ボンボンのついたニット帽を被ったアイト。
いまも親友と呼んでいいのかは怪しい。少なくとも、正面衝突して喜ばれるような関係ではない。
────が。いまはふたりで腕を組んで歩いている。
「勘違いすんなよ。藍月が見つかるまでだからな」
「わかってるよ」
アイトもまた、カシマさんから聞いた話を頼りにここへ来たという。
あの壁画を訪れた際に、この場所を知ったのだとか。
「あと、歩くの遅いんだよ、ヨカタ」
「僕の方が足長いからね。短い方に合わせるのって難しいね」
「おまえ……二度はないぞ。二度はない」
アイトは色盲だ。ゆえに、夜目があまり効かない。
先ほどの衝突時。彼は僕のように呆けていたのでないが、いかんせん目が役に立たないので、ひたすら下を向いて歩いていた。そしてごっつんこ。である。
だから僕から提案して腕を組んで歩こうと言った。
彼は無論、嫌がったが、腕にしがみつく理由はまだあった。
ぉおおおお────ん…………もすっ。
「うわ、まただ!」
「なんの声だろうね?」
腹の底へ響くような、低い声がした。
僕らは同時に足を止めた。アイトの指が、ぎゅっと僕の腕へ食い込む。
「もすってなんだよ、最後のもすって。おまえ聞いたか?」
「僕らはオスだから、かな」
声は湖の底から響いたようだった。獣にも、人間の呻きにも聞こえる。それが一度遠ざかったかと思うと、今度は僕らの真下を這うように移動してくる。
再び、ぉおおん……もす。と声が響く。
アイトの身体が僕の腕へぴたりと寄った。
「怖い?」
「こ、怖くねえよ。足元が揺れたからだ」
口では強がりながら、離れる気配はない。僕もわざわざ指摘するのはやめた。
湖が三度目の声を上げた頃には、それが恐ろしいものというより、僕らの会話へ時折割り込んでくる妙な同行者のように思えてきた。
「アイト。少し右に寄るよ」
「な、なんで。あんま変な動きすると……」
「氷の下、地面が落ち込んでる」
干上がった湖底には、かつて水が流れていた深い溝が残っていた。薄く戻った湖水はその地形に沿って凍り、僕らの前には緩やかな坂が口を開けている。満月の光では境目がわかりにくく、知らずに踏み込めば一気に滑り落ちそうだった。
僕は平らな場所を選んで迂回しようとした。
けれど、アイトの竦んだ足が氷に挟まる。
「あっ」
引かれたアイトが僕へ倒れ込み、その勢いで僕の靴も滑った。二人して坂へ投げ出され、氷の上をなすすべもなく滑り落ちてゆく。
右へ左へ回転しながら、僕はどうにかアイトの身体を抱え込んだ。直後、背中から氷へ叩きつけられる。肺の空気が一度に押し出され、視界の中で月が大きく揺れた。
「いっ……たぁ……」
「タツキ……生きてる?」
「死んでるかもー」
「生きてんじゃん」
「心配なら人工呼吸してもいいよ」
言ってから、しまったと思った。
アイトの瞳が揺れる。
無人駅の夜が、僕らの間へ戻ってきた。触れかけて、僕が拒んだ唇。あの時と同じ距離に彼の顔がある。
アイトは何も言わず、僕の胸を押して起き上がった。
「バカタレ」
「……ごめん」
僕も身体を起こし、背中についた氷の粉を払う。冗談にしては、踏んではいけない場所を正確に踏み抜いてしまった。
「おまえ、その顔どうした」
暗がりで気づかず、どうやら近づいた拍子に腫れた頬へ気づいたらしい。
「カシマさんと、ちょっと喧嘩した」
「……は?」
アイトの口元が、ほんの少し緩んだ。
「ざまあ」
「どっちに言ってる?」
「両方だよ、ヨカタが」
ふっと、アイトが笑った。
凍りついた湖の上に、わずかな温度が戻る。
「ほら」
僕はもう一度、腕を差し出した。
今度のアイトは文句を言わなかった。僕の袖を掴み、さっきよりも少しだけ近い場所へ並ぶ。
