中学生になって、僕とアイトは壁で分たれた。
僕には友達ができた。休み時間になれば机の周りに何人かが集まり、放課後には寄り道へ誘われる。部活動の愚痴を聞き、くだらない話で笑い、試験前には誰かの家へ集まる。
はたから見れば、ごく普通の中学生だったと思う。
対してアイトは、いつもひとりだった。
アイトの髪は長いまま。そこには一本の簪が挿されていた。
まだ僕らが仲良しだった頃、祭りの露店で買ったものだ。飾り気のない細身の一本簪で、僕のものと見分けるため、アイトの方にだけ藍色の硝子玉がついている。
僕の髪はもう短い。
母さんに切られたあの日から、簪を使うこともなくなった。それでも捨てられず、僕の方は学習机の引き出しにしまってある。
アイトが同じものを使い続けている理由は、わからない。
それでも、廊下ですれ違うたびに、僕は藍色の硝子玉を目で追った。
けれど、一度として声はかけなかった。
僕がアイトのインクリボンを晒してから、周囲の人間が彼を見る目は変わってしまった。
だから、僕だけは見ないふりをした。
それがアイトのためなのだと、自分に言い聞かせながら。
*
アイトのお祖父さんが亡くなったことは、教室で耳にした。
「片倉んちの爺さん、死んだらしいよ」
誰かが口にした言葉は、給食の献立でも話すような軽さで、そのまま別の話題へ流されていった。
顔料師としては昔気質の職人で、工房へ遊びに行けば、僕もアイトとまとめてよく叱られた。道具に触るな。走るな。口を開けたまま粉を覗き込むな。そんなことばかり言う人だったが、帰り際には必ず菓子を持たせてくれた。
僕の髪が長くても、女物の服を着ていても、何も聞かなかった。
ただ、作業の邪魔になるから結んでおけ、と言っただけだった。
母さんからも、学校の先生からも、腫れ物に触るような扱いを受けていた僕を、お祖父さんだけは単純に「邪魔な子ども」として叱ってくれた。
それが、嬉しくて。
どうにかお悔やみくらい伝えたいと思った。
けれど、数日後に登校してきたアイトは、以前にも増して誰も寄せつけなかった。声をかける隙などなく、僕は毎日のように彼の席を横目で見ながら、結局何も言えずにいた。
そんなある日の放課後だった。
「タツキ」
背後から呼ばれた声に、僕の足が止まった。
────昔と同じ呼び方だった。
振り返ると、廊下の窓際にアイトが立っていた。夕暮れを背負い、表情はよく見えない。髪に挿された硝子玉だけが、薄暗がりの中で小さく光っていた。
「爺ちゃん、死んだんだ」
「うん……聞いたよ。その……ご愁傷様です」
あまりに他人行儀な言葉が口から出て、自分でも嫌になる。
アイトは気に留めた様子もなく、窓の外へ目を向けた。
「あのさ。まだ家に骨があるんだ。でも、そろそろ墓に入れなきゃいけなくて」
そこで一度、言葉が途切れた。
アイトは何かを飲み込むように喉を動かしてから、こちらを見ないまま続けた。
「だから……その前に、爺ちゃんに会ってやってくれないか。爺ちゃん、おまえのことも孫みたいに思ってたから」
どうして僕を誘うのか、聞けなかった。
僕を許したという意味なのか。もう一度、以前のように話してもいいということなのか。そんな期待が、胸の奥で身勝手に膨らんだ。
「うん。行くよ」
「今日、来れるか?」
「行く。学校が終わったら、すぐに」
「……そっか」
アイトはそれだけ言うと、僕に背を向けた。
廊下の向こうへ遠ざかっていく髪の中で、藍色の硝子玉が何度も揺れた。
僕はその日、アイトに嘘をついた。
*
夕刻を過ぎても、僕はまだアイトの家へ向かえずにいた。
行かなければならない。
そう思うほど、足が動かなかったのだ。
窓の外はいつしか暗くなり、約束した時刻など、とっくに過ぎていた。
