17歳のスノードーム


 大正時代のサナトリウムを改装した病院が見えてくると、車が停まりきるよりも早くナズナはドアを開けた。靴底を滑らせながら雪の中へ飛び出し、こちらを振り返ることもなく玄関へ駆け込んでゆく。

 受け付けで事情を話すと、二人の警察官が僕らにことの次第を話してくれた。

「命に別状はないがね」
 
 警官は廊下の奥へ視線をやってから、声を落とした。

「若い女性が男に襲われているところへ、与座さんが居合わせたそうで。女性を助けようとして揉み合いになり、その際、相手が所持していた刃物で腕を切られました」
「犯人は?」
「与座さんが取り押さえましたよ。腕を負傷した状態でね」

 襲われた女性にも大きな怪我はない。偶然近くを車で通りかかった人物が二人を病院まで運び、その後、警察へ知らせたという。

「ただ、最近この辺りで、女性を狙った暴行事件が相次いでいましてね。今回の男がすべてに関わっているかは、まだわかりません。しばらくは日が暮れてからの一人歩きを控えてください。特に若い方は」

 ナズナも聞いているのかいないのか、病室のある廊下を見つめたまま、早く行かせてくれと身体中で訴えていた。

「えっ?」
 
 つい声が漏れた。その視線の先、長椅子にひとりの男が腰掛けていたのだ。
 黒いロングコート。磨かれた革靴。病院の陰気な廊下へ妙に馴染む、落ち着き払った横顔。

「カシマさん……」

 僕の声に気づき、カシマさんは顔を上げた。

「おや、タツキくんか。キミはどこにでも現れるな」

 こっちのセリフだ。
 だが、ギンスケくんを病院に運んでくれたのは彼らしい。
 正直、いまもこれからも見たい顔では決してないが。

 *

「ギンちゃん……」
「ナズ」

 病衣姿のギンスケくんは、いつものように彼女を呼んだ。
 ナズナは寝台へ駆け寄り、左手で胸元を何度も叩いた。

「バカ! バカバカバカ、なにやってんの! 刃物持ってる相手に飛び込むとか、プロが路上で喧嘩するとか、ほんっとバカ!」
「痛っ。そこ、刺されたとこ」
「知らない! もっと痛がれ! 反省しろ!」
「助けた女の人は無事だぞ」
「ギンちゃんが無事じゃなかったら、なんの意味もないじゃん!」

 泣きながら怒鳴るナズナを、ギンスケくんは静かに見つめていた。その左手が彼女の頭へ伸びかけ、けれど髪に触れる直前で止まり、力なく布団の上へ戻る。
 やはり。二人の間には触れてはならない薄い膜が残されていた。

「来てくれて、ありがとな」
「……当たり前じゃん」
「でも、これで話をなかったことにはすんなよ」

 ナズナの肩が強張る。

「いま……関係ないでしょ」
「じゃあ、いつなら? 約束しただろ。予報どおりになったと思ったら、逃げずに話すって」
「まだ、インクリボンの予報どおりになったって決まったわけじゃない」
「なら、そう言えばいい。俺のことが前と同じように好きだって」

 ナズナの口が開く。けれど、言葉は出なかった。

「僕らは外にいよう」

 カシマさんが、僕の肩へそっと手を置いた。
 拒む理由を見つけられないまま、僕は病室を出た。

 古い引き戸は建てつけが悪く、最後まで閉めても指一本分ほどの隙間が残った。その向こうから漏れてくる二人の声を盗み聞きするつもりはなかったのに、静まり返った廊下では、囁きすら耳へ届いてしまう。

「好きじゃないわけじゃないの」

 ナズナの声。そして長い沈黙が落ちた。
 隣に立つカシマさんは腕を組み、壁へ背を預けている。僕が病室から離れられずにいることへ、何も言わなかった。

「ギンちゃんが怪我したって聞いた時、死んじゃうかもしれないって思った。そしたら、息ができなくなった。顔を見たら安心したし、触りたいとも思った。ずっとそばにいたいって、今だって思ってる」
「うん」
「でも、前と同じかって聞かれたら……わかんない」
「ナズの気持ちは、ナズのもんだろ。インクリボンが決めたんじゃねえよ」
「そんな簡単に言わないで」
「だからこうやって話してんだろ」