僕らは湖の奥へ進んだ。
氷の下には、沈んだ木片や、水を失って眠る水草、古い瓶や硬貨まで見えた。時間そのものを凍らせ、その上を歩いているようだった。
やがて、氷の下を細い色が走った。
「待って」
僕が足を止めると、アイトも腕を引かれて立ち止まった。
「何かあったか?」
「……青い」
「どこだ?」
「足元。いや、もう少し先だ」
氷の下に、細い藍色の筋が見える。墨を一滴垂らした水が、透明な器の底を這っていくような色だった。それは幾つにも枝分かれしながら湖の中心へ向かい、ひとつの場所へ集まっている。
僕らは色を追った。
歩くほどに藍は濃くなり、やがて氷原の中に、丸い水面が現れた。
そこだけ氷が張っていない。
湖底から湧き上がる水が、凍結を拒むように静かな波紋を広げていた。水は夜空よりも深い藍色をしていて、その真ん中には、空にあるはずの満月が揺れている。
白い月が、藍色の水へ沈んでいた。
────月は地に堕ちる。
カシマさんの言葉が、ようやく意味を持った。
「あったよ、アイト」
僕は声を潜めた。大声を出せば、目の前の光景が壊れてしまいそうだった。
「月が……湖に落ちてる」
*
「今日は、宿に戻る?」
汽車の車輪が、一定のリズムで線路を叩いている。
暖房の効きが悪い車内で、僕らはボックス席に向かい合って座っていた。湖で濡れた手袋を膝に置き、アイトは大事そうに鞄を抱えている。
その中、湖に落ちた月の雫が収まっているのだ。
「いや、工房。この水、今夜のうちに加工しねえと」
「……僕も行こうか?」
「いいよ。レシピならある」
アイトは窓の外へ顔を向けた。
「おまえの妹が解読してくれたやつな」
氷上で少しだけ縮まった距離が、元に戻った。
「うん。わかった」
それ以上、何も言えなかった。
汽車には僕らのほかにも、十人ほどの乗客がいた。仕事帰りらしい人。買い物袋を抱えた老婦人。酒の匂いを纏った、若い男が三人。
僕は気づく────その男たちが、先ほどからアイトを見ている、と。
視線は、長い髪から細い首筋へ落ち、膝や足元を舐めるように往復している。僕と目が合えば逸らすくせに、しばらくするとまたアイトへ戻ってゆく。
「アイト」
「ん?」
「あの人たち……さっきから、アイトのこと見てる」
アイトは一度だけ男たちの方へ顔を向け、すぐに興味を失った。
「ほっとけよ。女みたいに見えるから勘違いしてんだ。残念でゲスね」
「でも」
「大丈夫だって。何もしてきてねえだろ」
「やっぱり、工房まで一緒に行こうか?」
「いいって言ってんだろ」
拒絶というより、疲れた声だった。
「おまえの宿、次だろ。帰って寝ろよ。その顔でうろついてたら、そっちの方が補導されるぞ」
「……わかった」
本当は、わかっていなかった。
ただ、これ以上言えば、せっかく氷上で戻りかけたものまで壊してしまいそうで。僕は口を閉じた。
そうこうしていると、汽車が速度を落とし、宿の最寄り駅へ滑り込む。扉が開くと、冷たい風が車内へ吹き込んだ。
僕は立ち上がり、降りる直前にもう一度アイトを見る。
「ほんとに、大丈夫?」
「大丈夫だよ。ガキじゃねえんだから」
「着いたら……って、連絡できないか」
「明日、工房来りゃいいだろ」
いま、なんて?
来ればいい? 僕はアイトの工房に行っていい?
「うん……うん! じゃあ、明日」
「おう」
僕はホームへ降りた。
扉が閉まり、汽車がゆっくりと動き出す。窓越しにアイトの姿を探すと、彼もこちらを見ていた。
やがて、アイトがちいさく手を上げた。
僕も振り返す。
汽車は速度を増し、ホームの先へ遠ざかっていった。窓の中のアイトが小さくなり、その背後にいる男たちの姿と重なって、やがて見えなくなる。
……背後にいる男?
