17歳のスノードーム


 紅だけが、いつまで経っても赤くならなかった。

「今日はここまでにするか。やり尽くした感あるし」
「そうだね」

 失敗作と、九つの真空パックが整然と並んでいる。

 骸梅(むくろうめ)、写船(うつしぶね)、葬花(とむらいばな)、逆藤(さかふじ)、濡烏(ぬれがらす)。雁文(かりぶみ)、泣蛍(なきほたる)、藍月(あづき)、空椿(からのつばき)。

 残すは紅、ただ一色。
 
 本来なら、焦っていなければおかしい状況だった。色合わせの期限はスノードームの消滅まで。アルカ社はとうに十色を揃えているのに、このままでは勝負の舞台に立つことすらできない。

 それでも僕らの間には、紅よりも重いひとつの不正解が横たわっていた。

 ────18歳以降、異性愛へ移行する。

 久世さんが持ってきた、僕のインクリボンの原本。
 あれから数日が過ぎていた。紙そのものは折り畳んで僕の鞄にしまってあるのに、そこに記された一文だけは、工房のどこへ行ってもついてきた。作業台を挟んで向かい合えば僕らの間に。食事をすれば食卓の上に。夜になれば、互いの寝床を隔てる暗がりの中に。

 *

 あの日。
 久世さんは僕にインクリボンを渡すと、アイトを一瞥して工房から出ていった。
 僕のインクリボンを見て固まっているアイト。僕は本能的に耐えられず、久世さんの後を追ったのだ。

「タツキくん」

 久世さんは僕が追ってくるのを知っているかのようにして振り返ると、ぞっとするほど穏やかな瞳で僕に置き土産を残した。

「スノードームの壁。もう、女の子がひとりで通れるくらいには薄くなってるよ。だから……私は外で待ってるから」

 彼女の頬に、すーっと涙が一筋伝って落ちた。

「答えを出してから来て。誰かのせいにしないで。あなた自身の正解を……持ってきて」

 そうでないなら。と、最後に。久世さんは背を向けて呟いた。

「この繭の中で。ふたりで煮殺されればいい。蚕みたいに……ふたりの世界で」

 *

「蚕……か」

 いつも片付けは分担制だ。基本的にロフトにいる蚕の世話は僕の務め。
 そっと蚕たちに指で触れてみる────なんの答えも返っては来なかった。

「ごめんくださーい!」

 それは聞き覚えのある声だった。
 僕が玄関に出向くと、冷気と共に入ってきたのは、飛騨さんだった。雪の付着したコートのまま、世間話をするでもなく配達員のように懐から折り畳んだ書類を取り出して僕に渡した。

「明日の夜半過ぎ、色合わせを行います。最後の一色を、それまでに持ってきてください」

 それだけ。引き戸がさっと閉まる。
 しばらく書類を見つめたまま立ち尽くしていると、いつの間にか後ろにいたアイトに頬をぽんぽんと叩かれた。

「タツキ。どうした?」
「あぁ、えと。明日までに最後の一色を持って来いってさ」

 アイトは顔色を変えるでもなく、落ち着き払った様子で、そうか。と、ひと言呟いた。
 そして髪紐を外すと、僕に渡してから静かに言った。

「タツキ。明日さ、街いこうぜ」
「……街?」
「最後になるかもしれねえし。昼だけでいいから」

 なにが最後なのか、僕は聞けなかった。
 スノードームの中にいられる最後の日なのか。十七歳でいられる最後の日々なのか。それとも────僕がアイトを好きでいられる、最後の時間なのか。

「紅は?」
「帰ってきてから作る。夜半までには間に合わせるよ」

 *

 夜があけて、雪の向こうに太陽がいた。

 スノードームの中では、空はいつだって乳白色に濁っている。昼も夜も曖昧な水墨画の世界には、光こそあっても、それがどこから降り注いでいるのかはわからなかった。
 けれど、その日は違った。
 細雪はいまだ街を縫っているというのに、薄くなった天蓋を透かして、本物の陽射しが守矢市へ注いでいた。雪の一粒一粒が光を受け、硝子の欠片のようにきらめいている。家々にも、人にも、足元へくっきりと影が伸びていた。

「まぶし……」

 駅から降りたったアイトが手をかざした。
 いつもは青白く見える肌にも、今日は淡い血の色が透けている。陽に照らされた髪の輪郭はやわらかくほどけ、風が吹くたび、玉虫色の光を振り撒いた。

