「祝勝会しようよ」
そう言い出したのは、ナズナだった。
いや、勝っていないし。そもそも十色すら揃っていないのだが……と思ったが、ナズナはおそらく「お別れ会」がしたいのだろう。
スノードームが消えれば、僕らはそれぞれの暮らしへ戻る。だから全員とのお別れ会。
僕の意を汲んだのかわからないが、アイトも了承してくれて、九色目が完成した翌日、工房には菓子やら紙皿やらが次々と持ち込まれた。
「わァ……ァ……すごいよ……ルッキズムの権化だよぉ……」
思えば、ナズナがアイトと対面するのは初めてだ。
美少年とは僕から散々聞いていただろうに、想像を遥かに超えた美の暴力にナズナの足腰はガタガタいうてる。隣に立つ耽二郎先生にしがみつかねば立てないほどだ。
「ジローちゃん。見てほら。美……ルッキズム……ルッキズム!」
「ボッキズム?」
「ちょ……ジローちゃん、最低……でも、すき」
やれやれ。と呆れて苦笑いのギンスケくんも。
顔にはまだ傷の跡があるが、元気そうな姿を見せてくれた。
「それではぁ────!」
全員に飲み物が行き渡ったところで、ナズナがマグカップを掲げた。
「守矢十色、九色完成を祝しまして! ついでに、スノードーム終了間近および、うちら全員のお別れを惜しみまして!」
かんぱーい!
五つのマグカップが、作業台の中央でぶつかった。
陶器の触れ合う音が工房に響き、ロフトの蚕たちが驚いたように一斉にざわめいた。まるで彼らまで乾杯に加わったようで、僕らは顔を見合わせて笑った。
ピザを誰が多く食べたとか、先生が持ち込んだ菓子は見た目のわりに不味いとか、ギンスケくんは黙っていると何人前でも食べ続けるとか。話している内容は、守矢十色にもインクリボンにも関係のないものばかりだった。
けれど、僕はそんな時間が嬉しかった。
少し前まで、アイトとナズナたちが同じ食卓を囲む日が来るなんて考えたこともなかった。アイトは他人を工房へ入れたがらず、僕だけを自分の世界へ囲い込んでいた。僕もまた、それを特別なことだと喜んでいた。
けれど、いまは違う。
先生がアイトの祖父について昔話を始めれば、アイトは嫌そうな顔をしながら耳を傾ける。ナズナが刺青の図像について話せば、途中で口を挟みながらも続きを促す。ギンスケくんがピザを食い尽くそうとすると、箸でその手を牽制する。
狭い工房の中へ、アイトの世界が少しずつ広がっている。
その光景を眺めていると、胸の内側に残っていた痛みまで、ゆっくり溶けていくようだった。
「なあ、タツキ」
隣に座っていたアイトが、僕の膝を軽く蹴った。
「なに?」
「ニヤニヤしてんぞ。きしょいんだが?」
「え、してないよ」
「してる。おまえ今日ずっときしょいんだわ」
「一日中、僕を見てたの?」
言ってから、しまったと思った。
アイトの箸が止まり、僕も手にしていたマグカップへ視線を落とす。正面ではナズナが露骨にこちらへ顔を向けたので、ギンスケくんがその額を手のひらで押し戻した。
「……見えるとこにいるからだろ」
アイトはそれだけ言うと、ピザを取り、僕の器へ放り込んだ。
「もっと筋肉つけろ」
アイトは顔を背けた。耳が、ほんの少し赤かった。
作業台には九色がある。
アイトは僕の隣にいる。
最後の紅を見つければ、すべてが終わる。
僕らはもう、失ったものを数えなくてもいいところまで来たのだと、この時はそう思った。
彼女がここに、来るまでは────
*
お別れ会が終わる頃には、最終の汽車などとうに出てしまっていた。
帰れなくなった三人は、工房のあちこちで勝手に寝床をつくった。ナズナは耽二郎先生のコートを毛布代わりにして長椅子を占領し、ギンスケくんは壁へ背を預けたまま目を閉じている。見た目美少女な耽二郎先生に至っては目についた物でハンモックをつくり、ロフトで吊られて夢の中。
「なんで、散々飲み食いした連中が片づけもせずに寝てんだよ」
母屋の流し台に食器を運びながら、アイトが声を潜めて毒づいた。
「先生起こしてこようか?」
「あいつは一番使えねーぞ。おっさんだから家事できねんだわ」
僕が洗った食器を、アイトが布巾で拭いていく。眠っているみんなを起こさないよう、皿を重ねる音まで自然と小さくなった。
僕の肩とアイトの肩が何度も触れ、そのたびにどちらも避けようとしない。ささやかな接触を壊したくなくて、僕は普段よりゆっくりと食器を洗った。
「おまえさ」
アイトが、濡れた皿へ目を落としたまま口を開く。
「ん?」
「久世に……手紙、出したんだろ」
