17歳のスノードーム


 まさか凍った湖の上を歩くことになるなんて。

 ────満月の夜だけ、湖に氷が戻る。そして月は地に堕ちる。

 カシマさんはそう言っていた。

 スノードームに閉ざされて以来、守矢湖から奪われた水は、街を覆う氷壁の一部となっている。けれど満月の夜に限り、そのうちのわずかな水が湖へ還される。干上がった湖底を薄く満たし、凍てつく外気に触れたそばから氷へ変わってゆくのだという。

 見渡すかぎり、一面の氷だった。
 空を仰げば、スノードームの向こうに満月が滲んでいた。いつもなら絶え間なく降り続ける細雪も、今夜は申し合わせたようにやんでいる。

「月が地に堕ちる、ねぇ……」

 ずいぶん詩的な言い回しだ。カシマさんのような男が口にすると、この世のどんな怪異も上等な口説き文句になってしまうから腹が立つ。
 そのカシマさんに殴られた頬は、冷気に触れるたびじんじんと痛んだ。唇の端も切れているし、脇腹には蹴られた跡が残っている。

 ついさっきまで。殴り合いをしていたのだから是非もない。

 *

「なんなんですか……はぁ……めっちゃ強いじゃないですか……」
「はぁ、痛いじゃないか……これが若さか、まったく」

 病院の裏には休耕地が広がっていて、降り積もった雪がうまい具合にリングの役割を果たしてくれた。
 僕はジムの館長の車からグローブを2組拝借して、ひとつをカシマさんに放った。
 ルールはMMA……と言いたいところだが、要は喧嘩だ。
 ゴングもなく、拳を合わせるでもなく、どちらともなく気づけば殴りかかっていた。
 時間にしてどのくらい経っただろう。気にもせぬまま、拳が風を切る音に僕らは身を浸した。

「アイトから告白されたんですか!」
「僕からだよ」
「未成年に手ぇ出すなんて犯罪ですよ!」

 右フック、左ストレート。タックルにテンカオ。攻防を繰り広げながら互いに言葉を交わした。
 言うなれば「アイト問答」といったところだろう……ここにアイトがいなくてよかった。心からそう思う。

「けどね、彼も傷ついていたんだ。だから慰めてほしかったんだよ、彼も」
「この、ムッツリスケベが……!」
「ははっ。気付いてないのかい?」
「えっ」
「彼が僕と付き合うことになったきっかけは……キミだよ。タツキくん」

 カシマさんのボディブローが突き刺さった。

「ぐ……てめ、卑怯だぞ……油断させて……」
「本当のことさ。キミが彼女を作ったときいて。彼は寂しくて仕方なかったのさ。そう言っていたからね」
「えっ……ぐぅ!」

 今度は顔面に右フック。モロに食らった。僕は雪原に仰向けに倒れた。
 カシマさんは僕にマウントポジションをとり、パウンドを容赦なく繰り出してきた。僕は必死にガードする。