 また、沈黙。
 今度はナズナの啜り泣く声が混じっていた。

「あたし、ギンちゃんを好きだったことまで、間違いにされたくない」

 ギンスケの声が、わずかに近くなる。きっと、ナズナの方へ身を乗り出したのだろう。

「俺と付き合ってた時間、無駄だったか?」
「そんなわけない!」

 返事は、ほとんど叫びだった。

「楽しかった。すっごく楽しかったよ。ギンちゃんと出会って、好きになって……あたしの人生の中で、あの時間が一番大事だったって、今だって言える」
「なら、それでいいじゃないか」

 ナズナは答えなかった。

「別れたからって、好きだった頃の俺らまで、未来から消されるわけじゃない」
「ギンちゃんは……まだ、あたしを好きなの?」
「好きだよ」

 その答えには、迷いがなかった。

「だから、好きじゃなくなりかけてるおまえを、予報に勝つためだけに恋人のまま縛りたくないんだよ」

 病室の中で、ナズナが泣いた。
 声を押し殺そうとして、それでも隠しきれずに漏れてくる、幼い泣き声だった。

「ずるいよ。そんなこと言われたら……別れたくないって思うじゃん」
「だったら、俺が言うか?」
「嫌。あたしが言う」

 そのあとに続く言葉が何なのか、わかっているのに。
 僕は息を止めた。

「ギンちゃん……別れよう」

 二人の恋が、終わった。
 インクリボンの予報通りなら、ナズナにとってはこれが人生最後の恋かもしれない。

 鐘が鳴ることも、雪が止むこともなかった。病院の廊下は何ひとつ変わらず、窓の外では相変わらず細雪が降っている。
 世界にとっては、17歳の恋人同士が別れただけだ。

 それでも二人にとっては、これまで存在していた世界をひとつ、終わらせるほどの出来事だった。

 *

「いい勉強になったね」

 窓辺へ歩いてゆくカシマさんの横顔には、ナズナたちを嘲る様子などなかった。それでも、彼のひと言は僕を苛立たせるのに十分だった。

「大人にとっては些細に見えることが、キミたち17歳にとっては死活問題だものね」
「……些細?」

 僕の声に棘を感じたのだろう。カシマさんが振り返る。

「大人になれば、多くの人は似たような別れを経験する。だからこれも勉強ってこと」
「……あんた、なに様なんだ?」

 カシマさんの眉が、わずかに上がった。

「あんたにも17歳の時はあったでしょ? みっともなくて青臭くて」
「……キミは永遠を信じてるのかな?」

 ため息まじりに。カシマさんは、窓の外へ視線を戻した。

「永遠なんてものはない。キミたちの年頃は何かと永遠という言葉を使いたがるけれどね。ずっと好きだよ。ずっと一緒だよ。死ぬまで離れない────そんな約束を交わした大半の人間が、いずれ別れ、別の誰かを愛する」

 病室の中では、ナズナがまだ泣いている。
 その隣で、ギンスケが何かを話していた。内容までは聞き取れないけれど、きっと彼女を慰めようとしているのだろう。

「インクリボンにも、永遠という言葉だけは存在しないんだ」
「だから、なんですか」
「永遠ではないからこそ、その時々で選び直すしかないということだよ。ナズナさんたちは、今日、自分たちで選んだ。予報に従ったのでも、逆らうことへ固執したのでもなくね」

 カシマさんの言っていることは、おそらく正しい。
 いつだって正しい言葉を選び、どれだけ残酷なことでも、美しい標本のように並べ替えてみせる。アイトとの関係も、きっとこの人の中ではそうなのだ。ひとつの恋が終わり、互いに違う道を選んだ。それだけのこととして、静かに整理されている。

 僕はきっと、それが許せない。
 心のどこかにアイトを飾って眺めている、この男が。

「アイトのことも、そうやって捨てたんですか?」

 カシマさんの目が、ゆっくりと僕へ向けられる。

「キミはそればかりだな。アイト、アイト……アイト」

 いいだろう。と、彼は口元に笑みを浮かべた。
 だが、目は1ミリも細まっていない。

「キミは僕が気に入らないんだろう?」
「ええ、まあ。あんたのせいで色々とこじれてしまったんでね」
「奇遇だね。僕にも多少覚えがある」

 空気が一瞬で変わった。
 この感じ。僕は彼が何を言わんとしているか気づいてしまった。ならばやることは決まっている。
 ────カウンターだ。

「ケン────」
「喧嘩しましょうよ。カシマさん」

 男がふたり、対角線上にいるのだ。
 必然。と言えないこともない。