17歳のスノードーム


 初夏の守矢湖は、青く澄んでいる。あの冬が嘘だったかのように。

 電車の窓を少し開けると、水の匂いを含んだ風が吹き込んで心地よい。
 あの広大な湖の底の底。ずっと奥ではいまも、あの三尊が十色を抱いて眠っていることだろう。

 膝の上でスマホが震えた。

『お兄ちゃん! 来週18歳の誕生日だね。ギンちゃんと一緒に守矢に行くから。ジローちゃんも呼んでよね!』

 ナズナからだ。
 誕生日会を開くとも、予定を空けておけとも書いていない。けれど、僕の都合がすでに勘定から外されているあたり、そういうことなのだろう。

 返事を打とうとして、画面にある「18歳」の文字を見つめる。
 やがて電車が湖畔の林へ差しかかり、窓の外が木々の緑に覆われたところで、僕はメッセージを閉じた。そのままYouTubeを開くと、登録していたアルカ社の公式チャンネルに、新しい動画が公開されている。

 配信されたのは昨日。
 サムネイルには、見慣れた金色のおかっぱ頭が堂々映し出されていた。

「先生ぇ……」

 僕はイヤホンを耳に差し、動画を再生した。
 アルカ社のCEOがアンバサダーを務める文化教養番組らしい。磨き上げられた黒いテーブルを挟み、CEOと向かい合っているのは、十一代目・美(うろし)耽二郎。黒い着物に身を包み、耳には相変わらず大量のピアスをぶら下げている。

 背後のスクリーンには、水中カメラが撮影した湖底古墳の天井画が映し出されていた。
 中央の観音を挟む二尊。そのうち、アルカ社の顔料で彩色された観音は湖水に洗われ、輪郭をかすかに残すばかりとなっている。対してもう一尊には、衣も、花も、重ねた手も残っていた。

 そして────唇には、紅がある。

『では、率直にお聞きしましょう』

 CEOがスクリーンを仰ぎ、苦笑を浮かべた。

『なぜ守矢の湖底古墳で、我々の描いた観音は負けたのでしょう?』

 知るかよ。と耽二郎に一蹴され、会場に笑い声が起きた。

『……番組が終わってしまいそうです』

 CEOは大袈裟に肩をすくめると、画面に映る観音の顔を拡大した。

『しかし、この唇の色は……どう考えても不正解でしょう』

 再び、会場が沸いた。

 耽二郎先生だけは笑わなかった。
 しばらく観音の唇を眺めてから、懐かしい誰かの話でもするように、ゆっくりと口を開く。

『あれは、笹色紅っていうんだ』

 先生の指が、画面の紅を示した。

『あの色は、恋文なんだよ。あなたが好きっていう、シンプルなメッセージの』

 ほんの少しだけ間を置き、今度は口元を緩める。

『そう、あの色は。二百年の昔、江戸の街で流行った……あたりまえのラブレターなのさ』

 僕は動画を閉じた。
 窓の外には、いつの間にか守矢湖が戻ってきている。初夏の光をいっぱいに受けた水面の下で、あの紅はいまもそこにある。

 勝ち誇る。なんて野暮な真似はしない。
 けれど暗くなったスマホの画面には、口元に笑みを浮かべた僕が映っていたのは内緒だ。

 *

 遅刻してしまった。怒られやしないか。
 
 工房の扉を開けると、桑の葉を食む音と一緒に、湿った鉱物と膠の匂いが流れてきた。作業台では、白いシャツに柿渋色のエプロンをつけたアイトが、白磁の器を覗き込んでいる。
 ロングウルフだった髪はいま、おかっぱボブに切り揃えられている。なんでも、耽二郎先生への借りを返す。ということらしい。

「おせーよ、タツキ」
「夏期講習の説明会が長引いてさ」
「あー、受験勉強な。本格的にはじめんの?」
「みんなもうとっくにはじめてるよ。僕は遅いくらいだ」

 壁に掛かったエプロンを取って身につける。作業台へ並ぶのは守矢十色ではなく、日本画家から頼まれた新しい顔料だった。
 アイトが器の中へ指を沈める。僕はその隣に立ち、窓から差し込む光へ顔料を透かした。

「どこ受けるか決めた?」
「信大」
「こっから通えんじゃん」
「うん。だから決めた」

 アイトが静かに笑った。その指先で、青かった顔料がゆっくりと別の色へ変わっていく。

「タツキは来週、18歳になるんだな」
「そうだね」
「……怖い?」
「怖くないよ。だって────」

 あの動画の最後には、こんな文言で締めくくられていた。

 神はあえて、不正解を選んだのだ────と。

 アルカ社の十色は完璧だった。学術的にも再現率も。だが選ばれたのは、アイトの紅を塗った観音だった。つまり、本来ならこの選択はありえないのだ。
 
 神ですら、時に間違う。
 ならば。人間である僕が恐れることなど、なにもない。

「さぁ、仕事すっぞ。タツキ」
「うん。今日はなにからはじめる?」

 いまこの瞬間の僕が選んだ。それが僕にとっての正解だ。

「青いやつ、とって」