「彼はいつも、キミのことばかり話していたよ!」

 右、左。パウンドの雨が降り注ぐ。

「タツキが……タツキが……ってね。まったく……バカにするなよ……!」

 僕のガードが弾かれた。そして、強烈な一撃が僕の左頬に突き刺さった。
 それを最後に、攻撃は止んだ。

「はぁ……はぁ……もういいだろう。タツキくん、ナイスファイトだった」

 彼はマウントポジションを解いて立ち上がった。グローブを脱ぎ捨て、白いワイシャツをぱんぱんと叩いた。そして、空を見上げてふぅ〜っと大きく息を吐いた。

「タツキくん。空を見てごらん」

 僕は仰向けのまま言われた通りにする。

「今日は満月だ。スノードームだから、壁に遮られて月は見えないけれどね」
「だから……なんですか?」
「守矢十色の素材。この日しか手に入らないものがある」

 えっ。と、僕は身を起こした。
 もうそんなもの手に入れようが仕方ないのに。カラダはどうしたって反応してしまう。

「キミに教えてあげるよ。どこに行けば手に入るか」

 カシマさんは、僕にハンカチを放り投げてそう言った。

 *

 ────僕の負けだから
 そう言って去っていったカシマさんの背中を思い出す。
 そして「手土産を持って、彼に謝りにいきなさい」とも。

「いい人なのか、ヤなやつなのか。どっちかにしてくれよ」

 僕はコートの襟を立て、氷原の奥へ歩き出した。
 喧嘩をふっかけた手前。僕も大手を振って歩く気分じゃないからだ。

「今日だけ手に入る素材……か」

 探すのは、藍月(あづき)。
 正確には、その原料となる藍色の水だ。満月の夜、この湖のどこかに泉が湧く。見つける手立ては、それだけ。方角も距離も、目印のひとつさえわからない。

 守矢湖の周囲は、およそ十六キロあるという。数字だけなら体育の授業で聞き流せる程度だが、こうして自分の足で湖の上に立ってみると、ほとんど大陸だった。岸の灯りは歩いても歩いても遠ざからず、氷の果ては暗がりと溶け合って見えない。

 泉を求めて氷原を彷徨う僕は、さしずめ砂漠の旅人だろうか。
 しばらく歩くうちに、靴が氷を擦る音にも飽きてきた。聞こえるのは、自分の呼吸と足音ばかり。立ち止まれば、世界から僕ひとりだけが取り残される。

「アイト……」

 ふと、思った。僕が、アイトに出会っていなかったら。
 あの日、転校先の教室で、窓際の席に彼がいなかったなら。虫籠を机に置いた、髪の短い少年がこちらを振り返らなかったなら。
 僕は誰と友達になって、どんな17歳になっていただろう。
 母さんに女の子として扱われることを、いつか疑問にも思わなくなっていただろうか。父さんが用意した久世さんと付き合い、彼女を好きになった自分を疑わず、インクリボンに隠された“正解”を待ちながら、もっと穏やかに生きていただろうか。

 誰かを傷つけた記憶もなく。
 胸にかんざしの傷もなく。
 彼の唇を意識して、眠れない夜を過ごすこともなく。

 そんな自分を思い描こうとしたけれど、どうしてもうまくいかなかった。

 教室の窓辺。
 僕の手を引いて、いじめっ子たちから逃げてくれた小さな背中。
 朽ちた神社で、切り刻まれた僕の髪を揃えながら泣いてくれた横顔。
 お揃いのかんざし。
 鉱物を砕く音。
 青い粉を赤へ変え、得意げに笑う魔法使い。

 ひとつ浮かぶたび、次のアイトが現れる。

 あいつを取り除いた僕の人生は、穴だらけだった。思い出の中からアイトだけを抜き取れば、僕まで一緒に消えてしまう。どうやら僕という人間は、自分で思っていたよりもずっと多くの部分を、あいつに寄りかかって作られているらしい。
 その事実が少し怖くて。僕は足元へ視線を落としたまま歩き続けた。

 ────だから、前方に人がいることにも気づかなかった。

「あっ!?」
「まっ!?」

 ごつん、と額同士がぶつかり、二人分の靴底が盛大に滑った。僕は咄嗟に相手の肩を掴み、相手は手にしていた細長い棒を氷へ突き立てる。危うい格好のまま踏みとどまり、互いの顔を至近距離から見つめた。

「ご、ごめんなさ……え、なんで……人?」

 なぜ人とぶつかるのか。ここは氷上。路上ではない。
 ゆえに謝罪は途中で萎んでゆく。
 みれば、相手は深くかぶったニット帽。そこからこぼれるロングウルフの髪。白い頬と、ほんの少し上を向いた赤い鼻。
 これは────

「……アイト?」

 相手の瞳も、驚いたように見開かれた。

「タツキ……?」