さい穴が空いてるらしいんだ。そこに有線ドローンを打ち上げて外に送るんだってさ」
「有線……ドローン……?」
「ウクライナの戦場で使われてるやつだよ。光ファイバーケーブルで────」

 無線が使えないのなら、線で繋いでしまえばいい。有線ドローン郵便は、そんな力技の連絡手段だ。
 市役所の屋上から、手紙や小さな荷物を積んだドローンを飛ばす。機体のお尻からは、光ファイバーケーブルが、蜘蛛の糸のように伸びてゆく。操縦信号も映像もその線を通るため、氷壁に電波を遮られても操作できる。

 ドローンはスノードームの天井近くにある小さな穴を通り、外側の受け渡し地点まで荷物を運ぶ。そして、外から届いた手紙や薬品などを載せて戻ってくる。
 もちろん、誰でも好きな時に使えるわけではない。
 一日に飛ばせる便数も、積める重さも決まっていて、利用には整理券が必要だ。受付時間に遅れれば、次の便まで待たされる。本日分の受付は、僕が宿舎を出る前に締め切られていた。
 だから、明日にでも。なのだ。
 恋人への手紙を後回しにする、便利な言い訳に聞こえなくもないけれど。

『次は、月島城前〜。月島城前〜。市役所へご用の方は、こちらでお降りください』

 天井の丸いスピーカーから、車掌の声が少し割れて響いた。

「さて、あたしは市役所いかねば。彼氏ともそこで合流するんだ〜」
「いくら、父さんが嫌いだからって、彼氏同伴で長野県まで来るとはねぇ。いいご身分でゲスねぇ」
「あー、そうだ、お兄ちゃんさ。暇なら一緒に降りようよ。彼氏紹介しようと思ってたんだ。絶対仲良くなれると思うよ。前も言ったけど、彼も格闘技やってるから」

 格闘技。
 僕はわりと軟弱に見えるらしく、総合格闘技……MMAを嗜んでいると聞くと驚かれる。
 アイトを守るためだ……そう言ったならもっと驚かれるだろうけど。

「僕なんてたかが3年程度の素人だよ。というか、暇じゃないし」
「あぁ〜さては、あれだな? 美少年だな? 浮気しに行くんだなぁ〜?」

 そう言うと、ナズナはやんちゃな猫みたいに、僕の腕でバリバリと爪研ぎをする。お気にのセーターがみるみる毛羽だってゆくが、こんなことで腹は立てない。

「仕事を手伝いにいくんだよ。彼には僕が必要だから」
「確か、日本画とかで使う絵の具を作ってるんでしょ?」
「絵の具というか、顔料だね」
「あぁ、思い出してきた……色盲の顔料師……だっけ? つまり補う関係……共依存ってやつぅ? きゃぁぁ〜」

 ────ちいさく、苛立った。
 さらに加速する爪研ぎで散りゆくセーターを惜しんで……ではない。
 色盲。彼を茶化されたような気分がしたからだ。アイトだって、望んでそうなったわけじゃない。でも……ナズナを叱ることはできない。彼がそうなったのは……“僕のせい”だから。

『まもなく、月島城前。月島城前〜。お降りのお客様は、お忘れ物なきよう、お気をつけください』

 車掌のアナウンスがノイズ混じりに響いた。
 それを聞いた周囲の人たちがもそもそと立ちあがり、棚に置いた荷物に手を伸ばしている。

「じゃあ、お兄ちゃん。あたしはここで。あ、そうだ。今度Wデートしようね。うちの彼氏とお兄ちゃんの“彼氏”と4人でさ」
「向こうが嫌がるよ。あ、ナズナ。荷物取るとき気をつけろよ。揺れるから」

 よゆーよゆー。と軽口をたたきながら、ナズナは席を立ち、網棚の上に載せた大きな旅行鞄へ両手を伸ばした。

 その瞬間。
 ガダンッ! と車体が横へ跳ねた。汽車が氷塊でも踏んだのだろうか。言わんこっちゃない、だから言っただろうと一瞬頭をよぎったが、その揺れは僕の想定以上に強く、バランスを崩したナズナは小さく悲鳴をあげて旅行鞄へしがみついた。押し退けられるようにして、隣に置いていた僕のショルダーバッグが網棚から滑り、口を下にして床へ落ちてゆく。

 落ちたのは、それだけではない。
 紙袋。買い物籠。毛布を括りつけたリュック。向かいのボックス席からは箱いっぱいの林檎まで転がり出して、車内はちょっとした異国の収穫祭のようになった。

 僕は周囲の乗客へ謝りながら、足元へ転がってきた荷物を拾い、持ち主を探す。座席の下へ逃げる林檎を追い、倒れかけた老人の杖を支え、知らない子供の毛糸帽子まで拾った。

 こんな風にして、てんてこ舞いになっていたせいだろう。その間に、僕のバッグから滑り出したものが、ナズナの足元へ落ちていた。けれど、僕はまるで気づかなかったのだ。できれば、他人には見られたくないものだというのに────

 それは、一枚の、古い写真。
 湖を背にして並んでいるのは、二人の子供だ。肩を越すほど髪の長い僕と、その隣で同じように髪を伸ばしたアイト。いまと違って、ふたりとも朗らかに笑っている。

 ナズナは写真を拾い上げ、まじまじと眺めた。

「これ、お兄ちゃん? え、かわいー。女の子みたい」

 やめれ……と、制止するより先に、僕は写真をひったくった。顔が熱い。きっと暖房のせいだ。そういうことにしておく。