最後の夜に、はじまりの日を思い浮かべた。
「あとは俺だけに任せてくれ」
着替えを済ませ、アイトに言われた通りの素材を作業台に置き、彼の到着を待った。
白いシャツに柿渋色のエプロン。いつものように髪を結び、少しカラダを左右に揺らして彼はやってきた。
僕を一瞥もすることなくアイトは作業台の前に座り、そっと目を伏せて言った────手を出すな、と。
「わかった」
僕の返事を待ってから、彼は踊るように顔料の調合をはじめた。
ラストダンスの相手は僕じゃない。
たぶん、あの日の僕だ。そんな気がした────
*
「おっけー。爺ちゃん、朝寝してるぞ。いまがチャンスだ」
「見つかったら怒られる?」
「んなわけないだろ────殺されるよ」
「ひぃぃ……」
それは、あの日の記憶。
僕が母に髪を切り刻まれた次の日のこと。アイトが僕のために泣いてくれて、その足で彼は、僕を工房に連れてきてくれたのだ。
小さいアイトに手を引かれ、息を弾ませながら木漏れ日の下を駆けた。
石畳を抜けて、背の高さほどの花壇を飛び越えたなら、そこはもう魔法使いの秘密の部屋だった。
「ずっと考えてたんだ。たぶん、おまえと出会った時から」
あれとこれとそれと。アイトが手にしたいくつものガラス瓶。色とりどりの粉を少しずつ、少しずつ。白磁の皿に移し、膠で溶かす。
ただこれだけ。これだけの魔法だ。それなのに。
「ほら、タツキ。見てみろ」
船を漕ぐようにゆっくりと。小さな魔法使いが、その指先で混ぜ合わせたなら。
「おまえの色だ。これは────」
*
「タツキ、聞いてんのか?」
拗ねた野良猫みたいな声だ。いまの魔法使いは。
「あぁ……ごめん。ボーッとしてた」
「はぁ。最後くらいちゃんとしろよな」
作業台に向かいながらも、こうして雑談を交えるくらいには余裕があるらしい。アイトは視線こそ器に向かっているものの、心の矢印は僕に向いていた。
「それで、来年の受験。どうするか決めたのか?」
「父さんは東京に来いって言ってるよ。僕はまだ……決めてないけど」
「東京か。俺はどうしようかな」
「アイトも受験するの?」
「まさか」
かちん。と、ガラス瓶が鳴った。匙を少しぶつけたようだ。
呼応するように、蚕たちが音の空白を埋めるべく一斉に桑を食みだした。
「雨が降ってるみたいだろ。この音」
「うん。いつも思うよ」
「スノードームが割ける瞬間も、雨が降るんだってさ。そうしたら、全部元通りだ」
全部。いや違う、元通りにはならない。
ナズナも、ギンスケくんも……久世さんも。
カシマさん。それに湖底の観音も。
アイトも────僕も。
どれだけ色で覆ったところで、もう元通りになど、なりはしない。
「なぁ、タツキ」
アイトがはじめて、手を止めた。
「もういいんだ、もう」
ストーブの薪が弾けた。まだ冬の帷が明けるには早すぎる。
「あの日のこと、おまえは自分のせいだって、そう思ってるんだろ。そりゃそうだよな、俺がそう言ったんだ────おまえのせいだって」
左胸の古傷がざわめいた。
器の中では、アイトが今しがた落とした指を起点に、赤い波紋が広がってゆく。
「俺はな、タツキ。あの日、俺は嬉しかったんだよ。痛くて、苦しくて……死にたいって思った。でも、お前が来てくれて。俺は嬉しかったんだ」
だから。と、アイトは一瞬、僕に視線を送ろうとして、やめた。
「だから。俺はいったんだ……お前のせいだって」
アイトの唇が、ちいさく震えた。
「だって……そう言えば……お前を縛り付けることができるって思ったから」
声が掠れた。アイトは一度だけ唇を噛み、俯いていた顔をわずかに背けると、頬にかかった髪を汚れていない手の甲で押しやった。
「俺という繭の中に、お前を閉じ込めておけるって」
アイトははじめて顔を上げ、僕を見た。濡れた瞳がわずかに細まる。