あの男たち、ここで降りなかった。つまり、まだアイトと────
胸の奥で、心臓が大きく鳴った……大丈夫だ。
何も起きていない。あの男たちだって、ただ見ていただけだ。アイトは男だし、子どもでもない。工房の最寄り駅までは、あと数分しかない。
大丈夫。
そう言い聞かせるたび、心拍は速くなっていった。
でも────病院で聞いた話が蘇る。
最近、女性を狙った暴行事件が相次いでいること。犯人は複数人で行動し、ひとりになった相手を狙うこと。
アイトを見ていた、三人の男。あいつらは、この駅では降りなかった。
僕は汽車の消えた線路を見つめたまま、白い息を吐いた。
大丈夫だ。きっと、大丈夫だ────以前にも、同じことを考えた。
「大丈夫……大丈夫……」
僕は一度、線路へ背を向けた。
その刹那。
────おまえのせいだ。
アイトの声が、耳の奥で蘇る。それはまるで、決して色褪せない荒んだ夢のようで。
冷たい汗が背を伝う。遠ざかる汽車の音が、夜の向こうから聞こえていた。
僕は振り返った。
追いつけるはずなんてない。
それでも、走った。走るしかなかった。
いまも親友と呼んでいいのかは怪しい。少なくとも、正面衝突して喜ばれるような関係ではない。
────が。いまはふたりで腕を組んで歩いている。
「勘違いすんなよ。藍月が見つかるまでだからな」
「わかってるよ」
アイトもまた、カシマさんから聞いた話を頼りにここへ来たという。
あの壁画を訪れた際に、この場所を知ったのだとか。
「あと、歩くの遅いんだよ、ヨカタ」
「僕の方が足長いからね。短い方に合わせるのって難しいね」
「おまえ……二度はないぞ。二度はない」
アイトは色盲だ。ゆえに、夜目があまり効かない。
先ほどの衝突時。彼は僕のように呆けていたのでないが、いかんせん目が役に立たないので、ひたすら下を向いて歩いていた。そしてごっつんこ。である。
だから僕から提案して腕を組んで歩こうと言った。
彼は無論、嫌がったが、腕にしがみつく理由はまだあった。
ぉおおおお────ん…………もすっ。
「うわ、まただ!」
「なんの声だろうね?」
腹の底へ響くような、低い声がした。
僕らは同時に足を止めた。アイトの指が、ぎゅっと僕の腕へ食い込む。
「もすってなんだよ、最後のもすって。おまえ聞いたか?」
「僕らはオスだから、かな」
声は湖の底から響いたようだった。獣にも、人間の呻きにも聞こえる。それが一度遠ざかったかと思うと、今度は僕らの真下を這うように移動してくる。
再び、ぉおおん……もす。と声が響く。
アイトの身体が僕の腕へぴたりと寄った。
「怖い?」
「こ、怖くねえよ。足元が揺れたからだ」
口では強がりながら、離れる気配はない。僕もわざわざ指摘するのはやめた。
湖が三度目の声を上げた頃には、それが恐ろしいものというより、僕らの会話へ時折割り込んでくる妙な同行者のように思えてきた。
「アイト。少し右に寄るよ」
「な、なんで。あんま変な動きすると……」
「氷の下、地面が落ち込んでる」
干上がった湖底には、かつて水が流れていた深い溝が残っていた。薄く戻った湖水はその地形に沿って凍り、僕らの前には緩やかな坂が口を開けている。満月の光では境目がわかりにくく、知らずに踏み込めば一気に滑り落ちそうだった。
僕は平らな場所を選んで迂回しようとした。
けれど、アイトの竦んだ足が氷に挟まる。
「あっ」
引かれたアイトが僕へ倒れ込み、その勢いで僕の靴も滑った。二人して坂へ投げ出され、氷の上をなすすべもなく滑り落ちてゆく。
右へ左へ回転しながら、僕はどうにかアイトの身体を抱え込んだ。直後、背中から氷へ叩きつけられる。肺の空気が一度に押し出され、視界の中で月が大きく揺れた。
「いっ……たぁ……」
「タツキ……生きてる?」
「死んでるかもー」
「生きてんじゃん」
「心配なら人工呼吸してもいいよ」
言ってから、しまったと思った。
アイトの瞳が揺れる。
無人駅の夜が、僕らの間へ戻ってきた。触れかけて、僕が拒んだ唇。あの時と同じ距離に彼の顔がある。
アイトは何も言わず、僕の胸を押して起き上がった。
「バカタレ」
「……ごめん」
僕も身体を起こし、背中についた氷の粉を払う。冗談にしては、踏んではいけない場所を正確に踏み抜いてしまった。
「おまえ、その顔どうした」
暗がりで気づかず、どうやら近づいた拍子に腫れた頬へ気づいたらしい。
「カシマさんと、ちょっと喧嘩した」
「……は?」
アイトの口元が、ほんの少し緩んだ。
「ざまあ」
「どっちに言ってる?」
「両方だよ、ヨカタが」
ふっと、アイトが笑った。
凍りついた湖の上に、わずかな温度が戻る。
「ほら」
僕はもう一度、腕を差し出した。
今度のアイトは文句を言わなかった。僕の袖を掴み、さっきよりも少しだけ近い場所へ並ぶ。
僕らは湖の奥へ進んだ。
