「アイト────!」
走ったところで、汽車に追いつけるはずがなかった。
黒い車体は湖畔の線路を滑り、車窓に並ぶ明かりをひとつの帯にして遠ざかっていく。僕はそれでも追い縋り、息が焼けるように痛み始めてから、ようやく足を止めた。
最後尾の赤い灯が、雪の向こうへ呑み込まれる。
アイトを乗せた汽車はもう見えない。
次の便はなかった。仮にあったとしても、ホームで大人しく待っていられたとは思えない。車内でアイトを見ていた男たちの顔と、振り返って小さく手を振った横顔が、交互に脳裏へ浮かんでは消えていく。
僕は乱れた息を整えることもせず、その足で工房へ向かった。
雪の積もった街を抜け、湖畔の道をひたすら歩いた。走れるところでは走り、足がもつれれば歩き、呼吸が戻ればまた走った。カシマさんに殴られた腹が痛み、凍った湖で冷え切った靴の中では、爪先の感覚がとうに失われていた。
そんなもの、立ち止まる理由にはならなかった。
「アイト……!」
*
片倉家へ続く石畳が見えてきた────あの頃と同じ道だった。
両脇に低い石垣が延び、雪をかぶった家々の屋根がその向こうに重なっている。足元には僕の影だけが伸びていたが、角を曲がるたび、目元から血を流した男が現れるような気がした。
石畳を上りきる。
工房には明かりがついていた。
窓硝子の向こうで暖炉の火が揺れ、ロフトから降り注ぐ蚕たちの影を壁へ映している。その光景にわずかに胸を撫で下ろし、僕は扉まで駆け寄った。
「アイト!」
勢いよく開け放った扉が、内側の壁へぶつかる。
……返事はない。
暖炉では薪が燃え、作業台には採水瓶が置かれていた。湖から汲み上げた藍色の水が、ランプの光を受けて硝子の中で揺れている。
けれど、アイトの姿はどこにもなかった。
「アイト……?」
上着もある。鞄もある。
僕はロフトを見上げ、工房の奥を覗き、もう一度彼の名を呼んだ。
返ってくるのは、蚕たちが桑を食むさわさわという音だけだった。
────まさか。
胸をよぎったものに、全身の血が凍りついた。
僕は工房を飛び出し、敷地の奥にある母屋へ走った。
玄関は、開いていた。
その光景を目にした途端、いままで走ってきた道も、積み重なった時間も、一瞬にして消え失せた。
僕はまた中学生に戻っていた。
開け放たれた玄関。返事のない家。廊下の奥から漂ってくる線香の匂い。白い骨壺と、畳に残った赤黒い染み。
「アイト!」
靴を脱ぐことも忘れ、家の中へ駆け込んだ。
「アイト! どこにいるんだよ!」
灯りの落ちた廊下を走り、手当たり次第に襖を開ける。胸の古傷が、簪を刺されたあの日と同じ熱を持って脈打っていた。
いない……!
どこにもいない……!
僕はやがて、廊下の最も奥にある部屋へ向かっていた。
かつてアイトが倒れていた、あの部屋へ。
襖は閉じている。
手をかけようとした指が震えた。
この向こうに、あの日と同じ光景があったなら。
今度こそ、僕は────
「タツキ?」
背後から、名前を呼ばれた。
振り返る────廊下の曲がり角に、アイトが立っていた。
片手にはマグカップがあり、白い湯気が彼の頬を撫でている。驚いた顔で僕を見つめているほかには、何も変わったところはない。
服も乱れていない。血も流していない。
無事だった。
「おまえ、なんで……」
返事ができない。それでもカラダはアイトに向かってゆく。
「タツキ、どうしたん────」
その先を言わせることなく、僕はアイトを抱きしめた。
僕が力を込めすぎたからだろうか。マグカップが落ちて、廊下を濡らした。アイトの身体は驚きに強張っていたが、やがて彼はその両の腕をそっと僕の背中に回した。



