ハリウッド映画なんかを見ていると、こういうシーンに出会うことがままある。
サンドバッグを殴りながら、ひとり物思いに耽るというものだが。
お馴染みの格闘技ジム。もう何日入り浸っているだろう。
────おまえだけにしか、見てほしくなかったのに!
ダメだ。アイトのことばかりが、瞼から消えない。
「あ、しまった……ぐぅ!」
呆けていた。思い切り殴ったサンドバッグが大きく跳ね、自分の元に勢いをつけて戻ってきたのだ。
僕はその重量に突き飛ばされ、無様にマットへと尻餅をついた。
「なにやってんだ……俺は」
古墳でアイトと絶交してから、三日が経つ。
当然、彼を遠くから眺めることすら叶わないままだ。
「あー、なんかで見たな、こういうの。なんの映画だっけ」
耽二郎先生もいなければ、それこそ静まり返ったジムだけれど、今日は見物客もいる。
「あれだ。星条旗のコスプレして盾持って戦うマッチョの映画」
「うん。だいたいわかるけど、こういうシーンはないと思う」
────ナズナだ。
僕がアイトと絶交したので、もう十色の素材探しは終わりだ。そう彼女にも伝えたのだが、ナズナは未だに図書館やら博物館やらを駆け回り、解読に勤しんでいる。
「さて、解読の成果を報告する前に……」
ナズナが僕の鞄を漁っていた。中から取り出したのは、一通の封筒だ。
「久世さんからの手紙、やっぱ読んでなかったか。ほら、いま読んで」
久世ツムギ。
拾い上げた封筒の裏には、彼女の名前がある。
「読んだよ」
「嘘つくなし。ノリぴったりついてるじゃん」
「開封してから、僕が再度封をしたんだよ」
「なにそれ……きっしょ」
これは、僕が出した手紙への返事だ。
久世さんの文字は、相変わらず綺麗だった。僕の手紙が届いて嬉しかったこと。体調を気遣うこと。
そして、最後に。一首の歌が書かれていた。
『三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい』
意味はよくわからなかった。殺す、なんて久世さんらしくないと思ったくらいで。
「ナズナ、この歌の意味知ってる?」
丁度いい。インクリボンでも絶賛されている頭脳派少女に、僕は尋ねてみることにした。
「あー、それ。高杉晋作でしょ。たしか遊女のために詠んだ歌じゃなかったかな」
「返答がAIより早いな……意味とかわかる?」
「三千世界ってのは、まるっと世界中。カラスはぴーぴーうるさい鳥、つまり人の視線。よって、意味は……世界中の奴らを皆殺しにして、あなたとエッチしたあとずっと寝てたい……ってこと」
意訳は酷いが、妙に腑に落ちてしまった。
久世さんはきっと、あの夜のことを忘れていないと僕に告げているのかもしれない。
あんな夜だったというのに、彼女にとっては尊い記憶なのだろうか。
僕は……久世さんでなく、あいつを想っていたというのに。
それだけじゃない。僕はスノードームでも、めいっぱい彼女を裏切ろうとしたじゃないか。
────アイトと、キスをしようとした。
「なんて……最低なんだろう」
あの記憶さえ浮かばなければ、僕はアイトにキスをしていたのだから。
「よっし。なんか罪の意識に苛まれてるみたいだから、ここらであたしの解読結果を見せてあげるよー。まずはこの古戦場の地図を……」
意気揚々と、ナズナは解読の成果を話してくれた。
普段と変わらない。よく舌の周る、滑舌のはっきりした雄弁家だ。理路整然として、論理に破綻がない。
でも……声が震えている。たぶん”彼“のことだろう。
「ナズナ。もういい加減に、話してくれないか?」
「……なにが」
「僕が話を振ってくれるのを待ってただろ。僕がアイトと絶交したって聞いた時、ナズナも何か言いたげだった。ごめん、あの時は他人のことは気にかける余裕がなかったから」
すると、ナズナは腹立たしそうに鼻を啜った。
「……当てたら話してあげる」
「ギンスケくんのこと。そうだろ?」
ナズナは大きくため息をつき、ファイルを横に除けた。
そしてしばらく迷った末、鞄から銀色の封筒を取り出した。あの日、旧採石場で見せてもらったインクリボンの原本だ。
「あたしの“不正解”、知りたがってたじゃん」
「見せてくれるの?」
「見せないよ。言うだけ」
封筒を胸の前で抱え、ナズナはマットの上へ視線を落とした。
「あたしの不正解は、恋に人生の時間を浪費すること」
一瞬、冗談なのかと思った。
けれど、ナズナは笑っていなかった。
「生まれ持った知能が高くて、学術領域への適性も強い。ひとつのことへ集中すれば、人よりずっと遠くまで行ける可能性がある。だから、恋愛に憧れたり、誰かに執着したりして、時間も能力も使うことは許されないんだって」
「それを……不正解って?」
「そ。おまけに17歳のある時期を境に、恋愛への憧れとか、相手に執着する気持ちが急激に低下するって書いてある。だったら、消えるものに時間を使うより勉強しろ、研究しろ、世の中の役に立てってことみたい」
まるで、自分とは関係のない書類を読み上げるような口ぶりだった。
けれど、銀色の封筒を掴んだ指先だけは、紙の縁に血が滲みそうなほど強く折れ曲がっている。
「ギンスケくんの名前が、書いてあるわけじゃないんだよね」
「うん。あたしがギンちゃんと出会うなんて、生まれた時には決まってないから。ただ、誰が相手でも同じ。恋なんて、あたしの人生には必要なくなるってさ」
