17歳のスノードーム


 中学生になって、僕とアイトは壁で分たれた。

 僕には友達ができた。休み時間になれば机の周りに何人かが集まり、放課後には寄り道へ誘われる。部活動の愚痴を聞き、くだらない話で笑い、試験前には誰かの家へ集まる。
 はたから見れば、ごく普通の中学生だったと思う。

 対してアイトは、いつもひとりだった。

 アイトの髪は長いまま。そこには一本の簪が挿されていた。
 まだ僕らが仲良しだった頃、祭りの露店で買ったものだ。飾り気のない細身の一本簪で、僕のものと見分けるため、アイトの方にだけ藍色の硝子玉がついている。

 僕の髪はもう短い。
 母さんに切られたあの日から、簪を使うこともなくなった。それでも捨てられず、僕の方は学習机の引き出しにしまってある。

 アイトが同じものを使い続けている理由は、わからない。
 それでも、廊下ですれ違うたびに、僕は藍色の硝子玉を目で追った。

 けれど、一度として声はかけなかった。
 僕がアイトのインクリボンを晒してから、周囲の人間が彼を見る目は変わってしまった。
 だから、僕だけは見ないふりをした。
 それがアイトのためなのだと、自分に言い聞かせながら。

 *

 アイトのお祖父さんが亡くなったことは、教室で耳にした。

「片倉んちの爺さん、死んだらしいよ」

 誰かが口にした言葉は、給食の献立でも話すような軽さで、そのまま別の話題へ流されていった。

 顔料師としては昔気質の職人で、工房へ遊びに行けば、僕もアイトとまとめてよく叱られた。道具に触るな。走るな。口を開けたまま粉を覗き込むな。そんなことばかり言う人だったが、帰り際には必ず菓子を持たせてくれた。

 僕の髪が長くても、女物の服を着ていても、何も聞かなかった。
 ただ、作業の邪魔になるから結んでおけ、と言っただけだった。
 母さんからも、学校の先生からも、腫れ物に触るような扱いを受けていた僕を、お祖父さんだけは単純に「邪魔な子ども」として叱ってくれた。

 それが、嬉しくて。
 どうにかお悔やみくらい伝えたいと思った。

 けれど、数日後に登校してきたアイトは、以前にも増して誰も寄せつけなかった。声をかける隙などなく、僕は毎日のように彼の席を横目で見ながら、結局何も言えずにいた。

 そんなある日の放課後だった。

「タツキ」

 背後から呼ばれた声に、僕の足が止まった。
 ────昔と同じ呼び方だった。
 振り返ると、廊下の窓際にアイトが立っていた。夕暮れを背負い、表情はよく見えない。髪に挿された硝子玉だけが、薄暗がりの中で小さく光っていた。