「大人になんてならなくていい。ずっとこのまま。いつかふたりで、繭の中で……一緒に煮殺されたいって」
────蚕のように。
ぱち、ぱち……ぱちぱち。
スノードームの終わりが近いせいか、急激な湿度の変化に電力供給網が影響を受けたのか。
それは、突然の停電だった。
だが驚きはしない。蚕たちも、窓の外の細雪も。
窓からさす月の光が、朧げにこのスノードーム内を照らしていてくれたからだ。それはこの工房の中も同じだった。
事実、アイトは作業の手を止めず、蚕たちの手拍子に合わせてゆっくりとリズムを刻んでいた。
花火代わり、だろうか。あちこちで照明弾が上がっているようだ。赤、青、黄色。思い思いの明かりが混ざり合って、眩しいくらいに僕らを照らした。
さぁ、おまえの番だぞ。とでも言いたげに。だから僕はアイトに告げることにした。明かりがそっと収まってから。
「決めたよ、アイト」
彼の指が止まる。
「いや、本当はわかってたんだ」
俯いていた顔が、わずかにこちらへ向いた。僕らの視線は、確かに結ばれている。
「知った上で、僕は逃げてた。いつだってそうだ。母のせいにして、父のせいにして。久世さんのせいにして……アイトの……せいにして」
────あなた自身の正解を見つけて。
久世さんが僕に残した置き土産を、いま開ける。
「だからね、アイト。聞いてほしい」
音もなく、僕はアイトのそばに寄った。いつしか解けてしまった髪紐を拾い、彼の後ろに回って髪をまとめる。
「僕が決める。誰でもない、僕の意思で」
アイトは答えなかった。
フィナーレは近い。アンコールは期待できない。
もはや蚕も静まり返った。いまはアイトが月明かりだけを頼りにダンスを踊っている。
先ほどまで、たしかに青かった顔料は重ねられる円のなかでゆっくりと色をほどいていった。冷えた藍の底から赤が滲み、指が船を漕ぐたびに波は岸へと寄せていく。やがて白磁の器いっぱいに、笹の葉へ夕日を透かしたような紅がひらいてゆく。
魔法みたいだ。やっぱり、これは。あの時に見せてくれた色なのだろう。
「できた」
すっと。観客に礼をするピアニストのようにアイトは立ち上がった。両の手で支えられた白磁の器には、完成した「紅」が三つ指をついている。
「タツキ。最後に、お願いできるか?」
アイトにはまだ工程が残っている。確認の作業だ。
いつものように、顔料を唇で確かめる。
ただちょっと、いまだけは僕の手を借りる必要がある。それだけのこと。
アイトが待っている。だが、たなびく雲が月を隠してしまった。足元が暗い。僕は躓いてしまわぬよう、視線を落とした。
刹那、あいつの匂いが鼻先をくすぐった────眼前にいま、アイトがいたのだ。
彼は、そっと僕の下唇に右手の薬指を添えた。
瞬きの間に、アイトの香りが近づく。紅を塗られた僕のもとに、彼の唇が重なったのだ。
触れていたのは、ほんの一瞬。
アイトは僕の答えを待たずして身を離した。僕の唇にあった紅が彼の口元に移り、その端を、頬から落ちてきた涙が淡く滲ませている。
正解だ────アイトは笑おうとした。
僕を繭の外へ送り出すために、その一度だけで全てを終わらせようとしていた。
一歩、アイトが後ろへ退く。
僕は彼の薬指に自らの指を絡めた。
見開かれた藍色の瞳を見つめながら、その腕を引き、離れていこうとしたカラダを再び僕の前へ戻す。アイトの唇には、僕から移った紅がまだ残っていた。
だから今度は、こちらから唇を重ねた。
アイトの両の腕は行き場を失って宙をさまよい、やがて僕の背中へ回ると、シャツの生地を縋るように握りしめた。
紅は重ねた唇で溶け合って。どちらのものだったのか、もうわからない。
ただひとつわかるのは。
それはきっと────答え合わせのような、キスだった。