ナズナはそこで初めて笑った。いつもの、相手までつられて楽しくなるような笑顔ではない。唇の端だけが、壊れかけた玩具のように持ち上がった。
「だから来たんだよ。ギンちゃんと一緒に、スノードームの中へ」
何もしないまま恋が終わり、ほら当たったでしょうとインクリボンに勝ち誇られるのが嫌だった。だから二人で予報の中へ飛び込み、毎日顔を合わせて、手をつないで、好きだと確かめ続ければ、決められていた未来を違う形にできると思った。
「ギンちゃんとは約束したの。その時が来たと思ったら、逃げないで話そうって。好きじゃなくなったフリもしないし、まだ好きなフリもしない。ちゃんとふたりで、どうするか決めようって」
旧採石場で、ナズナは女子組と男子組に分かれようと言った。ギンスケくんが隣へ来ても耽二郎先生へ抱きついたままで、彼が差し出した手にも触れなかった。
「……でもさ。いざとなると怖くて」
ようやく落ちた声は、驚くほど小さかった。
「前はね……ぜんぶ好きだったの。好きだったのに……」
ナズナは封筒へ爪を立てた。
「でも、この前。ギンちゃんが話してる途中で、早く終わらないかなって思っちゃった。刺青の続きが読みたくて、ひとりになりたいって。ほんの一瞬だよ? 疲れてただけかもしれないし、付き合ってたらそういう時くらい普通にあるじゃん。わかってる、そんなの。なのに……あたしの頭の中には、すぐインクリボンの文章が浮かんで消えなくて」
17歳のある時期を境に、恋愛への憧れと執着は急激に低下する。
それ以来、自分の気持ちを確かめることをやめられなくなった。ギンスケくんに会うたび嬉しいか、手をつなぎたいか、別れたあと寂しいか。ひとつひとつ測っては昨日の自分と比べ、少しでも違っていると、これが予報の始まりなのではないかと怯える。
「好きって、そんなふうに毎日検査するもんじゃないのにね」
ナズナの目から、涙がひとつ落ちた。
「あたし、頭いいんだって。人が見てもわかんない刺青の暗号まで解けるんだって。だったら、自分の気持ちくらい読めよって思うじゃん。好きなのか、好きじゃないのか。そんな簡単なことくらい、わかれよって」
落ちた涙を追いかけるように、次の雫が頬を滑ってゆく。
「でも、全然わかんない。ギンちゃんが試合で殴られたら怖いし、勝ったら嬉しい。他の女の子と仲良くしてたら、たぶん今だって嫌。顔を見たら、好きだって思う時もちゃんとあるの。なのに、ひとりの方が楽だって思う時も増えてきて……どっちが本当のあたしなのか、わかんないんだよ」
「ナズナ……」
「諦めたくない。あたし……ギンちゃんのこと」
涙に濡れた目が、縋るように僕を見る。
「あたしとギンちゃんが一緒にいた時間を、将来なんの役にも立たない浪費だったことになんかしたくない。初めて手をつないだ日も、告白された日も、負けた試合のあとで一緒に泣いたことも、全部無駄じゃなかった。たとえ別れることになったって、好きだったことまで不正解になるわけないじゃん」
わかっているはずなのに、とナズナは自分へ言い聞かせるようにつぶやいた。
「なのに怖いの。ギンちゃんに話したら、本当になっちゃいそうで。前みたいに会いたいって思えない日があるって言ったら、ギンちゃんはきっと、あたしを自由にしてくれるから」
「そんな……簡単に?」
「ギンちゃんはね。お兄ちゃんと違ってイイ男なの」
泣きながら笑おうとして、失敗する。
「あたしがもう好きじゃないって言ったら、自分がどれだけ辛くても、わかったって言うよ。ナズが決めたならって。あたしを縛って、嫌われるくらいなら手を離す。そういう人だから……話せない」
「それじゃ……でも、約束したんだろ?」
「したよ! だから苦しいんじゃん!」
ナズナの声が、道場中を震わせた。
「約束を破りたいわけじゃない。ギンちゃんから逃げたいわけでもない……ずっとそばにいてほしい。でも、そばにいられると自分の気持ちを確かめちゃうから、怖くて離れたくなるの。会いたいのに会いたくない。好きなのに、好きかどうかわからない。そんなの、どうやって話せばいいの?」
答えられなかった。
ナズナは、消えていくかもしれない恋を認められず、ギンスケくんから逃げている。
僕は、生まれてしまったかもしれない恋を認められず、久世さんを騙し続けている。
あべこべの場所に立っているようで、していることはよく似ていた。相手を傷つけたくないと言いながら、真実を伏せて、相手が自分を好きでいてくれる時間だけを引き延ばしている。
僕とナズナは、それきり黙り込んだ。誰にも殴られなくなったサンドバッグだけが、古い梁から下がったまま、僕らの交互に見比べてはため息をついているようだった。
ドタドタドタ! と。
ストーブの石油が終わりかけた匂いがしてきた頃、廊下の向こうから、床板を踏み鳴らす足音が近づいてきた。
「こりゃ参った、参った!」
襖を開けて飛び込んできたのは、ジャージの上に半纏を引っかけた館長だった。普段は受付で新聞を読みながら、世界の終わりでも起きないかぎり立ち上がりそうにない人なのに、今日は額に汗を浮かべ、息を切らしている。
「いやぁ、大変だ大変だ。お、有賀くん。まだいたのかね」
「あの、どうかしたんですか」
「そうそう、いましがた警官から連絡がきてね。うちに練習にきてくれてたあの、プロの子。あの子が病院に搬送されたって」
プロの子? それって────
「……ギンちゃん?」
ナズナの顔から、すっと血の気が失われた。