「終わるんだな。スノードーム」
 
 街へ下りると、店々では日常へ戻る準備が始まっていた。軒先には、残留者への感謝を綴った札が下がり、仮設の食堂では椅子や机が片づけられている。ひと月だけの冬眠から覚める前の街は、寂しさと高揚のどちらを選べばいいのかわからず、どこか落ち着きをなくしていた。

 僕らは、その中をあてもなく歩いた。
 商店街の端で、湯気を上げるおやきを買った。僕は野沢菜で、アイトは小豆。ひと口ずつ交換すると、アイトは僕の選んだ方を咀嚼しながら、露骨に眉をひそめた。

「全部よこせよ」
「あ、一口が大きい!」
「ん……もすっ」
「ほら、一度に食べるから。ん? あの時の、もすっ。てこの音だったのかな?」

 くだらないことを言い合いながら、閉まりかけた古本屋を覗き、湖へ続く坂道を下った。なにか特別なことをしたわけではない。それでも、アイトと並んで歩く。ただそれだけの時間が、なくしてしまった日常をひとつずつ拾い直しているように思えた。

 人通りの少ない湖畔へ出たところで、何度か僕らの袖が触れた。
 最初は風のせいだと思った。けれど三度目に触れた時、アイトの小指が僕の指へ絡んだ。
 
 驚いて隣を見る。
 アイトは僕を見ていなかった。陽射しを受ける湖の跡を眺め、まるでなにもしていないような顔で歩いている。そのくせ絡んだ小指は離れず、やがて互いの手のひらが重なった。

 僕も、なにも言わなかった。
 コートの陰に隠すようにして、彼の手を握った。冷えた指先が、僕の体温を探るようにゆっくりと絡み合う。

 この手を、いつまで握っていられるのだろう。
 そう考えた途端、インクリボンの一文が頭をよぎった。けれど、いまだけは追い払った。
 ほんの少しでいい。この一瞬を不正解になんてしたくないから。

「お兄ちゃーん!」

 通りの向こうから声が飛んできた。僕が顔を上げるより早く、アイトの手が離れた。
 陽射しの中へ放り出された指先が、急に冷たくなる。

 こちらへ駆け寄ってきたのは、ナズナとギンスケくんだった。ナズナは大きな紙袋を抱え、ギンスケくんはその倍ほどもある荷物を両腕に提げている。

「なにしてんの、ふたりで。デート?」
「散歩だよ」

 答えたのはアイトだった。
 ナズナの視線が、僕らの間に空いたわずかな隙間へ落ちる。けれど、いつものように面白がって茶化すことはなかった。

「うちらは帰る準備。あと、お土産とか買ったとこ」
「まあ、俺は荷物持ちだよ」

 ギンスケくんは不満そうに言いながらも、紙袋をひとつもナズナへ渡そうとはしない。僕が十色について聞かれ、あと紅だけだと答えると、彼は短く「間に合うよ」と言ってくれた。

 やがてふたりは駅の方へ歩いていった。
 アイトは僕の隣にいながら、しばらく顔を上げなかった。

「さっきの……」

 なにか言おうとした彼を、僕は責めなかった。どうして手を離したのかも、僕とのことを隠したいのかとも聞かなかった。

「おやき、冷めるよ」

 いくつか残っていた包みを差し出すと、アイトは一瞬だけ目を丸くした。それから小豆のおやきを受け取り、ちいさく「ん」と答えた。

 離されたことが、心にささくれを残したわけじゃないけれど。その痛みを彼へ突きつけて、答えを迫ることはしたくなかった。
 アイトにはアイトの恐怖がある。
 僕がそれを理解できると言えば、きっと嘘になる。それでも、知らぬフリをしてでも隣にいることならできる。だから取り残された手はコートのポケットへしまい、代わりに彼の歩幅へ自分の足を合わせた。

 帰り道、手が重なることはもうなかった。
 それでも僕らの肩は、ときおり触れた。袖と袖が擦れるたび、アイトは離れようとせず、僕も歩幅を変えなかった。

 太陽が傾き始めると、雪は淡い金色に染まった。
 工房へ続く石畳の前で、アイトが足を止める。先に行くのかと思ったが、彼は扉の前に立ち、僕が追いつくまで待っていた。

「タツキ、これが最後だ。いいよな?」

 最後。

 その言葉が胸の奥へ灯したものを、僕は口にしなかった。ただ「うん」と答え、アイトの後に続いて敷居をまたいだ。
 扉の向こうでは、九つの正解と、まだ名前を持たない「色」が、僕らの帰りを待っていた。