「爺ちゃん、死んだんだ」
「うん……聞いたよ。その……ご愁傷様です」

 あまりに他人行儀な言葉が口から出て、自分でも嫌になる。
 アイトは気に留めた様子もなく、窓の外へ目を向けた。

「あのさ。まだ家に骨があるんだ。でも、そろそろ墓に入れなきゃいけなくて」

 そこで一度、言葉が途切れた。
 アイトは何かを飲み込むように喉を動かしてから、こちらを見ないまま続けた。

「だから……その前に、爺ちゃんに会ってやってくれないか。爺ちゃん、おまえのことも孫みたいに思ってたから」

 どうして僕を誘うのか、聞けなかった。
 僕を許したという意味なのか。もう一度、以前のように話してもいいということなのか。そんな期待が、胸の奥で身勝手に膨らんだ。

「うん。行くよ」
「今日、来れるか?」
「行く。学校が終わったら、すぐに」
「……そっか」

 アイトはそれだけ言うと、僕に背を向けた。
 廊下の向こうへ遠ざかっていく髪の中で、藍色の硝子玉が何度も揺れた。

 僕はその日、アイトに嘘をついた。

 *

 夕刻を過ぎても、僕はまだアイトの家へ向かえずにいた。

 行かなければならない。
 そう思うほど、足が動かなかったのだ。
 窓の外はいつしか暗くなり、約束した時刻など、とっくに過ぎていた。

 このまま行かなければ……明日、急に用事ができたと謝ればいい。もともと僕らの交流は途絶えていたのだから、いまさら失うものなど何もない。

 そこまで考えたところで、廊下に立っていたアイトの姿が浮かんだ。

 ────爺ちゃん、おまえのことも孫みたいに思ってたから。

 アイトは、あの言葉をどんな気持ちで口にしたのだろう。
 僕よりもずっと、僕を呼び止める方が怖かったのではないか。

「……行かなきゃ」

 声に出すと、ようやく足が動いた。

 *

 片倉家へ続く石畳は、子どもの頃と少しも変わっていなかった。
 両脇には低い石垣が延び、その向こうに家々の屋根が重なっている。工房から漂ってくるはずの膠や鉱物の匂いはなく、辺りは怖いほどに静かだった。

 遅くなったことを、どう謝ろう。
 考えながら坂を上っていると、前方からひとりの男が歩いてきた。
 ひどく足取りが乱れている。片手で顔を覆い、もう片方の手を石垣に擦りながら、転がるように坂を下ってくる。

 すれ違いざま、男の指の隙間から何かが滴った。
 ────血だった。
 頬から顎へ伝い、コートの襟を赤黒く濡らしている。目元を押さえているらしく、その手には細い傷が幾筋も走っていた。

 肩がぶつかりそうになり、僕は咄嗟に道を譲った。
 男は僕を見なかった。
 そのまま坂を駆け下り、角を曲がって姿を消した。

 石畳には、小さな血の跡だけが残っている。
 嫌な予感などという言葉では足りなかった。
 胸の内側へ冷たい水が流れ込み、次の瞬間には僕の全身が沈んで溺れた。

「アイト……?」

 気づけば、僕は走り出していた。
 
 見慣れた工房の扉は閉ざされ、明かりもついていない。呼びかけても、蚕の気配すら返ってこなかった。
 敷地の奥にある母屋へ回る────玄関が開いていた。

「アイト!」

 返事はない。

 靴を脱ぐ余裕もなく、土足のまま上がり込んだ。廊下には線香の匂いが残り、奥の仏間では、蝋燭の火が頼りなく揺れている。
 白い骨壺が、祭壇の上に置かれていた。

「アイト! アイト────!」

 襖を開ける。誰もいない。
 次の部屋にもいない。

 廊下を進むたび、不安は濁流のように膨れ上がり、家そのものを呑み込んでいった。僕は手当たり次第に襖を開け、アイトの名前を呼び続けた。

 やがて、奥まった部屋の前で足が止まった。
 襖が、わずかに開いている。
 その隙間から見えた畳に、赤黒い染みがあった。
 
 震える手を伸ばし、襖を開けた。

 アイトは、箪笥と壁のあいだにうずくまっていた。

 長い髪が顔を覆い、制服はさんざんに乱れている。シャツのボタンがいくつも失われ、畳の上には鞄の中身と一緒に、折れた筆や小さな白磁の皿が散らばっていた。

 すぐそばには、藍色の硝子玉が落ちている────お揃いで買った、あの簪だった。
 その先端にも、血がついていた。
 
 さきほどの男が何者だったのか。ここで何が起きたのか。
 考える必要などなかった。
 知りたくもないことだけが、ひと目でわかってしまった。

「……アイト」

 僕は、アイトへ近づいた。手を触れようとして。
 刹那。彼の手が動いた。
 避けようと思えば、避けられたのかもしれない。それでも僕は動けなかった。

 かんざしが、僕の胸に突き立てられていたのだ。

 細い先端が制服を貫き、左胸に赤いシミが広がってゆく。
 切ないくらいに震えながら、アイトは簪から手を離さなかった。

 僕らで選んだものだった。
 同じものを持っていることが嬉しくて、何度も髪へ挿し合ったものだった。
 その簪が、いまは僕をアイトから遠ざけるための刃になっていた。

「おまえのせいだ」

 インクリボンを晒したこと。
 教室の視線を変えたこと。
 ひとりにしたこと。
 今日、すぐに来なかったこと。

 そのすべてが、ひとつの言葉になって僕の胸へ沈んだ。

「おまえのせいだ……!」