このまま行かなければ……明日、急に用事ができたと謝ればいい。もともと僕らの交流は途絶えていたのだから、いまさら失うものなど何もない。
そこまで考えたところで、廊下に立っていたアイトの姿が浮かんだ。
────爺ちゃん、おまえのことも孫みたいに思ってたから。
アイトは、あの言葉をどんな気持ちで口にしたのだろう。
僕よりもずっと、僕を呼び止める方が怖かったのではないか。
「……行かなきゃ」
声に出すと、ようやく足が動いた。
*
片倉家へ続く石畳は、子どもの頃と少しも変わっていなかった。
両脇には低い石垣が延び、その向こうに家々の屋根が重なっている。工房から漂ってくるはずの膠や鉱物の匂いはなく、辺りは怖いほどに静かだった。
遅くなったことを、どう謝ろう。
考えながら坂を上っていると、前方からひとりの男が歩いてきた。
ひどく足取りが乱れている。片手で顔を覆い、もう片方の手を石垣に擦りながら、転がるように坂を下ってくる。
すれ違いざま、男の指の隙間から何かが滴った。
────血だった。
頬から顎へ伝い、コートの襟を赤黒く濡らしている。目元を押さえているらしく、その手には細い傷が幾筋も走っていた。
肩がぶつかりそうになり、僕は咄嗟に道を譲った。
男は僕を見なかった。
そのまま坂を駆け下り、角を曲がって姿を消した。
石畳には、小さな血の跡だけが残っている。
嫌な予感などという言葉では足りなかった。
胸の内側へ冷たい水が流れ込み、次の瞬間には僕の全身が沈んで溺れた。
「アイト……?」
気づけば、僕は走り出していた。
見慣れた工房の扉は閉ざされ、明かりもついていない。呼びかけても、蚕の気配すら返ってこなかった。
敷地の奥にある母屋へ回る────玄関が開いていた。
「アイト!」
返事はない。
靴を脱ぐ余裕もなく、土足のまま上がり込んだ。廊下には線香の匂いが残り、奥の仏間では、蝋燭の火が頼りなく揺れている。
白い骨壺が、祭壇の上に置かれていた。
「アイト! アイト────!」
襖を開ける。誰もいない。
次の部屋にもいない。
廊下を進むたび、不安は濁流のように膨れ上がり、家そのものを呑み込んでいった。僕は手当たり次第に襖を開け、アイトの名前を呼び続けた。
やがて、奥まった部屋の前で足が止まった。
襖が、わずかに開いている。
その隙間から見えた畳に、赤黒い染みがあった。
震える手を伸ばし、襖を開けた。
アイトは、箪笥と壁のあいだにうずくまっていた。
長い髪が顔を覆い、制服はさんざんに乱れている。シャツのボタンがいくつも失われ、畳の上には鞄の中身と一緒に、折れた筆や小さな白磁の皿が散らばっていた。
すぐそばには、藍色の硝子玉が落ちている────お揃いで買った、あの簪だった。
その先端にも、血がついていた。
さきほどの男が何者だったのか。ここで何が起きたのか。
考える必要などなかった。
知りたくもないことだけが、ひと目でわかってしまった。
「……アイト」
僕は、アイトへ近づいた。手を触れようとして。
刹那。彼の手が動いた。
避けようと思えば、避けられたのかもしれない。それでも僕は動けなかった。
かんざしが、僕の胸に突き立てられていたのだ。
細い先端が制服を貫き、左胸に赤いシミが広がってゆく。
切ないくらいに震えながら、アイトは簪から手を離さなかった。
僕らで選んだものだった。
同じものを持っていることが嬉しくて、何度も髪へ挿し合ったものだった。
その簪が、いまは僕をアイトから遠ざけるための刃になっていた。
「おまえのせいだ」
インクリボンを晒したこと。
教室の視線を変えたこと。
ひとりにしたこと。
今日、すぐに来なかったこと。
そのすべてが、ひとつの言葉になって僕の胸へ沈んだ。
「おまえのせいだ……!」