水音の中で、その名前だけがひどく鮮明に聞こえた。
「うん」
「なんて書いたんだよ」
「待たなくていいって」
アイトの手が止まる。
「僕が久世さんを待たせていたら、たぶん何も変わらないから。これ以上、恋人のままではいられないって書いた」
「……そっか」
アイトは皿を拭き終えても、しばらく同じ場所へ布巾を当て続けていた。
「俺のこと……書いたのか?」
何と答えるべきか迷った。でも嘘をつく理由は、もうない。
「書いたよ」
「そっか」
今度の声は、先ほどよりもさらに小さかった。
アイトは最後の皿を棚へ戻すと、何かを誤魔化すように大きく伸びをした。
「じゃ、明日から紅だな」
アイトが僕の胸を、拳で軽く叩く。
「最後まで付き合えよ、タツキ」
「うん」
その拳へ手を重ねたいと思った。
けれど、僕が動くより先に、アイトは身体を離してしまった。
「ほら、工房の電気消してきて。明日も早いぞ」
ふたりで工房へ向かい、僕は流し台の水気を拭き、火の始末を確かめた。完成した九色の覆いを一つずつ確認し、最後に誰も座っていない椅子を作業台へ戻す。
アイトが先に工房を後にしたのを見届けて、壁際のスイッチへ手を伸ばした。
ぱちん────照明が消える。
ストーブの中に残った熾火と、窓から入る雪明かりだけが、工房の輪郭を曖昧に浮かび上がらせた。
その時だった。
暗くなったから見えたのではない。そこにいるはずのない誰かが、ひとり増えていた。
背中に、ぞわりと冷たいものが走る────僕は振り返った。
「え……?」
作業台の向こう側。ついさっきまで誰もいなかった場所に、ひとりの女の子が立っている。
短い黒髪。
白い頬。
肩の濡れたコートを纏っている。それでもなお、カタログから飛び出てきたような……彼女が。
久世さんが、僕を見つめていた。
「久世……さん……? なんで……」
久世さんだ。確かに彼女だ。幻覚じゃない。
「どうだっていいじゃない、そんなこと」
聞こえたのは、ひどく疲れた響きだった。だが彼女の言葉には、怒りも涙もなかった。
誰かが照明弾でも打ち上げたのか。赤い光が窓を抜けて久世さんの姿を照らした。
そこで初めて、彼女の右手から血が流れていることに気づいた。指先から手のひらまで赤く濡れ、血は手首を伝って制服の袖口へ染み込んでいる。
「その手……」
僕が近づこうとすると、久世さんは血のついていない方の手で制した。
それから胸元へ手を入れ、銀色の封筒を取り出す。
見覚えがあった。
アルカ社の社章。
黒い識別番号。
一度剥がせば元へ戻らない封緘シール。
「久世さん、それは……インクリボンじゃ……」
彼女は僕の前まで歩いてくると、血に濡れた手で封筒を差し出した。
「あなたの正解。持ってきたの」
受け取った封筒は、まだ彼女の体温を残していた。
僕が受け取らずに呆けていると、久世さんは封筒をあけ、中身を僕にみせた。
────有賀タツキ
たしかに、僕の名が記されていた。
僕の、インクリボンだった。
「どうして、これを……」
久世さんは穏やかに、それでいて威圧的に言った。
「読んで」
彼女は僕にインクリボンを押し付けた。
僕は催眠術にでもかかったように、抗えず。蛇腹状に折り畳まれた記録を開いた。
黒い文字と細い線が作業台の上へ延びていく。
そこに書かれているのは、僕の人生だった。
生得的な特徴。性格の傾向。職業への適性。
けれど、そんなものは目に入らなかった。
────不正解の予報。
そこに、僕の知りたいことの全てが、父と母の隠そうとした真実が書かれていた。
「タツキ? 誰としゃべって……え?」
アイトが工房に戻ってきた。
赤い光に照らされる、久世さんの姿をみて。彼も時が止まったような顔をした。
「アイト……僕は……」
僕のインクリボン。不正解の予報。そこは、こう書かれていた。
特定の同性への、非常に強い慕情は17歳までは続くでしょう。
ですが、18歳以降。あなたは異性を愛するようになるでしょう。
そのため、緩やかな移行へ向けて同性との恋愛は避けるのが正解です。執着を持ち続ければ、あなたの人生に修復不可能な深い傷を残すでしょう。
────それだけ
たったそれだけ。でも僕にとっては。
「アイト。これ……読んで」
僕はアイトに、インクリボンを手渡した。
「ごめん……ごめん、アイト……」
アイトは困惑している。久世さんと僕へ何度となく視線を往復させ、やがて観念したようにインクリボンに目を落とした。
「いまだけ……みたいだ。僕が……アイトのことを好きなのは」