氷の下には、沈んだ木片や、水を失って眠る水草、古い瓶や硬貨まで見えた。時間そのものを凍らせ、その上を歩いているようだった。
やがて、氷の下を細い色が走った。
「待って」
僕が足を止めると、アイトも腕を引かれて立ち止まった。
「何かあったか?」
「……青い」
「どこだ?」
「足元。いや、もう少し先だ」
氷の下に、細い藍色の筋が見える。墨を一滴垂らした水が、透明な器の底を這っていくような色だった。それは幾つにも枝分かれしながら湖の中心へ向かい、ひとつの場所へ集まっている。
僕らは色を追った。
歩くほどに藍は濃くなり、やがて氷原の中に、丸い水面が現れた。
そこだけ氷が張っていない。
湖底から湧き上がる水が、凍結を拒むように静かな波紋を広げていた。水は夜空よりも深い藍色をしていて、その真ん中には、空にあるはずの満月が揺れている。
白い月が、藍色の水へ沈んでいた。
────月は地に堕ちる。
カシマさんの言葉が、ようやく意味を持った。
「あったよ、アイト」
僕は声を潜めた。大声を出せば、目の前の光景が壊れてしまいそうだった。
「月が……湖に落ちてる」
*
「今日は、宿に戻る?」
汽車の車輪が、一定のリズムで線路を叩いている。
暖房の効きが悪い車内で、僕らはボックス席に向かい合って座っていた。湖で濡れた手袋を膝に置き、アイトは大事そうに鞄を抱えている。
その中、湖に落ちた月の雫が収まっているのだ。
「いや、工房。この水、今夜のうちに加工しねえと」
「……僕も行こうか?」
「いいよ。レシピならある」
アイトは窓の外へ顔を向けた。
「おまえの妹が解読してくれたやつな」
氷上で少しだけ縮まった距離が、元に戻った。
「うん。わかった」
それ以上、何も言えなかった。
汽車には僕らのほかにも、十人ほどの乗客がいた。仕事帰りらしい人。買い物袋を抱えた老婦人。酒の匂いを纏った、若い男が三人。
僕は気づく────その男たちが、先ほどからアイトを見ている、と。
視線は、長い髪から細い首筋へ落ち、膝や足元を舐めるように往復している。僕と目が合えば逸らすくせに、しばらくするとまたアイトへ戻ってゆく。
「アイト」
「ん?」
「あの人たち……さっきから、アイトのこと見てる」
アイトは一度だけ男たちの方へ顔を向け、すぐに興味を失った。
「ほっとけよ。女みたいに見えるから勘違いしてんだ。残念でゲスね」
「でも」
「大丈夫だって。何もしてきてねえだろ」
「やっぱり、工房まで一緒に行こうか?」
「いいって言ってんだろ」
拒絶というより、疲れた声だった。
「おまえの宿、次だろ。帰って寝ろよ。その顔でうろついてたら、そっちの方が補導されるぞ」
「……わかった」
本当は、わかっていなかった。
ただ、これ以上言えば、せっかく氷上で戻りかけたものまで壊してしまいそうで。僕は口を閉じた。
そうこうしていると、汽車が速度を落とし、宿の最寄り駅へ滑り込む。扉が開くと、冷たい風が車内へ吹き込んだ。
僕は立ち上がり、降りる直前にもう一度アイトを見る。
「ほんとに、大丈夫?」
「大丈夫だよ。ガキじゃねえんだから」
「着いたら……って、連絡できないか」
「明日、工房来りゃいいだろ」
いま、なんて?
来ればいい? 僕はアイトの工房に行っていい?
「うん……うん! じゃあ、明日」
「おう」
僕はホームへ降りた。
扉が閉まり、汽車がゆっくりと動き出す。窓越しにアイトの姿を探すと、彼もこちらを見ていた。
やがて、アイトがちいさく手を上げた。
僕も振り返す。
汽車は速度を増し、ホームの先へ遠ざかっていった。窓の中のアイトが小さくなり、その背後にいる男たちの姿と重なって、やがて見えなくなる。
……背後にいる男?
あの男たち、ここで降りなかった。つまり、まだアイトと────
胸の奥で、心臓が大きく鳴った……大丈夫だ。
何も起きていない。あの男たちだって、ただ見ていただけだ。アイトは男だし、子どもでもない。工房の最寄り駅までは、あと数分しかない。
大丈夫。
そう言い聞かせるたび、心拍は速くなっていった。
でも────病院で聞いた話が蘇る。
最近、女性を狙った暴行事件が相次いでいること。犯人は複数人で行動し、ひとりになった相手を狙うこと。
アイトを見ていた、三人の男。あいつらは、この駅では降りなかった。
僕は汽車の消えた線路を見つめたまま、白い息を吐いた。
大丈夫だ。きっと、大丈夫だ────以前にも、同じことを考えた。
「大丈夫……大丈夫……」
僕は一度、線路へ背を向けた。
その刹那。
────おまえのせいだ。
アイトの声が、耳の奥で蘇る。それはまるで、決して色褪せない荒んだ夢のようで。
冷たい汗が背を伝う。遠ざかる汽車の音が、夜の向こうから聞こえていた。
僕は振り返った。
追いつけるはずなんてない。
それでも、走った。走るしかなかった。



