有線ドローンは、白く濁った空へ針を通そうとするように、一本の細い光ファイバーを引きながら昇っていった。
あの中に、久世さんへの“最後の手紙”が載っている。
久世さん。
僕は自分が同性愛者なんだって気づいたんだ。アイトが好きだ。どうしようもなく好きだ。
あの夜も、僕は君ではなく、アイトを想っていた。
インクリボンにも、きっとそう書かれているはずだよ。
────そう書いた。
ドローンは雪の層を貫きながら高度を上げ、やがて僕の目には、糸の先に結ばれた黒い点としか見えなくなった。
正直になれば、胸のつかえが取れると思っていた。
実際には、刺した刃物から手を離しただけだった。これから痛むのは久世さんで、ほんの少し軽くなったのは僕の方だ。
それでも、もう戻すことはできない。
黒い点は天蓋の高みへ吸い込まれ、雪の向こうに見えなくなった。
*
あの夜、僕が抱き締めた腕を、アイトは振りほどかなかった。
どれくらいそうしていただろう。
「今日は泊まっていけ」
とだけ、彼は言った────僕を許すとは言わなかった。
それでも翌日、工房の扉を開けた僕へ、柿渋色のエプロンを投げてよこした。
「おせーよ。蚕が腹ペコで騒いでんぞ」
床には、僕が以前まで使っていた室内履きが揃えて置かれていた。コーヒーは二人分淹れてあり、作業台には僕のための椅子も戻されている。
だから僕も、余計なことは言わなかった。
「僕もお腹空いてるんだけどな」
「そこの引き出しに、カッチカチのパン入ってるぞ。食え」
「小学生が机に入れてるやつ。みたいな?」
「それそれ。お前にやるよ……ふふっ」
許されたわけではない。
壊れたものを元通りにできたわけでもない。
けれど僕らは、壊れた箇所を避けて歩くことをやめた。踏めば痛むと知った上で、また同じ工房の中を歩き始めた。
それからの日々は、色を作ることを中心に回った。
朝、蚕へ餌をやる。アイトが素材を砕き、僕が粒子の粗さを確かめる。膠を湯煎にかけ、火から下ろす時機を見計らい、二人で顔料を練る。
「アイト、工房でチーズタッカルビはいかんでしょ」
「お前には唐辛子抜きのキムチあるぞ」
ロフトへ上がれば、蚕たちが桑の葉を食む音がさわさわと降ってくる。その下で僕らは顔料を練り、乾かし、また砕いた。夜になると同じテーブルで遅い夕食をとり、僕が洗い物をしている間に、アイトが椅子へ座ったまま眠っていることもあった。
作業中、長い髪が落ちてくると、アイトは顔料まみれの両手をこちらへ見せた。
「タツキ。髪」
僕が背後へ回ると、アイトは当然のように顎を上げた。ロングウルフの髪を手櫛で集め、首筋に触れないよう注意しながら結ぶ。
それでも時折、指の背が白い肌を掠めた。
そのたびに胸の奥が騒いだ。
以前なら、どうしてこんな気持ちになるのかわからないふりができた。いまはもう、その名前を知っている。
手紙に書いた言葉は、嘘ではなかった。
────僕はアイトが好きだ。
けれど、それを本人へ告げることはできずにいた。
あの無人駅で、差し出された唇から逃げたのは僕だ。一度拒んで傷つけたくせに、今度は自分から好きだと迫るなんて、あまりに身勝手に思えた。
それに、アイトはまだ、僕を許したとは言っていない。
髪を結わせることも、二人分のコーヒーを淹れることも、隣で眠ることも。すべてが許しに見える一方で、僕にそう思わせないための逃げ道も残されていた。
だから僕は、その曖昧さに甘えた。
答えを求めなければ、こうして隣にいられる────それが卑怯だと知りながら。
*
「正解だ」
「できたね。これで九つ揃った」
藍月が完成したのは、凍った湖で水を汲んだ二日後だった。
そしていま、作業台の上には、九枚の白磁の器が並んでいる。
骸梅。
写船。
葬花。
逆藤。
濡烏。
雁文。
泣蛍。
藍月。
空椿。
アイトの背中に刻まれた九色が、再びこの世に生を受けたのだ。
「爺ちゃんが残した色だ」
器を見つめながら、アイトがつぶやく。
「あと、ひとつだね」
「ああ……あとひとつ」
僕らは同時に、九枚の器の先に残された空白を見た。
最後の一色────紅。
それだけは読み方すらわからない。べに。なのか、くれない。なのか。
製法を記した図像はない。
色見本も存在しない。
ただ不思議と、《モナリザ観音》の唇だけが、何色にも染まらず残されている。そこにヒントがあるのだろうか。
ナズナですら、いまだ最後の紅だけはきっかけすら掴めずにいる。僕らはここにきてスタートラインに立ったような気分だった。
それでも、不思議と怖くはなかった。
九色を揃えたばかりの僕らにとって、残り一色という言葉は絶望ではなく、もうすぐ辿り着ける場所のように思えたから。
「いけるよ、アイト」
「ったりめえだろ」
アイトは僕の腕を掴んで一度強く揺すった。
「俺たちなら、絶対に見つけられる。そうだろ?」
俺たち。
その言葉が、胸の奥へゆっくりと沈んでいく。じんわりと暖かい。
スノードームが消えるまで、まだ時間はある。
最後の色を探し、天井の観音を完成させ、その先のことを話す時間だって残されている。
僕は久世さんへ、本当のことを告げた。
アイトもまた、僕を隣へ戻してくれた。
九枚の器が並ぶ作業台の前で、僕はもう、自分の正解を見つけたつもりでいた。



