17歳のスノードーム


 有線ドローンは、白く濁った空へ針を通そうとするように、一本の細い光ファイバーを引きながら昇っていった。
 あの中に、久世さんへの“最後の手紙”が載っている。

 久世さん。
 僕は自分が同性愛者なんだって気づいたんだ。アイトが好きだ。どうしようもなく好きだ。
 あの夜も、僕は君ではなく、アイトを想っていた。
 インクリボンにも、きっとそう書かれているはずだよ。

 ────そう書いた。

 ドローンは雪の層を貫きながら高度を上げ、やがて僕の目には、糸の先に結ばれた黒い点としか見えなくなった。

 正直になれば、胸のつかえが取れると思っていた。
 実際には、刺した刃物から手を離しただけだった。これから痛むのは久世さんで、ほんの少し軽くなったのは僕の方だ。

 それでも、もう戻すことはできない。

 黒い点は天蓋の高みへ吸い込まれ、雪の向こうに見えなくなった。

 *

 あの夜、僕が抱き締めた腕を、アイトは振りほどかなかった。
 どれくらいそうしていただろう。

「今日は泊まっていけ」

 とだけ、彼は言った────僕を許すとは言わなかった。
 それでも翌日、工房の扉を開けた僕へ、柿渋色のエプロンを投げてよこした。

「おせーよ。蚕が腹ペコで騒いでんぞ」

 床には、僕が以前まで使っていた室内履きが揃えて置かれていた。コーヒーは二人分淹れてあり、作業台には僕のための椅子も戻されている。

 だから僕も、余計なことは言わなかった。

「僕もお腹空いてるんだけどな」
「そこの引き出しに、カッチカチのパン入ってるぞ。食え」
「小学生が机に入れてるやつ。みたいな?」
「それそれ。お前にやるよ……ふふっ」

 許されたわけではない。
 壊れたものを元通りにできたわけでもない。

 けれど僕らは、壊れた箇所を避けて歩くことをやめた。踏めば痛むと知った上で、また同じ工房の中を歩き始めた。

 それからの日々は、色を作ることを中心に回った。
 朝、蚕へ餌をやる。アイトが素材を砕き、僕が粒子の粗さを確かめる。膠を湯煎にかけ、火から下ろす時機を見計らい、二人で顔料を練る。

「アイト、工房でチーズタッカルビはいかんでしょ」
「お前には唐辛子抜きのキムチあるぞ」

 ロフトへ上がれば、蚕たちが桑の葉を食む音がさわさわと降ってくる。その下で僕らは顔料を練り、乾かし、また砕いた。夜になると同じテーブルで遅い夕食をとり、僕が洗い物をしている間に、アイトが椅子へ座ったまま眠っていることもあった。

 作業中、長い髪が落ちてくると、アイトは顔料まみれの両手をこちらへ見せた。

「タツキ。髪」

 僕が背後へ回ると、アイトは当然のように顎を上げた。ロングウルフの髪を手櫛で集め、首筋に触れないよう注意しながら結ぶ。

 それでも時折、指の背が白い肌を掠めた。
 そのたびに胸の奥が騒いだ。
 以前なら、どうしてこんな気持ちになるのかわからないふりができた。いまはもう、その名前を知っている。

 手紙に書いた言葉は、嘘ではなかった。
 ────僕はアイトが好きだ。
 けれど、それを本人へ告げることはできずにいた。

 あの無人駅で、差し出された唇から逃げたのは僕だ。一度拒んで傷つけたくせに、今度は自分から好きだと迫るなんて、あまりに身勝手に思えた。

 それに、アイトはまだ、僕を許したとは言っていない。

 髪を結わせることも、二人分のコーヒーを淹れることも、隣で眠ることも。すべてが許しに見える一方で、僕にそう思わせないための逃げ道も残されていた。

 だから僕は、その曖昧さに甘えた。
 答えを求めなければ、こうして隣にいられる────それが卑怯だと知りながら。

 *

「正解だ」
「できたね。これで九つ揃った」

 藍月(あづき)が完成したのは、凍った湖で水を汲んだ二日後だった。
 そしていま、作業台の上には、九枚の白磁の器が並んでいる。

 骸梅(むくろうめ)。
 写船(うつしぶね)。
 葬花(とむらいばな)。
 逆藤(さかふじ)。
 濡烏(ぬれがらす)。
 雁文(かりぶみ)。
 泣蛍(なきほたる)。
 藍月(あづき)。
 空椿(からのつばき)。

 アイトの背中に刻まれた九色が、再びこの世に生を受けたのだ。

「爺ちゃんが残した色だ」

 器を見つめながら、アイトがつぶやく。

「あと、ひとつだね」
「ああ……あとひとつ」

 僕らは同時に、九枚の器の先に残された空白を見た。

 最後の一色────紅。

 それだけは読み方すらわからない。べに。なのか、くれない。なのか。
 製法を記した図像はない。
 色見本も存在しない。
 ただ不思議と、《モナリザ観音》の唇だけが、何色にも染まらず残されている。そこにヒントがあるのだろうか。
 ナズナですら、いまだ最後の紅だけはきっかけすら掴めずにいる。僕らはここにきてスタートラインに立ったような気分だった。

 それでも、不思議と怖くはなかった。
 九色を揃えたばかりの僕らにとって、残り一色という言葉は絶望ではなく、もうすぐ辿り着ける場所のように思えたから。

「いけるよ、アイト」
「ったりめえだろ」

 アイトは僕の腕を掴んで一度強く揺すった。

「俺たちなら、絶対に見つけられる。そうだろ?」

 俺たち。
 その言葉が、胸の奥へゆっくりと沈んでいく。じんわりと暖かい。

 スノードームが消えるまで、まだ時間はある。
 最後の色を探し、天井の観音を完成させ、その先のことを話す時間だって残されている。

 僕は久世さんへ、本当のことを告げた。
 アイトもまた、僕を隣へ戻してくれた。

 九枚の器が並ぶ作業台の前で、僕はもう、自分の正解を見つけたつもりでいた。